コラム道

第6回 書き出しについてのあれこれ

(第1回~第5回はこちら) 


 今回は「書き出し」について書く。
 と、あえて芸の無い書き出しを採用してみた。
 どうだろうか? 
 これといって不満はあるまい。
 さよう。書き出しはどうであってもたいした問題ではないのだ。どんなふうに始められたのであれ、流れ出してしまえば、文章はじきにひとつの運動体になる。初動がどんな言葉でスタートしていたのかなんてことは、読者が文章のリズムの中に引き込まれる頃には、忘れられている。つまり、結論を先に述べるなら、書き出しに芸は要らないのである。
 別の言い方をすることもできる。
 してみる。
「書き出しにおいて最も重要な要素は、書き出すというアクションであって、書き出した結果ではない」
 いかがだろうか。奇をてらっているように聞こえるだろうか。
 でも、読む側の目で見れば、書き出しは、最初の数行であるに過ぎない。いずれにしても、書き手がこだわっているほど重要な要素ではないのだ。
 仮に不味い書き出しというようなものがあるのだとして、そのダメな書き出しで始められた文章があるのだとしても、その数行先で地の文がドライブしはじめているのなら、それはそれで味になる。何の問題もない。
 そう。抵抗感のある書き出しや、違和感のある書き出し、あるいはとってつけたような書き出し――すべてアリだ。なんとなれば、「書き出しがすべてを決定する」という格言は、文章のマエストロを詐称する嘘つきが、素人を脅迫するために発明した呪いに過ぎないからだ。
 
 とはいえ、書き出しの一行目がうまく決まらないために、どうしても書き出せないでいる書き手は、実は、少なくない。
 しかも、そういうふうに"書き出しイップス"に陥っているのは、案外、一定の文章力を持っている人々に限られていたりする。

 どういうことなのであろうか。
 なぜ、書ける人は書き出せないのだろうか。

 その前にまず、良い文章を書くために必要な能力について考えてみよう。
 良い文章を書くためには、二つの相反する素養を備えていなければならない。
 ひとつは、個性。もうひとつは普遍性だ。
 まず、ものを書く人間は、独自の視点を備えていなければならない。加えて、ユニークな語法と独特な技巧を持っているべきでもある。当然だ。誰が書いた文章なのか区別もつかないようなら、記名原稿を書く意味がない。
 しかしながら、ユニークであるということは、多かれ少なかれ、独善的であることを含んでいる。それゆえ、過度に個性的なテキストは、他人に理解されない。
 他人に理解されるようなものは個性とは呼ばない――という見方もないではないが、常識的には、過度に個性的な個性はキチ○イである、と申し上げねばならない。われわれはそういう世界に生きている。
 例をあげよう。
「グァボバリゴマのスベラピリコがマッコリしてるんでゴベベベだったぜ」
 という述懐は、おそらく誰にも解読されない。猛烈に独特ではあるものの、ほとんどまったく他人の理解の届く言葉で書かれていないからだ。
 つまり、他人に読まれるための文章には、一定の普遍性(あるいは「凡庸さ」と呼んでも良い)の範囲にとどまっていなければならない。より実態に即した言い方をするなら、良い文章は、九五パーセントの普遍性に五パーセントの個性を付加したぐらいのバランスの上に成立している。そういうことだ。

 このことを別の方向から見ると、文章を書く人間は、書き手の頭を備えていると同時に「読み手」の目をもっていなければならないということになる。これは、本来「推敲」についての論考の中で書くべき内容なのかもしれない。
 とにかく、要は「自分の文章を、他人の目で読んで批評する能力」を持っていないと、きちんとした文章は書けないということだ。

 この能力も実は、ダブルバインドを孕んでいる。
 具体的には、こういうことになる。つまり、スタティックな能力としては、「個性」と「普遍性」という二項対立で表現されるこの矛盾は、実践的な場面では「筆力」と「批評眼」の相克というカタチで表面化する。

 書き手は、自分の文章を「批評的」に読まなければならない。この読み方がすなわち「推敲」だ。
 それもそのはず、「推敲」というこの二文字は、「ここの動詞は『推す』で良いのだろうか。それとも『敲く』を使うべきだろうか」と、中国の文章家が一文字の使い方で悩んだ故事から来ている。
 で、書き手は、自分の文章を虚心に読んで、言葉の選び方や、論理の流れや、語調や展開について、批判的な目でダメ出しをする段階を踏む。それをしないと推敲はすすまない。
 で、その「推敲」の力加減(何ラインごとに推敲をすべきなのか。あるいは、推敲は何回行われるべきなのか)については、あらためて別稿を立てることにする。推敲についてのあれこれは、コラムのような短い文章にとっては、たぶん、生命線であるはずだから。

 推敲については、力加減の問題とは別に、永遠の課題がある。
 「鋭い批評眼を持った書き手は、時に自縄自縛に陥る」ということだ。
 自分の書いた文章を読み直してみて、まるで欠点が見出せないようでは、失格だ。
 が、たとえば10ライン程度の文章の中に、二十五個も修正箇所を発見しているようだと、これは別の意味で致命的な問題を惹起する。
 元々の文章がよほど欠点だらけであるのか、でなければ、批評が厳しすぎるのか、いずれかでなければ、こんなことにはならない。
 ところが、こういう事態に陥る人々が実際にいるのだ。

 直してばかりいて先に進めない書き手は、実は、非常に端正な文章を書く人である場合が多い。
 が、そういう書き手は、プロの書き手としては通用しない。結果として出来上がってくる原稿が、いかに完成度の高い作品であるのだとしても、やはり職業的な書き手としてはやっていけない。第一に量が稼げないからであり、第二に身が持たないからだ。
 たとえば、400字5枚程度の原稿を書くのに、丸二週間かけるような書き手がいる。それも、毎日6時間、ワープロに向かってエディットを続けて、だ。
 こういう人は、文章の出来不出来に関係なく、書き手としては独立できない。
 笑っている人がいるかもしれないが、こういう人は、実に多いのだ。
 私の観察では、推敲が甘くて使いものにならない書き手より、推敲し過ぎてドツボにハマっている書き手の方が多い。
 批評眼が高すぎて、先に進めない人々。不幸な生まれつきだと思う。
 思うに彼らは、完成度というものに対する自分の中のハードルが異様に高い。だから、ちょっとした欠点を見過ごすことができない。
 欠点を含まない文章は、個性を発散できないということを、彼らは決して認めない。
 だから、5ラインごとに自分の文章を読み直して、軌道修正をし、その軌道修正をしたことによって微妙に狂ったバランスを取り戻すために、さらに20ライン戻って微調整をするのだが、それらの微調整の結果を受けて、全体のトーンを統一するためには、さらに40ライン前から読み返さないとならなくなり、そうやってバックステッチを繰り返しているうちに、彼は気づくのである。もういちどはじめから全面改稿した方がということに。なんという空しい作業だろうか。

 が、読者は、実際には、彼らが考えているほど、細かく読んでいない。
 九九パーセントの読者にとって、「きれいな夕日」と「美しい夕日」は同じものだ。誰も区別なんかしない。
 とすれば、そんな言葉の違いについて推敲を重ねることは、無意味である以上に、有害だ、と、そう考えるようにしようではないか。
 推敲については、ここまで。

 書き出しについてだ。
 書き出しは、書き手が最も神経質に推敲するポイントだ。
 かなり無神経なタイプの書き手も、書き出しの数行についてだけは、やはり何度も読み直したり、何度も書き直したりする。
 私自身、時々その状態に陥る。

 が、実践的なアドバイスをするなら、書き出しの推敲は、やめないといけない。
 書き始めたら、少なくとも20ラインぐらいは、一気に書いてしまうべきだ。
 でないと、船は永遠に出航できない。

 仮に、自分がいま書いている数行がダメな書き出しであるのだとしても、捨てるのはずっと先で良い。

 わたし自身のやり方を説明する。
 
 私は、書き出しで悩むことはほとんどない。
 書き出せないことはけっこうあるが、その場合問題になるのは、書き出しの数行が決まらないという問題ではない。どうしても集中できないとか、やる気が出ないとか、頭がまとまらないとか、そういう話だ。これは、これで非常に難しい問題で、私はいまだに解決できずにいる。

 が、書き出しの数行についていうなら、話は簡単だ。
 つまり、書いてしまえば良いのである。思い切りダサく。あるいは、紋切り型のいつものあいさつで。
 それでも、どうしても最初の言葉が浮かばない時には、思い切り芸のない書き出しをあえて採用する。
 たとえば、
「今回は、書き出しについて書こうと思う」
 で十分。これ以上素直な書き出しはない。ということは、芸は無いが、その芸の無さが幸いしている、と、そういうことになる。
 こんなのもある。
「書き出しについて書き出す時の書き出しはどうすべきなのだろうか」
 これも素敵だ。
 頭の中の考えがそのまま出てきている。これはこれで使える。
「書き出しは文章の生命だという考え方があるが、私は賛成しない」
 も良い。肝要なのは、見解の当否ではない。とにかく何かを言ったという実績だ。口火さえ切れば、言葉はそれをきっかけに動き出す。
「余談だが」
 もOK。どうにもならない逃げ口上だが、逃げるという出発は実は最も普遍的なモチーフだからだ。
「いやあ、やる気が出ない」
「っていうか、何を書いたものか悩んでいるのだが」
「最初に言っておく。オレは書き出しにはこだわらない」
 要は何でも、良いのだ。
 どう書き出したところで、大差はない。
 それでも、自分の書き出しがどうにも凡庸で、ありきたりで、ワンパターンであるように感じる瞬間はある。
 私自身、時に、それで悩む。
 でも、気にせず書き進める。ここが大切なところだ。
 書き出しの数行の出来不出来なんかより、きちんと話が流れていくのかどうかの方がずっと大切なのだ。
 で、話が軌道に乗って、これなら読者が途中で投げ出すことはないだろうというあたりまで書き進めることができたと自覚したら、そこであらためて書き出しを読み直してみればよいのである。
 極論するなら、書き出しを再評価するタイミングは、丸々一本原稿を書き上げてしまった後でも良い。事実、私は10回に1回ぐらい、それをする。
 書き終えた後に、後付けで、書き出し部分を付け加える。
 あざとい手法だが、有効な場合もあるからだ。
 あまりにもヌラーっと書き始めてしまった自覚がある時は、やはり、いくらなんでもこの始め方はヌル過ぎるかなと思ったりする。で、そういう時は、どこでも良い。自分が既に書いたテキストの中から、一番印象的なフレーズを頭に持ってきてしまう。
 今回の例で言うなら、
「書き出しの一行目は、コラムを書き終えた後で、最後に付け加えるべきだ」
 ぐらいのところを、冒頭に持ってくるわけだ。
 なるほど。こうすると、ちょっと素敵かもしれない。
 無論、文章作法としては、反則ではある。いつもこの手が有効なわけではない。が、文章は、作法を守るために書くものではない。読み手が読んで面白いように、そして書き手が書いていて退屈しないために書くものだ。とすれば、作法だのというものは無視するべきだ。

 とにかく、書いた時の自然な展開を切り刻んで、自分のテキストを再構成する方法は、最後の手段として常に残されている。そう思えば、書き出しはますますもってどうでも良い。

 いずれにしても、書き出しで悩むのは時間の無駄だ。どんどん、無神経に、だらしなく、あるいは唐突に、無思慮に書こうではないか。
 
 書き出しに比べて、結末の一言はとても大切だ。
 というわけで、最後に大切な一言を言うことにする。
 また来週。

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プロフィール

小田嶋隆(おだじま・たかし)

1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。

『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)
『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)
『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)
『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)
『サッカーの上の雲』(駒草出版)
『1984年のビーンボール』(駒草出版)

日経オンラインで連載中。
『ア・ピース・オブ・警句』(日経オンライン)

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