
今回の「本のこぼれ話」には、鎌田東二先生に最新刊『超訳 古事記』にまつわるエピソードをうかがいました。
先生の周りでも、「これは面白い!」「いっきに読みました」などの感想が、どんどん届いているようです。先生曰く、「こういうリアクションはとても珍しい(笑)」、「ぼくの本は、むつかしいとか、わかりにくいとよく言われてきましたからね」とのこと。
さて、これまでの本とどういうところが違うのでしょうか。
(聞き手:三島邦弘)
第5回 『超訳 古事記』
いっきに読める古事記、これぞ「THE 古事記」
―― 本書を読んで、『古事記』という日本で一番古い書物が、初めて自分のものになったという感覚を覚えました。
鎌田それは、とても嬉しいです。
私にとっても、この『超訳 古事記』こそ「THE 古事記」であると思っています。
というのも、神話とは、もともと、「語り」であるからです。だから古事記は、詩であり、神語りでないといけないのです。そして、その「語り」では、一幕劇が断続的であってはならないように、一息がキープされた形で伝わらないといけない。注釈などがあると、そのたびに、語りは中断されてしまいます。
そういう意味で、これまでの多くの現代語訳の「古事記」は、「文字訳の古事記」で、たしかに「伝統 古事記」ではある。けれど、「語りの古事記」でないという意味で、本来の神語りではない。だから、この本こそ、「THE 古事記」といえるはずです。
古事記のもっている原初的な物語をひとかたまりで感じてほしいです。
―― なるほど、だから本書には注釈がないのですね。「序(はじめ)」から「結(むすび)」までが「ひとかたまり」でいっきに読めます。
鎌田いっきに読めることが大事なのです。
そういうふうに読んでくださったという声をきくのは、私にとって大変嬉しいかぎりです。とはいえ、これは実際に始めるまで、うまくいくか、わからなかったことです。
『古事記』というのは、稗田阿礼(ひえだのあれ)が語ったものを、太安万侶が書きとめたものと言われています。
その稗田阿礼に成り代わって、つまり「鎌田阿礼」になって、『古事記』を語るというわけですから、『古事記』の精神、コジキ・スピリットに通じていないといけない。稗田阿礼にかわって、自分がその精神と通じる回路にならなければいけない。
それが可能かどうかはわからなかったのですが、実際に始めてみると、驚くほどうまくいきました。
―― そうですね。私は、先生が寝そべって語られるのを、隣で聞いていたのですが、次から次へと言葉が口からあふれるように流れて出てきました。
鎌田本も見ず、無の状態でやったのがよかったのでしょう。
それと、『超訳 古事記』のあとがきでも書いていますが、『古事記』は私にとって学問じゃないのですね。私は10歳のときに『古事記』を読んで救われました。「オニを見た」と言っては、「変人」扱いされていた子どもの私を救ってくれたのが、『古事記』だったわけです。
私が生まれたのは1951年ですから、私の幼少期というのは、日本が高度成長期真っ只中で、『鉄腕アトム』に象徴されるように、まさに科学の時代。合理主義一辺倒だった。そんな時代に、「オニを見た!」とかと変なこと言っているわけですから、誰も受け入れてくれないわけです。だけど、『古事記』を読んで、「ぼくが見ているオニは、神様たちのことだったのか」とわかり、結果、神話が、初めて僕を肯定してくれる存在になったのです。
私としては、理解者のいない幼少期に自分を救ってくれた『古事記』に恩返しをしたかった。そして、『古事記』を語り継いでくれた、稗田阿礼や稗田阿礼に古事記を口承した先人たちへ感謝の気持ちを伝えたかった。
―― その並々ならぬ思いが、自然と言葉になって流れ出たのでしょうね。
鎌田ルーマニアの宗教学者であり作家のエリアーデは、こういうことを言っています。「神話的時間とは無の時間である」と。つまり、時間は直線的に流れていく時間だけではない。儀礼を行うとき、それは直線的時間軸を超え、その原点の時間、始源の時と重なりあう。ですから、私が『超訳 古事記』を語ったとき、私は稗田阿礼であり、稗田阿礼に『古事記』を語ったお父さんやお祖父さん、あるいはお母さんやお祖母さんでもあったわけです。
そういうことは起こりえるのですね。
―― なるほど。あとがきに「現代の稗田阿礼になって」と書いてありますが、それは決して比喩ではなかったわけですね。実際に稗田阿礼やその先人が立ち現れて語っていたからこそ、血の通った『古事記』が現代によみがえった。
鎌田そうです。そのやり方で、いっきに語ったのが、本書です。『古事記』の上巻にあたる神代篇と呼ばれる箇所です。私のなかで、上巻は「生きている」。だからこそ、神語りが可能だったんです。それに対し、人代篇と呼ばれる「神武天皇」や「ヤマトタケルノミコト」の話は、人語り。そのため、自分のなかでいっきに語れるものではありませんでした。
―― いっきに読める、そういう「THE 古事記」であるためには、この神代篇を中心としたものであることが必要だったのですね。
神話にふれて、閉じた感覚を開いていこう
鎌田神話の世界というのは面白いんです。不思議さそのもの。決して、倫理道徳ではありません。実際、この『古事記』に出てくる神様も、むちゃくちゃするわけです。スサノオノミコトは、ウンチをして神聖な神殿を汚したり、いろいろと乱暴狼藉を働く。また、食べ物を口から出したのが気に入らないと言って、オオゲツヒメを切り殺す。そういう倫理道徳とはかけ離れた話がいっぱいです。
道徳倫理というのは人間がつくった行動規範です。ですが、本来「存在している」ということは、制限できない、不可思議の世界、カオス、混沌です。それを、現代では、最初から倫理・道徳から入ってしまう。すると、無意識の世界を体感できず、意識の世界しか許されないことになり、窮屈さをおぼえる。ところが、神話の世界は、もともと存在の始源の姿が書かれているわけですから、その世界に触れることで、自然と自分の感覚も開かれていくわけです。そういう体感が、いま、神話に触れる意味だと思います。
―― なるほど。実際、私は、この本を通して、先生が「いっきに語る」現場にたちあえ、読者として「いっきに読める」経験ができ、とても気持ちよかったです。

鎌田考えてみれば、三島さんとは10年ほど前に『神道とは何か』(PHP新書)をつくって以来のコンビ。神道の原型とは何か、を突き詰めていけば、『古事記』とは何かに必ずいきつきます。そういう意味で、本書は『神道とは何か』の第2ラウンドだったと言えますね。
―― 言われてみれば、そうかもしれないです。今気づきました(笑)。
鎌田この本が大ヒットしたら、ぜひ続編をつくりましょう。
―― はい! ぜひ。

