コーヒーと一冊の部屋

 去年から始まった『イナンナの冥界下り』プロジェクト。
 紀元前2,000年ごろのメソポタミア神話である『イナンナの冥界下り』を、原語(シュメール語)と日本語で、そして現存する世界最古の演劇形式である「能楽」をベースに上演するというプロジェクトです。

 イナンナというのはシュメールの女神です。天も地も統治していた女神イナンナが冥界に「心(原語では耳)」を向け、さまざまな霊力を身につけて冥界に赴くのですが、そこで待ち受けていたのは姉であり冥界の女王でもあるエレシュキガル。彼女の怒りに触れたイナンナは裸にされ、そして冥界の釘に吊るされてしまいます。その結果、地上は暗闇の世界になり、植物も生物も生殖活動をやめてしまいます。が、大神エンキの力でイナンナは甦り、地上ももとに戻るという神話です(後日談もあります)。

 東京と那須で4回の公演をし、来年度にはイギリスの大英博物館やリトアニアでの公演での話も進んでおりますが、この12月27日(火)には、これまでとはまったく新しい演出での上演を予定しています(演出に関しては最後にお話します)。
 このように公演を続けていくうちに、このプロジェクトを始めた時点でぼんやりと見えていたものが、その輪郭を徐々にあらわにして来ました。

 すなわち、文字によって生み出された「心の時代」はそろそろ終焉に近づきつつあり、「心の次の時代」が、もうそこまで来ているのではないかという実感です。そして、それに備えるためにも古代の神話や語り物を読み直すべきだ、ということもその確信を強めてきました。

 「心の時代」の終焉は100年後か、あるいはもっと先、1,000年後くらいかな、と思っていたのですが、どうもこのごろはそれが近いような気がしてききました...が、その話は今回は措いておき、まずは「心の時代」が終わるかも、と思ったきっかけなどをお話してみたいと思います。
 と、いっても学問的な話では全くないので、そのおつもりで。

「心の次の時代」のための『イナンナの冥界下り』(1)

2016.12.17更新

2,000年以上も前の3聖人を超える人がいない

 「心の時代」の終焉について考えることになった最初のきっかけは高校時代でした。
高校時代、好きだった人が3人います。ひとりは弘法大師「空海」、ひとりはアッシジの「聖フランシス」、そして「吉田松陰」です。

 この3人がなぜ、どう好きだったかというのは話していくと長くなるので、今回はパスしますが、この3人の書いたものを読めば読むほど好きさはどんどん増大していきました。そして、そのリスペクト度も、顔回が孔子を評したように「これを仰げばいよいよ高く」になり、「とても自分では手が届かない存在だ」になってしまっていました。

 が、あるときふと気づきました。

 「空海はすごいけど釈迦ほどではない。聖フランシスもすごいけどイエスには及ばない。吉田松陰だって孔子の方がずっとすごい」

 それだけではありません。釈迦、孔子、イエスの3聖人はみんな2,000年以上も前の人たちです。釈迦や孔子は紀元前500年ほどの人、イエスはちょうど紀元ごろの人。超すごい人たちがみんな今から2,000年以上も前に生まれて、それ以降、これに代わる人がいないのは変じゃないか。

 そう思ったのです。

 科学も文明も、当時に比べれば現代の方が格段に発達しています。人類全体の知的水準だって上がっているはずです。それなのになぜ彼ら以上の人が誕生しなかったのか。そして、この3人は、なぜ「あの時期」に生まれたのか。


文字によって生み出された「心」

 ...なんて考えているうちに、家にも帰らずに熱中していた麻雀とポーカーから甲骨文が好きになり(ここら辺の経緯は『あわいの力(ミシマ社)』に詳しいので略)、学生時代は主に湯島聖堂で「金文(青銅器に刻された文)」や「甲骨文(亀の甲羅や動物の骨に刻された文)」の読み方を学びました。よく読んでいたのは紀元前1,300年くらいから紀元前1,000年くらいのものです。

 そのうちに、当時発掘されていた甲骨文をすべて収めた『甲骨文合集』が出版され、それらを見ていくうちに、ある事実に気がついたのです。

 すなわち「心」と「心系」の文字が殷(いん)の時代にはほとんどない!

 あ、「ほとんど」というのは、ある文字を一部の学者は「心」と読んでいるのですが、しかしほかの学者はそれを「心」とは読んでいないために「ほとんど」です。

 漢字自体は、すでに(数え方にもよりますが)5,000種類ほどのものがあった。それなのにその中に「心」も「心系の文字(「悲」とか「悩」とか)」がないんです。

 ...となると、当時の人々にとって「心」はなかったのか。あるいはあっても、それを認知してはいなかったのか、なんて考えたのです。

 そのうちに古典ギリシャ語を学ぶ機会もあり、紀元前8世紀くらいのものといわれている『イリアス(ホメーロス)』も、日本語では「心」と訳されているものが「お腹」だったり、「横隔膜」だったり、「血流」だったりと、少なくとも内的なものではないということにも気づきました。
 文字ができてすぐのものには「心」がないのです。それが文字が出来てから数百年経つと「心」という文字が生まれてきます。

 ここら辺の経緯も『あわいの力』に書いたので省略しますが、発生当時の漢字の「心」というのは(1)時間を知る能力で、(2)それによって未来を変え得る力であるということがわかります。

 僕たちは、何かヤバイことが起きると、だいたいが「自動反応(react)」してしまいます。あるいは「どうしよう、どうしよう」だけが脳内で無限ループすることもあります。これも「自動反応」ですね。

 現代でも、そういう人がほとんどで、孔子はこういう人は「小人(ふつうの人)」と呼んでいます。

 そんな自動反応に一度ストップをかけ、「現在」という時点を、過去と未来という時間の中で捉えなおし、何をすべきか、何が一番いいのか、それを冷静に判断し、選択し得る能力、これを「心」と名づけました。「感応(response)」です。それをする人が孔子のいう「君子」です。

 文字以前には、ただ流れ、そして消えていった事象を「文字」によって定着させることによって、歴史も生まれ、論理も生まれ、そして「時間」が生まれ、「心」が生まれたのです(中国では紀元前1,000年くらいの『大盂鼎(だいうてい)』という青銅器から歴史的な考えや論理が生まれています)。

 ここら辺は、こういう視点で『イリアス』を読んでも、『古事記』を読んでも見えてきます。


★シュメール語と日本語による『イナンナの冥界下り』新バージョンのお知らせ


©️中川学

■日時 12月27日(火)18時15分開場 19時開演
■場所 セルリアンタワー能楽堂(渋谷駅より徒歩5分)
■料金 全席自由5,000円(てんらい会員は1,000円引き)
   ※指定ご希望の方は1,000円にて承ります。

■予約 てんらい事務局 
    event@inana.tokyo.jp
    080-5520-1133(9時〜20時)

■「イナンナの冥界下り」とは
これは、紀元前3500年ごろに起こった世界最古の都市文明、古代メソポタミアのシュメール文明、そこで語られ、楔形文字で記録された、現存する最古の神話のひとつです。

いったい、どういう神話なのか。ざっくりとお話しましょう。

(1)天と地を統べる女神イナンナは、唯一自分の手の及んでいない冥界に、7つの「メ(神力)」を身につけて向かった。

(2)イナンナの突然の来訪に怒った冥界の女王エレシュキガルは、イナンナの「メ(神力)」をすべて剥ぎ取って裸にし、冥界の釘にぶら下げた(地上は暗黒の冬世界となる)。

(3)大神エンキが差し向けたクルガラ、ガラトゥルの力によってイナンナは甦り、地上にも春が戻った。

■今回の上演の特徴
今回の上演は、今までにご覧になられた方にも楽しめる「新バージョン」です。これまでとどう違うのかを簡単に説明します。

●祝祭儀礼性が増す
古代の叙事詩は、薪の火によって妖しく彩られた祭りの場(にわ)で上演されたと思われます。これは、もう薪能そのものです。

薪能は、本来は春の神様をお迎えする祝祭儀礼でした。それは、イナンナの死によってもたらされた冬の季節が、その甦り・再生によって春の季節を再び迎える『イナンナの冥界下り』の神話にぴったりです。

今回の上演では、天地を統べる女神イナンナに奥津健太郎(能楽師狂言方)、エレシュキガルに杉澤陽子(観世流能楽師)を迎え、能楽の要素を前面に押し出すことにより、より祝祭儀礼性が増した上演になります。

●楽しさが増す
今回、新たに加わった場面は冥界の祭り、クル・ヌ・ギ祭です。

古代の祭りの場(にわ)では、人々は怪しい薬草の入った霊酒を飲み、生贄に捧げられたお下がりの肉を喰らい、酩酊、興奮状態で観た、というよりも参加したはずです。

実験道場(芝居×ダンス×お笑いの次世代最強集団)の皆さんをお迎えし、皆さまが酩酊、興奮状態になるような楽しいパフォーマンスをご覧いただきます。

※でも、これを再現するために貞観の大嘗祭や日本書紀などを参考にしました。

●音楽が多彩に
音楽は、能管の槻宅聡に加えて、今回は電子音楽のヲノサトルも参加します。能管は縄文の石笛(いわぶえ)を模したともいわれている笛。最古の笛の音に、最新の電子音楽が重なります。

●シュメールの竪琴が登場
大英博物館に収められているシュメールの竪琴を、アメリカのハープ作者に依頼して再現しました。チューニングや弦の問題もあり、今回はまだ使えませんが、象徴として舞台に出現します。紀元前2,000年の竪琴がどんなものか、とくとご覧ください。

■この舞台は発展途上です
「イナンナの冥界下り」はアーツカウンシル東京の長期助成を受け、イナンナプロジェクトとして2015年から3年計画で上演しています。2017年度には欧州ツアーも予定しており、シュメールの遺物をもっとも多く収蔵するイギリスの大英博物館やリトアニアなどでの上演を目指しています。


※おかげさまで満席となりました。

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