文学のなかの生命

第11回 偶然を愛する。―カート・ヴォネガットの宇宙

2017.09.26更新

 「メッセージのあるなしにかかわらず、物事はあっちこっちへと飛びかうんだよ、きみ。
それはたしかに混沌だ、なぜなら宇宙はいま生まれつつあるからだ。」

-カート・ヴォネガット・ジュニア(『タイタンの妖女』)

 僕たちは、ひさしく偶然を忘却している。

 生命の最初の生存戦略は、偶然とつきあい、偶然をコントロールすることだった。ランダムで不確実な世界に対応していくことが、生命がはじめに取り組まなければならない課題だった。過去を記憶し、未来を予測し、少しずつ偶然を制御することに成功した生命は、その制御システムを知性と名づけた。

 知性が照らす世界は、それゆえ確実で計画的なものとして現れる。ときおり、知性の網目から取りこぼされた世界の不可解さは「不条理」と呼ばれた。そしていつしか生命は、偶然を忘れてしまった。しかし世界は、いつも根本的な偶然性にさらされている。

不条理と笑い

 ヴォネガットの描く物語は、荒唐無稽で混沌に満ちている。その無茶苦茶ぶりは、私たちが物語を理解しようとすることをさえ拒むようである。しかし、この荒唐無稽さこそ、私たちが忘れ去ってしまった、人類が最初に出会った世界の在り様であり、生命が最初に対峙した混沌である。

 ヴォネガットの偶然に対する感覚は観念的なものではない。彼自身の命と結びついた、まさに実存的なものだ。ドイツ系アメリカ人の彼は、第二次世界大戦中に米軍兵士として従軍し、自軍によるドイツ・ドレスデン空爆を体験した。『スローターハウス5』で描かれた爆撃は彼の実体験にもとづいている。

 捕虜として行進していたヴォネガット一行は、たまたま通りかかった屠殺場(スローターハウス)5号棟の地下室で一時的な休息をとっていた。するとその夜、地震の如く激しい振動が工場に響く。空爆が行われた。彼の表現を借りれば、「頭上の大地を巨人たちが歩き回っていた」(『追憶のハルマゲドン』)ような音が、鼓膜を破るほど鳴った。

 爆撃が終わって外に出ると、パリにも比する「世界で最も美しい都市」ドレスデンは、徹底的に破壊し尽くされ、静まり返る廃墟となっていた。ものの数時間で十万人以上の人間が死んだ。

 彼の命は救われた。「偶然」によって。救われたほうがよかったのか、死んだほうがよかったのか。ヴォネガットにはそれさえ分からない。彼の命を救ったのは、単なる偶然だったのだ。『スローターハウス5』に、印象的な台詞がある。

 「人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」」

 「彼」は、主人公ビリーとともに戦争で傷つき、人生の意味を見失った朋友ローズウォーターである。いったい、なにが「足りない」のか?たしかに『カラマーゾフの兄弟』には、 「すべて」が書かれているというほど、人間が人生の意味に直面して苦闘する姿が描かれている。そこには、世界の不条理と闘う人間の意志がこれ以上ないドラマに仕立てあげられている。

 しかし、ヴォネガットにとってはこれだけでは足りなかった。ドストエフスキーの闘った不条理は、人間がそこに「条理」を見出そうとするかぎりでの(アルベール・カミュのいう)「不条理」であった。そこには、闘うべき、あるいは悩むべき不条理がある。

 ヴォネガットの描く不条理は、人間が理解することさえ不可能な世界の根源的な不条理である。なにが条理でなにが不条理かの区別さえ不可能な、したがって悩むことさえできないような、闘うべき相手さえ見えないような混沌である。だから、ヴォネガットは悩まない。爆撃によって人が死ぬ度に「そういうものだ(So it goes)」という台詞が、ただ小さくつぶやかれる。

 僕たちは死に抗って生を勝ち取るのではない。生も死も、ただ偶然の在り様の一形態として、ただ世界に降り注ぐ。この世界の根本的な偶然性に向き合うとき、ヴォネガットは悩み闘うのではなく、また苦しみ泣くのでもなく、ただ笑うのだ。それがヴォネガットのユーモアである。

 かつて詩人・オスカー・ワイルドは「人間は自分のことをあまりにまじめに考えすぎますよ。原罪とはそのことをいうのです。もしも太古の人間が笑いを知っていたならば、歴史はもっと異なったものになっていたでしょう」と言った。ヴォネガットは「成熟とは苦い失望だ。治す薬はない。治せるものを強いてあげるとすれば、笑いだろう」(『猫のゆりかご』)と言った。

 人間は油断すると、すぐに人生を運命化する。生命の最初の風景において、運命などあり得なかった。生命はただ偶然に適応した。人生を複数化させること、偶然に身を晒すことは、運命を笑うことなのだ。

アクシデント(偶然/災難)

 『タイタンの妖女』の主人公マラカイ・コンスタントは、数奇な運命に導かれて、宇宙を旅する。火星へと行き、水星へと行き、土星の周りを巡回する小衛星・タイタンへとたどり着く。

 旅はさんざんなものだった。星をたらい回しにされ、ある星では兵士として従軍させられ、どこにも逃げることはできない。旅というよりは、宇宙をまたぐ強制連行である。実際、彼は自分の頭に電極を差し込まれ、自由意志が奪われていた。自分の意志で行動しようとすると、電極から身体に痛みが与えられる。

 心身はボロボロになり、もはや泣くことさえ忘れてしまうくらいの苦痛に満ちた旅を終えたマラカイ・コンスタントは、最後にようやく地球へと帰還した。そして、ある種の恍惚さを湛えた感情で、こう言った。

 「おれはひとつながりの偶然(災難)の犠牲者だった。みんなとおなじように。」
 "I was a victim of a series of accidents, as are we all"

 ひとつながりの偶然の犠牲者。ヴォネガットは自分をそのように理解した。そして、誰もがそうであると理解した。僕たちは、誰もが偶然の犠牲者なのだ。久しく忘れていた偶然、戦火を経た長い旅路の終わりに、ヴォネガットはそのことを思い出した。その回想は、単に自分が経験したことのみならず、人類史あるいは生命史をさえ振り返っているようだ。

 僕たちのはじまりの場所は、この根本的な偶然に満ちあふれていたのだった。そしてマラカイ・コンスタントはこう言うのだ。

 「おれたちはそれだけ長いあいだかかってやっと気づいたんだよ。人生の目的は、どこのだれがそれを操っているにしろ、手近にいて愛されるのを待っているだれかを愛することだ、と。」

 この台詞は、人生の目的を、家族や友人を愛することだとも言っていないし、見知らぬ他者を愛することだとも言っていない。彼は、偶然そばにいるものを愛することだと言っているのであり、まさにそれは偶然それ自身を愛することだと言ってもよい。

 ヴォネガットはアイロニーにあふれたヒューマニストだった。しかしそれは、単に人間を笑うことでも、人間を愛することでもない。彼は偶然を愛そうとしたのだ。たぶん、偶然を愛することだけが、人間にとって人生を肯定する方法なのだ。


瞬間よ、さようなら(Goodbye)

 偶然を愛するということは、とりもなおさず「いまこの一瞬」を愛するということに他ならない。

 「単時点的に、さようなら」
 "In a punctual way of speaking, goodbye"

 マラカイ・コンスタントを旅へと導いた、ラムフォードがよく口にする台詞だ。「単時点的に」と翻訳されたpunctualという語は、「時間どおりに」という意味で使われることが多いが、要は時間を数直線に見立てたときのある1点のことだ。

 ただこの一点。この瞬間。「さようなら goodbye」という言葉が、時間を断ち切るために僕たちが獲得した挨拶ならば、それはある一瞬においてのみ意味を持ちうるのかもしれない。レイモンド・チャンドラーが「長いさようなら Long Goodbye」と言ったなら、ヴォネガットは「短いさようなら Punctual Goodbye」と言った。

 時間の継続は、私たちの知性の推論によって成立している。昨日があって、今日があって、明日がある。この推論の手続きを無限に延長したとき、時間は永遠に続く。長い時間が知性によって浮かび上がってくる。

 しかし、世界が根本的にランダムならば、推論の手続きは挫折する。昨日があって、今日があっても、明日がくるとは限らない。いま与えられたこの一瞬だけが、時間の全てだ。ヴォネガットの一瞬には、すべてが詰まっている。

 「わたしはトラルファマドール星人だ。きみたちがロッキー山脈を眺めるのと同じように、すべての時間を見ることができる」

 いま目の前に映る全景を愛でるように、この一瞬にすべての時間を見るということ。それが偶然の愛し方だ。いまこの一瞬が人生のすべてである。それが歓喜であろうと苦悩であろうと、あるいはつまらない平穏であろうと、この一瞬が全てである。偶然を―この偶然に満ちた生を―愛するということは、この一瞬を愛するということだ。

 「われわれトラルファマドール星人は、それ[本]をつぎからつぎというふうではなく、いっぺんに読む。メッセージはすべて作者によって入念に選びぬかれたものだが、それぞれのあいだには、べつにこれといった関係はない。ただそれらをいっぺんに読むと、驚きにみちた、美しく底深い人生のイメージがうかびあがるのだ。始まりもなければ、中間も、終わりもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない。われわれがこうした本を愛するのは、多くのすばらしい瞬間の深みをそこで一度にながめることができるからだ」

 永い人生のすべてを愛するということと、いまこの一瞬を愛するということはあまりにもかけ離れている。悪い時もあるが、善い時もあるからこそ人生を愛せるのではないか。いやしかし、真に偶然を愛するというのなら、それが、どんな瞬間であろうと、その一瞬を愛するのだ。それは矛盾であり、狂気の沙汰のようでもある。

 ヴォネガットは、マカライの壮絶な旅(人生)を例えて「単時点的(Punctual)な人間にとって、人生はローラーコースターのようなものだ」と言っている。たとえコースの全容が分かっていたとしても、乗っている人間にとって全体の設計図は役にたたない。人生のコースターの上では、ありとあらゆる(偶然/災難)が次々に訪れる。そのすべての瞬間は、いや、そのすべての瞬間だけがリアルだ。

 僕たちが直に出会う瞬間の世界には、始まりもなければ終わりもなく、原因も結果もない...のならば...。僕たちは、愛したそばから「さようなら」と別れを告げなければならないような、このリアルな偶然を、いまこの一瞬を、愛することができるだろうか。

【参考文献】
カート・ヴォネガット・ジュニア,『タイタンの妖女』(早川書房)
カート・ヴォネガット・ジュニア,『スローターハウス5』(早川書房)
カート・ヴォネガット・ジュニア,『猫のゆりかご』(早川書房)
カート・ヴォネガット・ジュニア,『追憶のハルマゲドン』(早川書房)

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下西風澄(しもにし・かぜと)

1986年生まれ。東京大学大学院iii博士課程在学。ESMOD JAPON非常勤講師。専門は科学哲学。主にシステム論/現象学アプローチから生命や意識を探る哲学研究。 「むき出しの知性」(『建築雑誌』2013年9月号)、「色彩のゲーテ」(『ちくま』2014年8月号)など。

http://kazeto.jp

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