ヘンテコ医学史漂流記

第18回 500年前の学歴詐称?

2016.09.06更新

 去る5月、広島で日本医史学会の総会が催されました。この連載の第1回でも触れましたように、医史学会は日本医学会の分科会の序列では、内科や外科や小児科などを凌いで筆頭格の「第1分科会」という、由緒正しい学会です。「歴史」を扱う学会なので、最新の医療技術や新薬開発をめぐる日進月歩の話題が飛び交う他の学会とは、かなり趣を異にしています。でも、医学史のことをちょっと噛っていると、私のようなアマチュアでも「そんなことがあったのか!?」「いまごろになってそんな事実が出てきたの??」と仰天する話題もあり、他の学会に劣らず新鮮な知的刺激に満ちています。

 今年の学会では、前々回に取り上げた孫思邈の長男、孫行(641-700)の墓碑が最近の発掘調査で出土し、墓碑銘から諸説あった孫思邈の生没年に決着がついた、という発表がありました(猪飼祥夫先生による)。1300年も経って新たな事実が出てくるということにもビックリなのですが、墓碑銘によると孫行は孫思邈が60歳の時の子供なんだそうで、「真人」と尊ばれ、大自然の気を取り入れて暮らした仙人の生命力は、やはり並みのモノではないな、と改めて感心しました。


 でも今回、私にとっての一番の収穫は、帝京平成大学薬学部の鈴木達彦先生が、戦国時代の医師、田代三喜(たしろ・さんき)(1465-1544)に関するご発表をされたとき、「彼は明(みん)には渡っていない」という新説を打ち出されたことです。
 医学史に馴染みのない方にとっては何が何やら...ということかもしれませんが、当時の先進国であった中国大陸に渡っていなかったのに、「中国(明)に留学しました」と言うと、これは大変な"学歴詐称"です。その頃の航海術は未熟だったでしょうから命がけですし、ネットはおろか国際郵便もない時代ですから、日本と中国の情報格差は「別の惑星?」というレベルです。いまの時代に「アメリカの大学で学位を獲りました」と詐称するのとは全然スケールがちがうわけです。しかも、テレビのコメンテーターや芸能人ではなく、日本の医学史に大きな足跡を残したパイオニアというべき医師の"詐称疑惑"ですから、私に言わせれば、「どうしてこの場に新聞社も写真週刊誌も来ないのか?」と訝しむほどの一大スキャンダルです。

 活字メディアの記者はいませんでしたが、田代三喜は、今年の一月にNHK「歴史秘話ヒストリア」という番組にすでに登場していました。
 この番組での主役は三喜の弟子の曲直瀬道三(まなせ・どうさん)(1507-94)です。出生後すぐに母を亡くし、幼いときに戦乱で父が死に、僧侶となった道三は、当時の学問の最高峰の一つだった足利学校(栃木県足利市)に留学し、そこで三喜の医術に出会い、「戦乱の世で一つでも助けられる命を助ける」ために医師になった、というのがおおまかなストーリーです。
 番組の中で三喜と道三が、貧しい人々を往診するシーンが出てきて、身分の別なく医療を提供したことが語られますが、それまでの医師は丹波康頼のような宮廷医師か、大寺院の学僧に限られ、医療を受けられるのはごく一握りの人々でした。三喜・道三の時代以降、宮廷医でも僧医でもない職業的医療人が登場し、次第に一般の庶民が医者にかかれるようになりました。医学知識を普及させやすい形にしたり、医学の教育システムを整えて、医療を「民間化」したという点で、この二人の医師の功績は非常に大きなものがあります。

 それでは、三喜が書いたテキストブックをちらっと覗いてみましょう。

 上の半分、漢字が線で結んであるのは、治療の大原則を示しています。右から順に、「在表宜汗(病原体が体の表面にとどまっている場合は、発汗させるのが良い)」「在上宜吐(病原体が上半身に入ってきた場合は、吐かせるのが良い)」「在裡宜下(病原体が内臓奥深くまで進んで来たら、下痢させるのが良い)」「在半宜散(病原体が体表より奥に入ったものの、内臓奥深くまで至らない場合、発散させると良い)」と読みます。
 これだけでもなかなか独創的な記載の仕方ですが、さらにヘンテコなのは下半分です。見たこともない漢字が並んでいます。たとえば、右から一行目の一番上、几(かぜかんむり)にカタカナの"ヒ"という漢字、これはどんな漢和辞典を見ても載っていません。

 学会で発表された鈴木先生によると、これは三喜による「作字」、つまり勝手に作った漢字なのだそうです。"几"に"ヒ"は葛根、和菓子の葛きりに使われるクズの根で、「葛根湯」という風邪の薬で有名な生薬を意味します。その下、"几"に"充"みたいな感じは紫蘇で、次が升麻、その次のニンベンの漢字が陳皮(ミカンの皮)、最後が香附子...というような具合です。

 彼は何のためにこんな暗号ゲームのような書き方で教科書を書いたのか...秘密主義だったのか? はてまた漢字を二文字書くのが面倒くさくて、略記するためか? と私は思いましたが、鈴木先生は、ひとつひとつの生薬がもつ作用をイメージしやすくするためなのではないか? と結論しておられました。
 たとえば右から一行目、「からだの表面に病原体がついて、汗をかくと良くなる」という病気は、いわゆるカゼです。熱が出て、喉が痛くなって、鼻水が出て、頭痛がする、という感冒ですね。昔の人は、「感冒は風が運んでくる」と考えました。現代医学的に考えても、カゼはウィルスが空気に乗って気道粘膜について感染するわけで、カゼを「風邪」と書くのはそんなにヘンテコなことではありません。風邪を良くする生薬は、几(かぜかんむり)の部首をもつ漢字で記載したほうが理解しやすい...と、三喜は考えたのではないか、ということのようです。

 かくも強烈な独創性は、当時の中国医学の影響ではないだろう、むしろ中国からの影響を受けなかったからこそ、ではないのか? ...そう考えた鈴木先生は、その目でもう一度各種史料を見直してみました。すると、三喜が渡明した確固たる記録が見つからない、のだそうです。
 ではどうして三喜が「明に留学した」ことになってしまったのか?
 その根拠になったのは、弟子の道三の回顧録に残されている、「渡明した導道という師に学んだ」という記載です。400年も後に、田代三喜の伝記をまとめた服部甫庵(1804-1892)がこれを見て「導道は三喜の別名だろう」と類推したために、それ以来、三喜が明に渡ったことになってしまったようです。

 三喜の名誉のために言っておきますと、彼自身が「明で最新の医学を勉強した」と吹聴して廻ったわけではないので、"学歴詐称"にはあたりません。が、現代のWikipediaに「明の僧医に学んだ」と書かれていることを知ったら、草葉の陰の三喜はさぞ驚くでしょうね。

 さらに、鈴木先生の説によると導道は三喜とは別人で、しかも実在しない架空の人物なのではないか、と推論されています。そうだとすると、師匠はありもしない漢字を作り、弟子はありもしない師匠の伝記を書いて...と、そろいも揃ってたいそうファンタジー豊かな師弟なのですが、医師としての腕前は本物だったようで、三喜亡きあと、道三は戦国大名や貴族からも往診の依頼をされるようになり、京の都で多くの医師を育てて、のちに「後世方派」と呼ばれる一大学派を成すまでになります。
 それほどまでに優れた医術はどこからやってきたのか? それは中国からに違いない!
 ...という後世の人の思い込みのほうが、よほどヘンテコなファンタジーに満ちたものなのかもしれませんね。

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津田篤太郎(つだ・とくたろう)

1976年京都生まれ。京都大学医学部卒。

子どものころ、人間の模型図の腸のかたちが巨大迷路に似ていることに興味を持ち、解剖図を眺めるのが好きになる。

現在、聖路加国際病院リウマチ膠原病センター副医長。西洋医学と漢方の双方を生かす医療をめざしている。

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