近くて遠いこの身体

第55回 瞬発型の語りを。

2017.01.17更新

 昨年の暮れからヒラオはラグビー解説の仕事を始めたらしい。夏頃にオファーをもらい、引退してからずっと心のどこかで一度はやってみたいと望んでいた仕事だったので、二つ返事で引き受けたという。「解説者やってみーひんか?」と声をかけてくれたのが小学生時代からの同級生で、中学から大学までともにラグビーに汗を流した友人だから、そもそも「断る」という選択肢がヒラオの頭にはなかったのだろう。

 若かりし頃に苦楽をともにした友人から密かに望んでいた仕事をもらうなんて、まことにうらやましい限りである。
 ただ一抹の不安が脳裏を過ぎったことも事実である。

 解説する試合がフランスリーグでのそれということである。
 高校の全国大会である「花園」や大学選手権およびトップリーグの国内リーグと、南半球で行われている「スーパーラグビー」はそこそこ観ているものの、フランスリーグはほとんど観たことがない。それは選手のプレースタイルやチームとしての戦術戦略に見当がつかないことを意味する。過去の戦績や選手名は調べればわかるにしても、これまでの伝統や戦い方の癖などそれぞれのチームのスタイルをどうしてもイメージできない。こんな自分に解説者としての責務を担うことができるのかと、考えたのだ。

 いささか生真面目、である。

 しかし、他のどんな仕事でもそうだが、なんの憂いもなく最初からこなせるものなどほとんどない。初めて試みる仕事には多少の心配や不安がついてまわる。ふと立ち止まり冷静になって考えることはとても大切だが、考えが過ぎれば身動きが取れなくなる。このあたりの塩梅はひじょうに難しい。

 だが、ヒラオはその昔になにかの本で読んだ「請われれば一差し舞える人物になれ」という言葉を、心の大切な場所に保管していた。オファーを快諾した後に突如として湧いた心配や不安は、この言葉によってかき消された。親しい友人からのオファーだけに慎重になった節もあるが、逆に親しい友人だからこその安堵感もそれを後押しした。

 できるかできないか、それはやってみたあとになってわかることだ。そもそも「この人ならできそうだ」という評価に基づいてオファーが来たのだから、それを信じないわけにはいかない。自分自身のことは、自分よりも他者の方が詳しい。自己評価よりも外部評価に重きをおく心構えは処世のための基本である。
 ヒラオはこんなふうに気持ちを整えたあと、ほどなくして解説のための準備を始めたのだった。

 ちなみにフランスリーグの試合はWOWOWが独占放映している。ある日、研究室を訪ねてきた学生は「ウォウウォウ」と口にし、彼の母親はいまだに「ワオワオ」と発音するが、正しくは「ワウワウ」である。親しき友人が務める会社の呼称だから、この場を借りて正しておきたい。


 さて、ヒラオがテレビに出演するのは一昨年の「NHK短歌」以来である。番組出演後に一度だけ映像を見返したのだが、テレビ画面に自分の姿が映ることへの違和感が拭えず、照れくさかった。だから以降は見ていない。
 ガチガチに緊張している様子が画面を通じて伝わってきたし、当時の緊張が胸のあたりに蘇ってくるのもまた心地よいことではない。自分の姿を自分で見ることにはある種の片付かなさがある。

 これまでにもテレビ放映された試合に出場してきたのに、今さらなにを言い出すのかとも思うのだが。
 ヒラオの言い分はこうだ。

 試合に出場しているヒラオはカメラを意識することもなくただ目の前のボールを追いかけて、一所懸命に身体を動かすだけでよかった。練習を繰り返すことで身体に染み込んだ一つ一つのプレーを、半ば無意識に繰り出すだけで格好がついた。
 でも、スタジオに座ってコメントを口にするのはそれとはわけが違う。カメラ位置を確認しながら司会者や実況と言葉のやり取りを意識的に行わなければならない。視線の置きどころに気を配りつつ、打ち合わせの内容に沿っての適切な説明が求められる。決められた時間のなかで歯切れのよい言葉を選ぶという作業に大いに戸惑い、それゆえに緊張したのだという。

 言葉で、よりもパフォーマンスで表現するほうが、やはりヒラオは得意らしい。そうはいっても、大勢の学生や聴衆の前で話をするのが主たる仕事の大学教員としては、いつまでもそんなことは言っていられない。引退して10年も経ったのだから、そろそろこのあたりを切り替える必要があるとは思うのだが、習い性というか、長らくの過程で身についた癖というのは修整するのがなかなか難しいようだ。講義でも講演でも、いまだにその直前までわずかながらも緊張感が伴うというのだから、「身体」から「言葉」への切り替えはよほど難解なのだろう。

 言葉を介さずに身体の動きで表現することと、言葉の論理そのものでなにかを伝えることは、たしかに違う。まさに水と油だ。ただ、両者をつないだ先にあらわれる表現方法というのがおそらくはあって、最近はそれをイメージできるようにはなったとヒラオは言っていた。決して混ざらないものとして両者を扱うよりも、いずれどこかで混じり合い、その帰結としての話法が生まれると考えたほうが、いやそう考えなければ、元ラグビー選手である大学教員として立つ瀬がない。
 適度に油を使うことで料理が美味しくなるように、身体と言葉を融合させた話法というものをこれから模索していけばよい。そうヒラオは意気込んでいる。

 改めていうが今回はテレビという媒体を通してのおしゃべりである。90分をかけてじっくり話をするのとは違い、わかりやすい言葉を瞬発的に使いながらの説明が求められる。講義との決定的な違いは「脱線話」ができないことにある。なるべく冗長さを排除して端的に解説しなければならない。

 たとえば試合中のある場面で解説すべきポイントが頭に浮かんだとする。すぐさま口を開いて言葉を継ぐわけだが、ここで求められるのは一言二言でその意味が伝わる切れ味鋭い言葉である。瞬間的にポイントを掴んで端的に説明しなければ、試合は容赦なく次の展開へと進む。ピッチャーの投球ごとに間が生まれる野球とは違って、一度ボールが動き出せば敵味方合わせて30人の選手が入り乱れて試合はスピーディーに展開する。言葉数が多くなればその速度に遅れをとることになり、てんで的を射ない解説になってしまう。
 先にも書いたが、できるかぎり冗長さを排除するように話さなければならない点が、講義とは正反対だ。これについてはもちろん事前に予想していたが、いざやってみると想像以上の困難さが伴った。脳の使用部位が異なるのではないかとさえも感じたらしい。エクリチュールが異なるということなのだろう。

 喩えるならばマラソンと短距離走の違い。パフォーマンスを発揮するための時間制限によって、求められる足の運びやペース配分は異なる。講義や講演を通じてマラソン的な言語活動に慣れ親しんだヒラオは、短距離走のように瞬発的に言葉を発する仕方に戸惑っているのだろう。競技が違えばその鍛錬方法が異なるのは当然のことだから、ここらあたりを意識しながら解説業に取り組んでいけばよいのではないか。
 言語活動にも持久力型と瞬発力型がある。

 そういえばラグビーは双方を必要とするスポーツである。現役時代を振り返れば、右に左にステップを踏み、急停止、急加速を得意としていたヒラオはむしろ瞬発力が売りのプレースタイルだった。だから、おそらく素養はある。たぶんだけど。

 次回のヒラオの担当は一月二十八日(土)の深夜、RCトゥーロンvsラ・ロシェルの試合です。どうぞお楽しみに!

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平尾剛(ひらお・つよし)

1975年大阪生まれ。神戸親和女子大学講師。元ラグビー選手の大学教員だが、現役時から7kg痩せたものだから当時の面影は残っておらず。マラソンは大の苦手。

同志社大学時代は長髪にあご髭を生やしてグラウンドを疾走。卒業後は三菱自動車京都を経て神戸製鋼所に入社。ウェールズで行われたW杯日本代表メンバーに選出され(1999)、社会人大会&日本選手権で優勝(2000−01)、新たに創設された日本ラグビートップリーグでは初代チャンピオンのメンバーとして活躍。(2003−04)。

引退時期がちらつき始めた頃に自らの怪我が引き金となって「身体」への興味が湧き、あれこれ研究を開始する。毎日新聞関西版の夕刊でコラムを連載(「平尾剛の身体観測」2006-2011)。その後は『ラグビークリニック』(ベースボールマガジン社)や『考える人』(新潮社)に寄稿するなど、楕円球をペンに持ち替えて奮闘中。

著書に『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『合気道とラグビーを貫くもの』(内田樹氏との共著、朝日新書)がある。

近くて遠いこの身体

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