はやりすたれの医療学

第1回

医療の歴史も「はやりすたれ」のくりかえし?

2018.05.27更新

 私が大学生になりたてのころ、分子生物学の教科書の輪読会に参加しないかと誘われました。教科書の名前は「モレキュラー・バイオロジー・オブ・ザ・セル」、細胞の分子生物学というタイトルで、学生仲間では「セル」と短く呼んでいました。電話帳よりも大きなサイズの本で、英語版でも1万円以上、日本語訳は数万円もしました。私はとても英語版を通読する自信がなく、大枚はたいて日本語版を買い、輪読会に出かけてみました。

 指導をしてくださったのはI先生、ひょうひょうとしたいかにも好々爺という元教授で、生き馬の目を抜く研究の第一線で活躍しながら講義も受け持つ、現役の教授たちとはずいぶんと雰囲気が違いました。土曜日の朝のがらんとした教室で、参加者は数人。医学部以外にも、理学部の学生や、なかには弁護士資格を取ってさらに勉強したいという熱心なひともいました。

 大学受験のとき、私は生物を選択した少数派でした。生物は、数字で答えが出る物理や化学と違って、記述式答案が多く理系学生には敬遠されていました。それで少々得意なつもりで輪読会に参加したのですが、研究のプロを育てる大学の教科書はやはりむつかしい! 高校時代の生物とは大人と子供ほどの差があります。

 自分が理解できないところは適当に飛ばして読んだり、時々朝寝坊して遅刻したり、私はいい加減な学生でしたが、I先生は穏やかな物腰で分け隔てなく接してくださって、手書きのハンドアウトを配って教科書に関連する話題を提供されました。真面目に勉強した弁護士さんはその後海外に留学され、今では知財領域では有名な専門家になっておられます。

 さて、1年半ほどで輪読会は最終回をむかえ、私達はささやかな昼食会を催しました。その席で、I先生は一冊の本をプレゼントしてくださいました。それは先生の自叙伝でした。戦後まもなくの時代に医師となられ、小児科病棟でたくさんの白血病の子供たちを看取ったI先生は、あまりの医学の無力さに一念発起し、研究の世界に飛び込みます。

 当時、血液病理学の権威で有名だった天野重安教授のもとで、ウィルスと発がんの関係という巨大なテーマの研究にとりかかりました。来る日も来る日も、白血病にかかったマウスを解剖して、当時の最先端であった電子顕微鏡で白血病の細胞を観察する毎日を過ごし、試験管の中でひとりでに増える白血病細胞のクローンを発見するなど、研究成果が上がり始めた時期に恩師の天野教授が亡くなり、心機一転、イスラエルに研究留学されました。

 かの地では英会話に苦労しながらも、研究に費やされる潤沢な資源と立派な設備、そして親身なボスの指導に支えられ、「ある条件で試験管の中の白血病細胞が正常の血液細胞に戻る」分化誘導という現象を発見します。

 これは病気の治療に直結する重大な事実ですが、どんな条件なら病気の細胞が正常になるのか、が解明されないとどうしようもありません。I先生は、細胞が浮遊する試験管の溶液の中に、その手掛かりがあると考えました。これまでのキャリアの大半は、顕微鏡で細胞の微細な構造や、ウイルスが細胞を出入りする様子を観察して記録・分析する「形態学」という手法で研究業績を積み重ねてきました。ところが、試験管の溶液にどのような物質が解けていて、それが細胞をにどう影響しているのかを調べる学問は、「生化学」といって全く違う研究分野です。この2つは、昆虫や草花を捕まえて虫眼鏡で観察してスケッチするのか、実験室で謎めいた色の液体が入ったフラスコを扱うのか、というぐらいの違いがあるのです。

 しかも、「生化学」の背後には、1950-60年代から「分子生物学」という学問分野が急激に発達してきました。これは、A(アデニン)・T(チミン)・G(グアニン)・C(シトシン)、たった四種の塩基と呼ばれる文字で書かれた、DNAという生命の設計図を読み解く、という学問です。AGGTCGGATT・・・というような無味乾燥な文字列が、どのように細胞の部品を作り、細胞の部品がどのように組みあがって生命になるのか、その暗号解読に世界中の研究者が夢中になっていたのです。

 このとき、いままで愚直なまでに「形態学」一筋にうちこんでいたI先生は、あと定年まで数年を残すのみでした。それまでのキャリアを捨てて、一から素人も同然の勉強を始めましたが、先生にとって研究の最前線はあまりにも遠いところにありました。こんなことでは「京大教授」を名乗る値打ちがない、とひと思いに任期途中で辞職する道を選ばれました。

 その後、歌人としても有名であった愛弟子のN教授に「お小遣いをもらって」、自分が挫折した「生化学」「分子生物学」の勉強を、大学に入ったばかりの生徒と一緒に続けられていた、ということだったのです。私は先生の自叙伝を読んで、教科書「セル」に込められた熱い思いを初めて知るととともに、学問の世界の厳しさを思い知らされました。

 学問は、一生懸命やってさえいれば必ず報われる、とは限りません。投入した努力に比例して結果が自動的に出るような、甘っちょろい世界ではないのです。ときには、思い付きでパッとやったことが大発見になったり、人生の大半を費やした研究が死後にようやく実を結ぶこともあります。それには、やはり運、というか「ブームに乗る」という要素に左右される部分があることは否めません。

 約30億塩基といわれるヒトの膨大なDNA情報は、解読に果てしない時間を要するかに思われましたが、2003年に完全に明らかにされました。私の大学卒業の翌年、I先生が亡くなられてわずか3年後のことです。「ヒトゲノム計画」と銘打たれ、数十億円の巨費と10年以上の時間を費やした国家規模のプロジェクトでしたが、それがいまではわずか数日、10万円前後で全遺伝情報が読めます。もはや「分子生物学」は"終わった"学問分野で、いまでは滝のように流れ込む天文学的な量の情報をどう捌くか、統計学やコンピュータを駆使した情報科学(バイオ・インフォマティクス)に研究者たちの関心が移っています。

 一方、I先生が目撃した「がん細胞が正常に戻る」分化誘導という現象は、白血病のうちでも最もタチが悪いといわれたタイプで、すでに治療に応用されています。ビタミンAの類似物質を大量に投与すると、異様な形の細胞がおとなしい普通の血液細胞に変わっていきます。その他の抗がん剤と違い、正常の細胞に与える影響が小さく、身体への負担が大変に軽い治療法です。今ではどの医学教科書にも書かれている事実ですが、これが最初に発見されたのは中国の上海で、しかもI先生が引退を決心されたころの話なのです。

 そう思うと、先生はちょっと潔すぎたのではないか、まだアジアの科学者同士で実りある指導ができたのではないかと考えてしまいます。

 医学の進歩、技術の発達、というと、毎日毎日新しいニュースが入ってきて、次々に謎が解き明かされ、いままで治らなかった病気が治るようになる、そんなイメージを持たれるかもしれませんが、I先生の研究者人生を見るとわかるように、決して一本調子の上り坂を登るように現在の医療があるわけではありません。

 数年前まで非常に話題になっていたのに今や忘れられたり、何十年も日の目を見なかった研究が突然脚光を浴びたり。

 トマス・クーンという哲学者は、主流の学問が入れ替わる様子を、王朝の興亡や政治体制の革命になぞらえましたが、私には、もっと軽いファッションや流行ソングのように見えます。

 そのはやりすたれを、医療の歴史の中に追ってみたいというのが、これから始まる連載の趣向です。おつきあいいただけたら幸いです。

津田 篤太郎

津田 篤太郎
(つだ・とくたろう)

1976年京都生まれ。京都大学医学部卒業。医学博士。聖路加国際病院リウマチ膠原病センター副医長、日本医科大学・福島医科大学非常勤講師、北里大学東洋医学総合研究所客員研究員。日本リウマチ学会指導医、日本東洋医学会漢方専門医・指導医。NHKの人気番組「総合診療医ドクターG」の医事指導を担当。著書に『病名がつかない「からだの不調」とどうつき合うか』(ポプラ新書)、『漢方水先案内』(医学書院)。共著に『未来の漢方』(森まゆみ、亜紀書房)、『ほの暗い永久から出でて』(上橋菜穂子、文藝春秋)がある。

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