第5回 タクさんへの祈り
信じられなかった。というか信じたくなかった。2日の夕方のことだ。共同通信の速報に社内が混乱した。「巨人・木村拓也内野守備走塁コーチがマツダスタジアムでの広島戦前に行われた練習中に倒れ、意識不明の模様」。すぐにテレビ各局のニュースは、ホームベースの近くで大の字に横たわってナインに囲まれるタクさんの姿を流した。元気と笑顔が代名詞のような男の顔に、表情はなかった。夜になって「くも膜下出血により意識不明の重体」と容体が伝えられた。僕は、ただ祈った。今も祈っている。
僕が巨人の担当をしていた06年、広島からトレードでやってきたのがタクさんだった。「野手担当をさせてもらってます」「よろしくね。巨人に入ったからには報知に載らないとね」。初めて会話した時から妙な親近感を覚えた。当時の巨人は今よりもエリート集団という色が濃く、人懐こいタクさんの「家族のために頑張る労働者」という風情のキャラクターは、僕にとって貴重だった。
あの眩しい光景を、今も鮮明に覚えている。07年8月22日の東京ドームでの中日戦。タクさんは、広島に住む家族を連れてきていた。練習前に息子さんをグラウンドに招いて、キャッチボールをしたり、バッティングをさせたりした。YGマークの野球帽をかぶった少年に話しかけてみると「お父さんはすごくかっこいいんだ。僕も野球をやってるんだけど、お父さんと同じセカンドなんだよ」と、とても誇らしげに瞳を輝かせた。さっそくタクさんに「お子さん、セカンドなんスね」と言うと「そうそう。こないだも似顔絵書いてくれたんだけどさ、これが似てんのよ」と笑ってくれた。
その夜、ホームランバッターではないタクさんはライトスタンドに完璧なアーチを描いた。5万6000人が揺れる中、一塁を蹴ると、一塁側スタンド方向を振り返って右手を大きく上げた。家族が見つめる客席に向かって「パパは打ったよ」とサインを送っていた。記者席から見ていて、なんてかっこいい人なんだろうと思った。正直、男として嫉妬した。
僕は、どうしてもガッツポーズの瞬間の写真をプレゼントしたくて、カメラマンに大きなパネルに焼いてもらってタクさんに渡した。「えっ!マジ!くれるの!お~、これすげ~いいじゃん!広島に送ろ~!」。数日後、会社の僕の机に夫人からの丁寧な礼状が届いた。タクさんは、子供を転校させないために家族を広島に残し、単身赴任でホテル暮らしをしていた。「洗濯とかしなくていいから楽なのよ」。洗濯はしなかったが、夜中にはよくバットを振ったと聞いた。
生まれ持った才能に恵まれた人ではない。「ぶっちゃけ、最初のキャンプではバッピ(打撃投手)が投げるカーブを空振ってたよ」。ドラフト外入団の高卒新人は、キャッチャーなのに身長が173センチしかなかった。天才的なバットコントロールもなかった。簡単にフェンスを越すパワーもなかった。超一流のグラブさばきや、チームを代表する俊足もなかった。でも、誰にも負けない反骨心を胸に19年間もの現役生活を送った。ピッチャー以外の全ポジションを守って「便利屋」として生き残る道を選び、努力してスイッチヒッターにも転向した。「試合に出るため、いつも必死なんだよ」。タクさんは、試合後の談話に「必死」という言葉を使うのが好きだった。スポーツ報知の記事検索で調べてみると、記事になったものだけで実に14回も「必死」と語っている。「必死でやらないと、すぐにオレは野球選手として終わるから」。必死な日々の果てに、アテネ五輪では銅メダリストになった。通算1000本安打も達成した。
時には2軍落ちすることもあった。でも「2軍に居たら広島に行けない。家族に会えなくなるのはカンベン」と言っては、泥だらけになるまで戦い、結果を残して1軍に戻ってきた。荒木と井端の二遊間が華麗な連係を見せると、翌日の練習で、同じ動きを試していた。「だって、オレだってやってみたいじゃん」。年下の選手にもアドバイスを求めた。「いいバッターからは、なんでも吸収したいから」。引退すると聞いて早すぎると思ったが、タクさんなら人を理解し、人を思える指導者になれるだろうな、と確信した。
必死になって生きる人間だから、きっと今、神様は必死に救おうとしている。タクさん、あなたには病院のベッドなんて似合わない。今すぐ立ち上がってグラウンドに向かって下さい。再びの勇姿を、僕は奇跡とは思わない。

