第7回 結末、結語、落ち、余韻、着地
フィギュアスケートや新体操のような採点競技では、結末が非常に大きな位置を占める。
途中がグダグダでも、細部がいいかげんでも、最後の着地がピタリと決まっていれば、良い点が付く。
無論、熟練した採点者の目をごまかすことはできない。が、観客の目は、かなりの度合いで惑わすことができる。構成がデタラメで、ミスが目立つ悲惨な内容の演技でも、クルリと回ってピタリと着地してみせると、素人はコロリとダマされる。
「ああ、この人は本当の実力者だ」
「途中ちょっとマズいところがあったのは、あれはきっと不運なんだわ」
と。結果、観客の拍手は、採点官を動かす。
でなくても、書き手は、批評家のために原稿を書いているのではない。コラムの価値を決めるのは読者だ。だまされやすく、流されやすい素人の読み手――そういう人たちに向けてわれわれは文字をタイプしている。
が、バカにしてはいけない。素人が読むからこそ、手抜きはできない、と考えるべきだ。着地は、だから、きちんと決めないといけない。あざといほどピタリと、思い切り素人向けに、わかりやすく。
今回は、結末について考える。結語、落ち、シメの一言の見つけ方、あるいは幕の引き方、エンディングにおけるあらまほしき作法。スタティックな文章をダイナミックな大団円に導く手順、もしくは、動きのあるテキストに気品ある死をもたらす意味などなどについて。
前回、書き出しについての論考の中で、私は、「はじまりの一行にさしたる意味はない」ということを繰り返しお伝えした。どういうことなのかというと、書き手が警戒しなければならないのは、書き出しの完成度にこだわるあまり、書き始める手前のところで立ち止まってしまうことであって、逆に言えば、出来不出来がどうであれ、無事にスタートを切れたのであれば、その時点で、書き出しの役割は、ほぼ達成されているということだ。だから、こだわらず、恐れず、神経質になることなく、大胆にはじめるのが正しい。おもむろに、闇雲に、無思慮に、せめて最初の壁にぶつかるまでの歩き始めのしばらくの間だけは、思い切り良く、大股で歩こうではないか、と、私は、書き出しの出来不出来については、極力寛大な見解を披露した次第だ。
が、結末は別だ。
ペンを置いたことで、自動的に文章が完成するわけではない。面倒くさくなったところで、適当にやめてしまえば、それで結果がオールライトになるというものでもない。
書き始めにおいて重要なのは、スタートを切ることそれ自体で、歩き方のフォームやスピードについては特に気にせずともよろしい。完成度も。だが、結末において重要なのは、立ち止まることではない。どこに着地し、どんな余韻を残すのかが問われる。つまり、なにより技巧が重視されるということだ。とすれば、やはり、ここは、背中にイヤな汗をかくぐらいに真剣に取り組まねばならないのである。
ところで、「結末の一行は、全体の流れを受け止めたフレーズであるべきだ」と考えている人はいないだろうか。
たぶん、たくさんいることだろう。
諸君の考えは間違いではない。というよりも、ほぼまったく正しい。
が、正しくはあっても、現実的ではない。とすれば、それは、やはり、現実的には、正しくない。
文章作法の教科書には、「結末は全体を総括した一行であるべきだ」みたいなことが書かれているのかもしれない。ありそうな話だ。教科書を書く人々は往々にして無神経だからだ。彼らは、単に到達点を呈示してみせることで、生徒に方法を伝授したつもりになっていたりする。「こういうふうに打ってごらん」と、イチロー選手の写真を載せる。そうすることで、打撃技術の秘伝を伝えたというふうに思い込んでいるのだ。実に困った人たちだ。「結果としての理想のフォーム」を分解して、そこから有効な練習方法を導き出す作業は、本来なら教則本を書く人間の役割であるはずだ。少なくとも、読者の義務ではない。なのに、想像力を欠いた教師はメソッドを明かさない。高飛車な師匠も、細部を明かさない。で、「見て盗め」みたいなことを言う。刀鍛冶じゃあるまいし。見て盗めるくらいなら、誰も教則本なぞ読まないのに。だろ?
ともかく、やってみればわかることだが、現実的には、「全体を受け止める」ことと、「印象的な一行を書く」ことは、非常に両立しにくい作業なのだ。っていうか、ほぼ無理だと思う。テーマと媒体がおあつらえ向きで、しかも一定量の幸運に恵まれていれば「流れに沿った印象的な結末の一行」に到達することも不可能ではない。が、プロの書き手は、幸運をあてにすべきではない。
と、結局のところ、われわれは、「流れ」と「印象」のいずれかを選択せねばならないことになる。
どちらを選ぶべきなのだろうか。
ここは、書き手によって意見のわかれるところだ。
流れを重視する人々もいる。彼らは、自然に、素直に、浮き上がることなく、変にいじくりまわしたり、あえてフシをつけたり、あざとく技巧を凝らしたりすることなく、あくまでも粛々と稿をおさめるべきだ、と、そういうふうに考える。
常識的には、こちらが多数派だ。どこのカルチャーセンターの文章教室でも、素人が技巧に走ることを強くいましめている。
が、技巧に走らない人間は技巧を身につけることができない。
技巧に走って失敗した場合に結果が無残なことになることは、誰にだって見当がつく。
が、それでも、技巧に走らないと技巧は身につかない。
失敗は必ずしも成功の母ではないが、それでも、挑戦した上での失敗は、時に教訓をもたらしてくれるという意味で、無意味ではない。
一方、失敗しないことは、成功の母ではない。
挑戦しない者は、失敗も成功もできない。
挑戦を続ける者は、たくさんの失敗と数少ない成功を経験することができる。技巧は、この過程で身につく。
ん? どこかのビジネス本みたいだと?
ビジネスのことは私はよく知らない。が、ビジネスにおいては、失敗は失敗の母で、成功の秘訣は失敗しないことで、失敗と失敗が性交をすると大失敗が生まれるのだと思う。だから、私の言っているコラムに関する原則は、ビジネスには適用できないと思う。
文章は、失敗が許される分野だ。どんな手ひどい失敗をしたところで、ダメなコラムで人が死ぬわけではない。会社の業績にアナがアクわけでもない。とすれば、コラムニストは、ビジネスマンよりもずっと失敗に対して大胆であらねばいけない。そういうことだ。
さて、自然に始めて、すんなりと流れて、円滑に終わって、それでオッケーな文章もある。
たとえば、教授に提出するレポートなどは、内容さえきちんとしていれば、特に結末にこだわる必要はない。
というよりも、大学の先生には、クルリと回ってピタリと立つみたいな、これ見よがしな技巧を嫌う人が多い。だから、結語に凝ることは逆効果になりかねない。さよう。彼らの世界(←「いけ好かないアカデミズムの世界」ということだが)では、無骨と不器用が誠実の証しであるみたいな、ある意味の武士道精神みたいなものがいまだに幅をきかせている。だから、けれんをひけらかしたり、技巧に走ったり、些末な表現に凝ったりすることは、何よりもいましめられているのである。
しかしながら、コラムニストは武士ではない。正しく職人だ。われわれを動かしているものは体面や原理ではない。思想でもない。技巧。それだけだ。
であるから、「流れ」と「印象」のうちのいずれかを選ばなければならない時、コラムニストは、なにより「印象」を選択すべきだ。武士じゃないから? そう。原理より実質。覚悟より結果。生き方より技巧。それが職人の覚悟だ。
「全体を受けてはいるものの、凡庸な一行」と、「結末以前の流れとは無縁だが、フレーズとして魅力のある一行」があるのだとしたら、コラムを書く人間は、迷わず後者を採用せねばならない。
世間の書き手の多くは、「流れ」を無視することができない。
たとえば、スポーツ新聞の世界では、いつの頃からなのか、最後の一行を全体の要約で終える手法が蔓延してきている。これは、記者が「流れに沿った」終わり方を教え込まれてきたことの弊害のひとつだというふうに私は考えている。
「今夜、松井秀喜が万全の状態でスタメン出場を果たす」
「黄金の左足がサムライブルーを救う」
「宿命のライバルが、いよいよ最終決戦の舞台に臨む」
「遼のドライバーは米ツアーを制するのか」
といった調子。文章の最後に、記事のタイトル(それもヌルすぎて不採用になった分)そのままの要約じみた一行を付け加える手法だ。
一種の思考停止だと思う。
終わりを終わりらしく見せるために、最後の一行に全体の要約を持って来ているだけだからだ。それもえらく機械的に。
まあ、時間がないのであろう。
新聞記者は、とんでもないスピードで原稿を書かされている人たちだ。30分で100ラインとか。時には、しゃべる速さとそんなに変わらない速度で原稿を書きあげることを強いられるらしい。で、そういう中で、なんとか終わったっぽく見せないとならない場合は、バカの一つ覚えで、見出しの要約を絶叫しておく。そういうことなのかもしれない。
この紋切り型には、成功体験の残像が介在しているのかもしれない。
今日、○○が○○に挑む。みたいなカタチで締めくくった原稿が、まんまとその選手の記録達成とシンクロして見事に落ちた時の快感を忘れることができない、とか。
あるいは、記者教育のプログラムの中で見本として読まされる「名記事」が、「○○が、○○する」のカタチで終わっている原稿だったぐらいな事情は大いにありそうだ。
「一本足の求道者は、今夜、前人未踏の記録に挑む」
「力道山という物語が、いま新しいページを開こうとしている」
と、確かに、昔の講談調の記事には、冒頭の主題を末尾の一行で繰り返して終わるみたいな、お決まりの着地点があった。定型主義。あるいは、型の美学。
が、この種の締めくくりが名調子と呼ばれるためには、主人公が長嶋茂雄や力道山みたいな古典的なヒーローである必要がある。それも、舞台がデカくないと映えない。要するに、最後を動詞(←しかも主人公の動作を持ってくる)で終わらせる結末は、日本シリーズとか、因縁の決闘とか、引退試合とか、その種の「クライマックス」を伴った場面でしか機能しないはずなのだ。
こんなものを日常的な記事の中で連発されてはかなわない。
というよりも、昭和の時代には名文であったかもしれないこの手法は、あまりにもたくさんの新米記者によって野放図に使われたおかげで、もはや手垢まみれのベカベカなフレーズになってしまっている。そういうことだ。
おぼえておこう。動詞落ちは、4年に一度、ワールドカップの本戦ぐらいでしか使えない。
もう一つ、「天声人語」みたいな新聞コラムや、月刊誌の編集長コラムみたいなところでよく使われる手口を紹介しておく。
「振り返ると、盛岡駅は、雪の中に滲んでいた」
「戦災を乗り越えたその路面電車は、いまも広島の町を走っている」
「この空はアリゾナまで続いている。そう思いたい」
「今日は憲法記念日。晴れの特異日だという」
「いまも、目を閉じると、フロントガラス越しに手を振っていた笑顔が浮かぶ」
「真珠湾という美しい名前が、いつまでも美しいままであり続けることを祈りたい」
「カニが歩いている。彼は教えてくれる。前に進むばかりが人生ではない、と」
「行き詰まったら、窓を開けよう。もちろん飛び降りるのではない。空を見るのだ。あの頃の夢が漂っているはずの、ずっと彼方の空を」
「明日は二十四節気の一つ、啓蟄。党内でも虫が動きはじめている」
「笑顔。高度成長期というひとつの時代を生きた男の笑顔だった」
「被災者のため息。これほど雄弁な言葉があるだろうか」
「死者にも誕生日がある。残された者は、それを忘れることができない。今日、神戸の町は、阪神大震災から15回目の春を迎える」
まあ、アレだ、情景描写というやつだ。
文章の最後に、映像喚起的な一行を添えておく。と、文章全体に、叙情的な色彩が加わる。
これは、非常に効果的だが、同時にどことなく卑怯な方法で、やり過ぎるとイヤミになる。
とはいえ、ド素人には効く。特に年配の女性読者は、ひとたまりもない。
彼女たちは、「季節」を感じさせる言葉に圧倒的に弱い。結末でなくても、「金魚草」だとか、「つゆぐもり」だとか、「お水取り」だとか、そういう言葉をまぶしておくだけで、名文だと思ってしまう。どうしてなのか、細かいメカニズムは知らない。おそらく、日本人のある層の人々のDNAには角川の季語辞典がインプットされていて、その人たちは、季語が出て来るだけで感動するのだと思う。
使いすぎは禁物だが、困った時には役に立つ。季語辞典を繰って、心に響いた季語で落とす。安易な手法だが、安易な分だけ評判が稼ぎやすい。そう。最後に季節の話を持ってくる終わり方は、純真な人々の心をわしづかみにする。私は滅多に使わない。使うとちょっと自己嫌悪を感じるから。ワンバンウンドするカーブで三振を取った時みたいな感じかもしれない。ズルいオレ。読者もなるべくなら安易に使わないように。これは、最後の手段、緊急避難の奥の手だからだ。シャブと同じ。使えば使うだけ芸が荒れる。いっそ忘れた方が良いのかもしれない
よく知られている作家さんに、この手の文章の名人がいる。名前はあえて出さない。悪口と受け取られると面倒だから。
この人の場合、冒頭の一行と結末にほぼ必ず植物の名前を入れてくる。
たとえば、
「雨上がりの鎌倉には、ガクアジサイの淡い色がよく似合う」
ぐらいな調子で書き始める。お話自体は、たいした話ではない。亡くなった友人の思い出。幼い日に見た虹。白いボールが青い空の中に消えて行くように見えたあの夏のグラウンド。酒場での会話。マスターの横顔。で、最後の着地点に、一輪挿しの花を配置する。
「百合は重すぎると言う人がいる。ぼくはそうは思わない」
ったく。何を言ってやがるんだ、という感じだが、これはこれで「名文」ということになっている。情緒纏綿の美文。たしかに女を口説くのは巧そうだ。彼女たちは、絵の思い浮かぶ話に弱い。
コラムニストが目指すべき結末の一行には、名人直伝の植物ネタも含まれる。何でもアリ、だ。百人百様、書き手の個性に応じて、色々な結末のつけ方がある。
何で落とすのであれ、大切なポイントは、「印象」だ。
きれいな景色を目の前に見せるのでも良い。印象鮮烈な言葉を大書するのでも良い。あるいは、意外な逆説を呈示して、読者を惑わせるのでも良い。とにかく、何か、地の文章の流れとは別の、音楽で言う終止形に似た何かを演出することだ。
結末の一行は、コラム全体とは別個な、ひとつの作品だと思ってかかれば良い。
その意味で、結末は、面白いフレーズでさえあれば、木に竹を接ぐカタチであってもかまわない。
かろうじてつながっていれば良い。
もちろん、結末の一行のために、その前の99行があるわけではない。それは本末転倒。
が、読者の目で読んでみて、冒頭からの99行が、末尾の一行で、くるりと逆転するように見えたら、それはそれでひとつの芸にはなる。
だから、結末は、必ずつけた方が良い。
失敗していても、だ。
結末で笑いを取りにいって失敗したり、しゃれた警句を振り回したつもりでスベっていたり、もってまわった仕掛けで落とした後の読後感がどうにも寒々しかったりと、そういうことは実はよくある。
というよりも、こちらが万全の構えで落としたつもりでいても、読者のうちの3割かそこらは、
「うわっ、サムっ」
ぐらいにしか思っていなかったりするのかもしれない。
でも、それでも落とすべきだと私は思っている。落ちていなくても。
なぜなら、読者は、落とそうとした努力だけは汲んでくれているのではなかろうか、と、そういうふうに考えているからだ。落ちていなくても、だ。
「あーあ。オダジマは、落ちをしくじったな」
「ありゃりゃ、なんだろうね、今回のシメは。まるでキレがないな」
と、そう思われたのだとしても、
「あれ? これで終わり?」
「っていうか、これ、全然着地してないんだけど」
と思われるよりはマシだ、ということだ。転倒でもアタマを打っても骨折でも何でも、最後は回って見せろ、と、少なくとも私はそう考えている。なんだか芸人魂みたいだが。
最後に、落とす時のコツを伝授する。
もちろん、うまく落ちるとは限らない。
が、かまうことはない。
必要なのは、落ちることではない。落とそうとしている努力を読者に見せることだ。
たとえば、文章の半ばぐらいなところで、ヨハン・クライフのエピソードにさらりと触れておく。で、閑話休題で、本筋に戻って、最後の一行で、クライフの言葉を引用して終わる。と、なんだか、ものすごく行き届いた原稿であるみたいに見えたりする。うまくすれば、だが。
制作過程の種明かしをすれば、文章は、普通にはじまって普通に終わっている。
書き手は、結末に何か良いセリフはないものかと思案する。と、クライフが、素敵な言葉を残していたことを思い出す。で、この言葉を結末に持ってくることにする。とはいえ、サッカーの話でもない原稿の最後にいきなりオランダのサッカー選手が登場するのは、あまりにも唐突だ。だから、前半部分で、それとなく顔を出しておいてもらう。と、それだけの話だ。そう。クライフのエピソードは後付けの挿入。でも、読者にはわからない。彼らはアタマから順番に読む。制作順に読むわけではない。
結論を述べる。
結末の一行は、ちょっとした名台詞みたいなものでも良いし。きれいな情景でも良い。あるいは、地口やダジャレであっても良い。捨て台詞でもかまわない。呪いであってさえ。
要は、その末尾の一行が、独立したワンフレーズとして読んでも観賞に耐えるものであれば良い、ということだ。
とっておきの一行が、取って付けてみたいに、あまりにも浮いていたら?
その時はその時。その一行が浮かないための工作を施しにかかる。具体的には、途中に伏線を張ったり、縁語をちりばめたり、魔法の接続詞(「ところで」のことだが)を動員する。あるいは、あえて浮いたまま放置する。これはこれで、時にひねくれた読者の琴線に触れることがある。
さて、当稿の締めは、大変に難しい。なんとなれば、原稿の締め方について教えを垂れたその原稿の絞めくくりである以上、理想的な締めの一言を、見本として提示してみせるのが筋だからだ。
うむ。非常にハードルが高くなっている。飛び越えられるだろうか。緊張する。
こういう場合は、いっそハードルをくぐるのもひとつの見識だ。さよう。撤退する勇気、ってヤツだ。勇気と正反対の態度に勇気という名前をつけて納得させる方法と言い換えてもよろしい。殴りつける優しさ。ウソをつく正義。頑張らない介護。粋な別れ。つまり、芸のない終わり方をすれば良いということだ。
また来週。とか(笑)
