コラム道

第14回 推敲について

 「書く」という行為には「読む」過程が含まれている。もう少し細かく言うと、文章を書く人間は、具体的な手順として、作成段階の原稿を、必要に応じて何度も読み返しながらひとつずつ言葉を書き加える形で完成に持って行っている。その意味で、書き手は、あえて「推敲」という工程を意識的に設定するまでもなく、自分の原稿を、その作成過程において、何十回も読んでいることになる。

 今回は、「推敲」について書く。
 どうして推敲が必要なのか。推敲はどのようなタイミングで何回為されるべきなのか。推敲において心がけるべきポイントは奈辺にあるのか。答えは必ずしも一様ではない。というよりも、見つからないかもしれない。が、考える価値はある。というのも、推敲は、「書き手による読みこなし」という一種の自己言及を含んだ、極めて負担の大きい作業で、力加減を間違えると命取りになるからだ。実際、推敲にたずさわっている書き手は、鏡のなかの人間のヒゲを剃るみたいなややこしい過程を経て文章の形を整えている。この作業は、へたをすると自我の分裂を招きかねない。

 思うに、原稿を書く人間が、時に拒筆発作に襲われるのは、推敲による自己分裂から身を守ろうとする本能のゆえ・・・というお話は、なかなか面白い筋立てだが、真っ赤なウソなので却下しよう。コラムニストは、その職業生活を通じて、原稿を書かないための理由を常に模索している存在だ。そういう彼の言うウソを、他人に言いふらすのならともかく、自分で信じてはいけない。

 一度も書き直すことなく、すらすらと原稿を書き上げる書き手もいる。伝説ではそういうことになっている。
 私の知っている例では、ドナルド・キーン氏が似たエピソードを書いている。記憶からの再現なので細部は曖昧だが、大筋はこんな話だ。

1.ある時、ある劇場で三島由紀夫と同席した
2.当時、キーン氏は三島の「近代能楽集」のなかの作品を欧米の舞台に乗せる(たしか、「Long after love」というシャレた名前の舞台劇だったはず)ための翻訳作業に従事していた。
3.キーン氏は「近代能楽集」のなかの短編が、いずれも欧米の舞台の常識からすると短か過ぎることに苦慮しており、ふたつの作品をひとつにつなげられないものかと考えていた。
4.その話を三島にすると、三島は、作品Aと作品Bをつなげるブリッジに当たる部分の脚本を、その場(観客席)で、サラサラと書き上げた。
5.手渡された原稿を見ると、ひとつの訂正箇所もない。
6.世の中には本当の天才がいるということを思い知らされたキーン氏は深いためいきをついたことだった。

 なんだかイヤな話だ。
 なので、私はこの挿話を信じないことにしている。同じ文章を書く人間として、こんなたわけた天才の存在を認めるわけにはいかない。
 私は、こっちの話の方が好きだ。

「イチローは試合の何時間も前に球場入りして、毎日同じメニューをこなし、入念なストレッチを繰り返している。そうした不断の努力の積み重ねが、偉大な記録を生んでいる」

 さよう。「天才」は、人一倍努力をしていないといけない。そういう設定でないと、われら凡人には立つ瀬がない。よって
「天才はボールなんか見なくてもホームランが打てる」
 みたいな話は、全力をあげてこれを退けなければならない。冗談じゃない。
 おそらく、真相は
1.キーン氏が三島の天才ぶりを誇張した。
2.三島のなかにはあらかじめ二作品合体の構想があって、ブリッジ部分の原稿は既にある程度完成していたのだが、見栄っ張りな三島は、いかにもその場で考えているふうを装いながら、サラサラと原稿を書いてみせた。
 のいずれかであったはずだ。
 私は2番だと思っている。三島にはそういうところがある。作為を見破られないためには腹さえ切りかねない。そういう男だった。

 あらためて考えてみよう。作業段階で何度も読み直しているのに、どうして「推敲」というプロセスが別途必要なのだろうか。
 理由は、「読む」ための頭脳と「書く」ための頭脳に乖離があるからだ。
 別の言い方をするなら、文章を書く人間には、「批評性」と「創造性」というふたつの異なった能力が必要で、それらのふたつの相反する資質を上手に運営しないと良い文章は書けないということだ。
 うん。なんだか深遠な話が始まりそうだ。

 文章を「読む」ための「目」は、公平で、常識的で、批評的で、理性的でないといけない。でないと正確な読解はできない。正しい評価もできない。
 一方、文章を「書く」ための「アタマ」は、時に独善に至るほどに独創的であらねばならない。「書く」アタマは、常識的な語法や保守的な見解を超えたところで動いている。でないと個性的な文章を生み出すことはできない。

 と、上に挙げたふたつの資質は互いに反発し、否定し合う。文章を書いている過程では、その「反発」と「否定」が書き手にとって負担になる。具体的には、「創造性」が紡ぎ出した言葉を、「批評性」が否定したり、「常識」の名において為された訂正に対して「感覚」がへそを曲げたりということが原稿を書いている間中ずっと続くわけで、これは、非常になんというのか、面倒くさい葛藤なのである。

 しかしながら、「創造性」と「批評性」のどちらか一方が欠けても、優れた文章は書けない。
 「創造性」だけで書かれた原稿は、なるほど独創的ではあるかもしれないが、時に独善的に見えるし、度を越して斬新な文章は、そもそも人々に理解されない。結局、「暴走」ということになる。
 といって、「批評性」の名において全面的にカドを取られた文章からは、独自性が姿を消してしまう。常識的で、平板で、保守的で、当たり前な、わかりやすくはあっても少しも面白くないどこまでも没個性な文章。こんなものを書くくらいなら、はじめからコラム用の枠を求めるべきではない。築地あたりのカルチャーセンターにでも通って、就職面接用の小論文の書き方を勉強した方が良い。教室では文章から個性を消す方法を教えてくれるはずだ。とても入念に。
 
 さて、ことあらためて「推敲」をするということとは別に、書き手は、執筆を進める過程のなかで、自分の文章を随時読み直したり書き直したりしながら原稿の行数を伸ばしている。
 ここでは、執筆中に随時行われる推敲を、「修正」という言葉で区別することにする。
 なので「推敲」は、完成した原稿をあらためて再読して書き改める作業に限って用いる。
 煩雑なようだが、ここのところは区別しておいた方が良い。なんとなれば、書きながら読む時の読み方と、書き終えてから読む時の読み方は、かなり性質の違った読み方で、そこにこそ「推敲」の秘密があるはずだからだ。

 「修正」のあらまほしきタイミングと頻度について、答えは簡単には言えない。書き手の個性にもよるし、書いている原稿の種類にもよる。同じ書き手が、同じタイプの原稿を書く場合でも、本人の体調や〆切の切迫度によって、読み返す頻度やタイミングは微妙に違ってくる。

 ひとつだけ言えるのは、過度に読み返す態度は良い結果をもたらさないということだ。
 一行書いては読み直し、語調を整え、形容詞の語感をチェックし、前後のバランスに気を配り、消したり直したりしつつ、また新しい一行を書き足してははじめから読み返し・・・てなことを繰り返しているのは、書き手が良心的だからではない。単に乗れていないからだ。

 乗れている時の書き手は、自分の原稿を読み返さない。三島ほどではないにしても、ほとんど手直しをすることなく、どんどん書き進めていく。もちろん、こういう機会は、頻繁に訪れるわけではない。が、この仕事を長い間続けていると、ごく稀に、奇跡みたいに筆が進む瞬間に遭遇することがある。その時間は、ある昂揚感を伴っている。幸福感と呼んでも良い。ライターズ・ハイ。何かが降りてきて、自分が天才になった感じ。悪くない。っていうか、素晴らしい気分だ。

 問題は、乗れている時に書いた原稿の出来が、必ずしも素晴らしくないことだ。
 乗れている時、書き手のアタマはスパークしている。普段より言葉数が多くなっている。若干独りよがりになっているかもしれない。ものの言い方がくどくなっている可能性もある。ともあれ、彼は言葉に窮することがない。どこまでも快調に、素晴らしいスピードで文字をタイプし続けることができる。ということはつまり、彼は「書く」ためのアタマになりきっているわけで、そのことは、とりもなおさず彼が批評的な態度を喪失していることを意味している。

 だから、読み直してみると、彼の原稿は、「飛ばしすぎ」になっている。言い過ぎで、しつこくて、独善的で、飛躍していて、要するに子どもっぽい。こんな文章は推敲抜きで人前に出すわけには行かない。
 
 推敲のタイミングについての正しい答えは、実にここのところにある。
 結局、執筆中の書き直しや読み直しは、正式な「推敲」とは別だということで、どういう経緯で原稿が書き上がってきたにしても、「推敲」は、別途、別の時間に、別の形で読むという方法において、必ず必要だということだ。

 乗れていない時の書き手は、書き直してばかりしている。というよりも、行き詰まったライターは、自分が新しい一行を書き進められないことの言い訳として、修正作業に没頭(あるいは逃避)している。彼は、読み返しては直す永久ループに陥っている。
 こういう時は、修正をやめるか、でなければ、書くことそのものを中断した方が良い。で、日を改めて、あるいは場所を変えて、別のアタマになった上で、作業を再開する。うまく行かないこともあるが、うまく行く場合もある。いずれにしても、自分が無限修正地獄に陥っていると思ったら、いったん気分を変えた方が良い。でないと、本物の失語症になる。
 
 一方、乗れている時の書き手は、そもそも自分の原稿を読み直さない。アタマのなかからどんどん生まれてくる新しい考えをタイプする(あるいは紙に書き写す)のに忙しくて、読み直しているヒマがないからだ。読み返したところで、彼のアタマは、「読む」モードになっていない。だから誤字すら発見できない。
 こういう時は、勢いにまかせて書くのが良い。良いも悪いもない。書くほかにどうしようもないのだ。黙っていてもどんどん原稿が進むなんてことは、奇跡に近い幸運だ。その幸運に溺れない手はない。結果として出来上がってくる原稿が奇跡を含んでいるかどうかは保証の限りではないが、それでもライターズ・ハイは幸福な経験だ。たとえ原稿がクズであっても。
 
 結局、乗れている場合でも乗れていない場合でも、有効な推敲のタイミングは、「アタマが冷えてから」が標準になる。昔からの格言にある通り「恋文は翌朝読み直せ」ということだ。
 乗れている書き手は、自分の原稿に恋をしている。とすれば、そんな人間に推敲ができる道理はない。彼は時間を置いてアタマを冷やさなければならない。

 同じことを内田樹先生は「塩抜きをする」という言い方で表現している。つまり、「書き上げたばかりのもやもやした原稿は、しばらく時間を置いて形が固まってから推敲する」ということで、これは、推敲する人間の側のモードチェンジを、原稿自体の経時変化に仮託して言った修辞法だ。もしかするとこの言い方の方が、自分の書いた原稿をより明確に対象化しているという意味で実践的であるのかもしれない。打ちたてのうどんは寝かせてから茹でる。書いたばかりの原稿は塩抜きをしてから推敲する。そういうことだ。

 乗れていない原稿の推敲についても原理は同じだ。
 乗れていない人間が書いた原稿は、恋する者が漏らした戯言とは別の意味ではあるが、やはり気分が一定していない。とすれば、こういう原稿は、アタマが切り替わったタイミングで、別の目で読み直さないといけない。でないと、一貫したマトモな原稿に生まれ変わることができない。

 というわけで、結局、推敲の要諦は、「時間を置く」というところに落ち着く。乗れていた場合でも、乗れていなかった場合でも、推敲は、書いている時とは別のアタマで、「読み手」として読む環境を整えた上ではじめないといけないということだ。
 もうひとつ、ワープロを使っている書き手にとっては、「印刷する」という手順が、有効な手段になる。というのも、印刷した原稿は、自分の原稿を客観視するための適度な距離をもたらしてくれるからだ。

 ワープロの作業画面は「書く」ためのフィールドだ。一方、原稿をプリントアウトした紙は、純粋に「読む」ための視野を提供してくれる。と、読み比べた結果は意外なほど違う。同じ原稿でも、液晶画面をスクロールさせて読んだ場合と比べて、印刷結果を紙で読み直すと、より大づかみに、読み手の速度で把握することが可能になる。
 液晶画面で見ると、どうしても近視眼的になる。最終段階の推敲を、画面上だけで間に合わせる態度は、ぜひ避けなければならない。

 最後に、はしごをはずすみたいなお話をせねばならない。
 本稿で述べたいくつかの教訓は、現実的には、書き手の自己管理によってではなく、「〆切」という外部的強制によって果たされる。
 たとえば、「執筆時に過度に読み直さない」態度は、「〆切が迫っていて、それどころではない」状況において、余儀なく達成される。
 そうでない場合、つまり、〆切に余裕がある場合、気乗りのしない書き手は、修正に逃げる。であるから、原稿は、いつまでたって完成しない。批評眼が先行しているタイプの完全主義な書き手の場合も同様だ。彼の原稿はいじくりまわしてばかりで、一向に前に進まない。そういう彼らの未練を断つために、〆切は、常に有効だ。多少残念な表現があっても、とにかく一行でも先に書き進めないと原稿が落ちるわけだから。

 かくして、経験を積んだ書き手は、〆切の強制力に依存する態度を獲得する。つまり、「いま書き始めないと物理的に間に合わない」タイミングで書き始めることを常態化するのだ。そうすることで彼は過剰な修正癖や迷いを断ちにかかっているわけだ。
 これは、うまく行った場合、かなりの省力化になる。

 通常、〆切の三日前に書き始めた原稿は、完成までに丸三日を要する。そういうことになっている。が、同じ原稿でも、、〆切二時間前に書き始めれば二時間で仕上がる。っていうか、そうしないと落ちる。だから、結果として仕上がるのである。あくまで、理論値だが。
 こういう場合、はじめての「推敲」は、ゲラが出てからということになる。
 で、ゲラを見て、ライターは驚くわけだ。
「オレは、こんな完成度の原稿を編集者にメール送信していたのか」
 と。

 なにごとも、程度問題だ。〆切圧力をあてにした瞬発力は、常に有効だとは限らない。失敗した場合には、非常に悲惨な結果を招く。やはり、〆切に余裕があっても無限修正癖に逃げない強い精神力を身につけるのが本筋ということなのであろう。

 もうひとつの「乗れている時は読み直すな」というポイントも、実は、「〆切」によってもたらされる。
 そもそも、ライターズ・ハイは、ある程度の分量を書き進めた結果(ないしは事故)として書き手に顕現するモードであって、いきなり天から降ってくるものではない。その意味ではランナーズ・ハイが、走った結果としてランナーに訪れる症状であるのと似ている。
 ということは、ライターズ・ハイをもたらすものも、やはり「〆切」という強制が引き起こす執筆の実績なのである。

 結論を述べる。
 文章を書く人間は、〆切を恐れていながら、〆切に依存している。
 特段に意外ななりゆきではない。人は結局、自分を支配しているものに依存する。そういうものなのだ。
 〆切についての格言は、主語を「カネ」に置き換えても成立する。
 われわれはカネを憎んでいながらカネを愛している。カネを支配しようと試みながらカネに支配されている。

 推敲について書いているはずの原稿の結論が、どうして〆切についての言葉で締めくくられているのであろうか。
 答えは、現在私がひどい〆切に追われて(自ら招いた事態だ。わかっている)いて、推敲しているヒマがないからだ。
 
 ということで、失礼する。先を急ぐので。
 次回は落ち着いて書きたいと思っている。

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プロフィール

小田嶋隆(おだじま・たかし)

1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。

『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)
『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)
『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)
『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)
『サッカーの上の雲』(駒草出版)
『1984年のビーンボール』(駒草出版)

日経オンラインで連載中。
『ア・ピース・オブ・警句』(日経オンライン)

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