みなさま、お待たせたしました! ミシマガ創刊一周年となる2010年7月の「本屋さんと私」。クラフト・エヴィング商會の吉田篤弘・吉田浩美さんにご登場いただきました。
これまでミシマ社の本の装丁デザインも数多く手がけていただいています。
『街場の中国論』『街場の教育論』『病気にならないための<時間医学>』『海岸線の歴史』『<貧乏>のススメ』『未来への周遊券』など、愛しくてたまらないブックデザイン。毎回、どんなデザインをいただけるのだろう、と本当にわくわくしながら待っています。そして、いつもいつも、うっとりするほど美しいデザインに「ああ、幸せ」とつぶやくのでした。
今回、あらためてインタビューという形で、お二人にお会いでき、大切なことをたくさん教えていただきました。
クラフト・エヴィング商會が語る、本屋さんの話、装幀の話、そして・・・。
4週にわたってたっぷり味わっていただければ幸いです。(聞き手:三島邦弘)
第41回 子どもの頃から書いてました (クラフト・エヴィング商會 吉田篤弘、浩美さん編)
字が読めないのに本屋で立ち読み
―― 本屋さんに自分で行った最初の思い出というのはいつくらいですか?
篤弘市場のなかに本屋があったんです。野菜を買ったり果物を買ったりする市場のなかに。そこで母親が買い物しているときに、その本屋で立ち読みしていたのが最初の記憶ですかね。けっこう覚えてるんですよ。本を読んでいた感触とか。
だいぶ大人になってから母に、あのときのことを覚えてると話したら、あれは本当にまだ立って歩いてまもなくの頃じゃないか、って。
―― へ〜。そうですか。
篤弘たぶん本というものを理解して見ていたわけではないと思います。だけど母は、ぼくが本に興味を示しているのを見て、その本を買ってくれ、それをぼくは家に帰ってからもずっと見ていたそうです。
―― へー。
篤弘その本はいまも持ってます。たしか、イソップの童話か何かです。
―― その頃はもう字は読めてたんですか。
篤弘読めてないんじゃないですかね。たぶん、大人が読んでいるのを真似していただけだと思います。その本屋さんは、割とすぐになくなってしまったので、ぼくの記憶は、そうとうチビの頃のものであることは間違いないです。母が買ってくれたことも覚えてるので、たぶんそれが自分の最初の記憶だと思います。
銭湯のとなりの貸本屋さん
―― 浩美さんはどうですか?
浩美私の最初の記憶は貸本屋ですね。
篤弘下町ですからね。あなたは。
浩美小さい頃、よく銭湯に行ってたんですけど、その貸本屋さんは銭湯のとなりにあったんですよ。
―― いいですね、その光景目に浮かびます。
浩美お風呂の帰りに立ち寄って、そこで「どれにしようかなぁ〜」と選んでました。本屋さんの記憶は、それが最初の記憶ですかね。
篤弘買い物に行くとかお風呂に行くとか、日常生活の中に入りこんでましたね、本屋さんが。
―― 本当ですね。区別されてるものではなくて。
ところで当時、貸本って一冊どれくらいで借りられたものなんですか?
浩美いくらだったかな? たぶん、5円とか10円くらいだったと思います。
篤弘ぼくが立ち読みしてた頃は、世田谷線の乗車賃が10円だったかな。駅前に今川焼屋があったんですけど、それは5円でした。
昔は本自体が安かったですからね。子どもの本なら定価が150円くらいじゃないですかね。
浩美そんなに昔のことかな。わたしたちの子どもの頃って(笑)。
篤弘だって、半世紀近く前だからね。45年くらい?
浩美私は45年前はまだ生まれてないので。
篤弘じゃぁ、40年くらい前かな。
―― ぼくは貸本屋の記憶って全然ないんですよ。いま35歳なんですけど。だから、たまに聞くとへぇーって思います。たぶんその10年くらいの間にいろんなことで変革があったのかなと思うんですね。
浩美そうかもしれませんね。
篤弘でも、いまでも探せばあると思いますよ。かろうじて。昔ながらの貸本屋が。
―― 千駄木のほうとかに、たまにありますね。谷中で数年前一軒見つけました。
浩美本当? ちょっと借りてみたい。
篤弘でも、いまのブックカフェやマンガ喫茶は貸本屋の変形だと思いますよ。
―― そうか、そうですよね。
篤弘昔はそんなものなかったでしょ。買わないで本を読めるところってせいぜい図書館くらいしかないわけですから。だから、実は「なくなったのかな」と思っても、案外探してみるとスタイルを変えて、かたちを変えて残ってるということはあるんじゃないですか。
―― ほんとそうですね。言われてみるとそうですね。
『タイガーマスク』を二次創作
―― そうやって、本屋さんと出会われて、そこからご自身で自主的に本を買った最初というのはいつになりますか?
『タイガーマスク』(梶原一騎、辻なおき、講談社 |
篤弘それは、はっきり覚えてます。最初の本屋さんとはまた違う、もうちょっと大きな本屋さんでタイガーマスクの漫画を買いましたね。(『タイガーマスク』(梶原一騎、辻なおき、講談社)
―― おおー、いいですね!
篤弘タイガーマスクが当時流行っていて、リアルタイムの連載中でみんな夢中になっていました。その単行本を自分のこづかいで買ったのが最初ですね。
で、大事なポイントとしては、何度も何度も読んで、読み飽きたところで、漫画のセリフを全部自分で書き換えたんです。
浩美へー。
篤弘あれがスタートですね(笑)。たぶん、小学校1年か幼稚園の頃です。セリフを鉛筆で塗りつぶして、その横に自分で考えたセリフを書いてた。すごいよね、今思うと(笑)。
―― 小1でしたら、なんとかひらがな書けますもんね。
篤弘そう、全部ひらがなで。たぶん、その頃が一番天才だったんですよ。もしかしたら、そこがピークだった(笑)。
―― 神童って感じですよね。
ちなみに、ひらがなで書かれたストーリーっていうのは原作とは全然違うものになったんですか?
篤弘いま見たら、馬鹿馬鹿しいと思いますよ、たぶん。残念ながらもう残ってないんです。
―― 残ってたらすごいですよね。最初の作品がそこに。
篤弘確かにね。二次創作ですよね。
自分で勝手に壁新聞
―― 浩美さんはどうですか?
浩美わたしは、最初に本を買った記憶は覚えてないんですけど、いまの話で思い出したのは、小さい頃、漫画家になりたいと思っていて、スケッチブックにたくさん漫画を描いてたんですね。
アタックNo.1 |
「アタックNo.1」とか、「アルプスの少女ハイジ」「小さな恋のものがたり」とか、キャラだけもってきて、オリジナルなお話をスケッチブックに延々描いてました。何冊もそんなスケッチブックができて。
―― はー。すごいですね。
篤弘思い出した。タイガーマスクのセリフを書き換えた後に、ぼくも自分で漫画を描いてましたね。
―― やっぱりそうなんですね。おもしろいな。
篤弘ノートに描いてたんですが、そのうち、みんなに見せたくなって、どうしたかというと、誰に頼まれたわけでもないのに学校で壁新聞をつくって見せたんです。
アルプスの少女ハイジ |
でっかい模造紙に、連載漫画があって、ニュースとか連載小説とかあって、ちゃんと新聞っぽくつくってた。全部ひとりでやってました。それっていまやってることとほとんど同じなんですよ(笑)。文章書いてレイアウトして。
―― それが原点なんですね。
篤弘壁新聞をつくったのは小学校の3、4年の頃でしたね。いまはみんなホームページとかつくってますけど、それと、同じといえば同じですよね。でも、そこまでプライベートなことではなく、雑誌のような感覚ですかね。
―― でも全部手書きなわけですよね。1枚しかできないですよね。
小さな恋のものがたり |
篤弘1枚しかできないですね。でも、壁新聞って、貼ったところに見に来てもらうっていうのが大事なところでしょ。
―― なるほど。
篤弘みんなに配るものじゃなく「来てください」ですから。
―― 本当ですね。学級新聞でコピーして配るのとは違うメディアですね。モノとしての存在感がありますよね。
篤弘自動的にメールで送られてくるような、そんな生っちょろいものじゃない。「読みたかったら来い!」くらいのね(笑)。
浩美それに、昔はコピーなんかなかったからガリ版ですよね。
―― そうか、そうですね。
篤弘あと、模造紙っていうのは、やっぱりあの大きさならではの世界がありますからね。
もう一度壁新聞を
篤弘ついでに言うと、最近ある書き下ろしの小説を準備してるんですけど、その小説の構想がすごくややこしい。登場人物もたくさんいるし。それがどうからみ合っていくかというのを自分で俯瞰したいがために、ひさしぶりに模造紙を買ってきて、端から書いていったんですよ。
そうしたら、壁新聞を書いたときの感触を思い出した。あの大きさでやっと俯瞰できて、そのまま出版社にもっていって、編集者の前でばーっと広げて「こういう構想なんです!」と説明したんです。
―― おもしろいですね。
篤弘ほんとに、子どもの頃とやってること変わらないなと思った。出版社で広げたときの気分も、壁新聞を貼り出したときの気分も同じですね。「みんなこれ見て楽しんでくれたらいいな」というそれだけですよね。
―― 本当ですね。最初から職人だったんですね。
篤弘そうじゃなくて、昔は手で書くしかなかったから。
―― 模造紙に書くにあたって小さな紙にラフを書いたりしましたか?
篤弘しないです。だから、ある程度でたらめになってしまうんですけど、それでもいいんです。ひとつのものにいろいろ入ってるのが好きなんですよ。漫画もあって、ニュースもあって、小説もあるっていう幕の内弁当みたいなのが。
ただ、小学校で壁新聞つくってたときに、自分は大人になって、雑誌をつくるとか新聞記者になりたい、デザイナーになりたいとは思ってなかったですね。書くことで何か仕事ができたらいいなとは漠然と思ってましたけど、それよりも電車の運転手になりたいとか、野球の選手になりたいとか子どもっぽく思ってましたから。
書くのは好きでしたけどそれを仕事にしたいという気持ちはなかったです。もうちょっと行ってからですね、そういうことを思うようになったのは。
―― じゃぁ、純粋に書く喜びが勝ってたわけですね。
篤弘ま、いまもそうかもしれないですが(笑)。
―― そこも変わってないわけですね。
篤弘ぼくが異常だったのは、学校の壁新聞をつくるだけでは飽き足らなくなって、家庭版もつくりだしたんです。さすがにたいへんだったので、そっちは小さいのにしました。でも、毎日書いてました。
―― へー。
篤弘ホームページやブログを更新するように。40年前にブログをやってたわけですね。誰も見てくれませんでしたけどね。父も母もほとんど見てなかった。「なんかやってるな」くらいで(笑)。
―― そうなんですか。貼り出してるのに。
篤弘こっちも、父や母に読んでもらおうと思ってるわけでもないんですよ。ちゃんと新聞記事を書くみたいに「最近商店街のどこそこにこういうお店ができた」とか、世の中へ向けたニュースみたいに伝えてましたから(笑)。
―― へー。それ残ってないんですか。
篤弘残ってないですね。新聞だから(笑)。
―― 残念。その家バージョンのはどれくらい続いたんですか?
篤弘1年くらいかな。学校の方も1年ちょっとくらいですね。定期的に書いてたものじゃないので、思いつきで、やろうと思ったときにつくってましたからね。「そろそろかな」みたいなね。
―― いいですね。
篤弘でも、あれは本当に最良のメディアだと思います。見たい人だけが見に来るわけだし、強要するわけでもお金をとるわけでもない。壁新聞はいまこそつくるべきで、じつは準備しているところなんです。
もちろん、インターネットっていうのがそれに近いことをしてるんですが。貸本屋がブックカフェになってるのと同じように。ただ、パソコンの画面は物理的に視野が狭い。アナログの良さは、大きなものを見渡すことができるってことですよね。
―― 伝わってきますよね。
篤弘誰かが書いて、それが物質的に壁に貼ってある。それを誰かが見る。インターネットのホームページを見るのとは何か違いますよね。もっとシンプルなことです。
―― やっぱり、手書きってのも、すごくいいですよね。
浩美ミシマガジンもどこかに貼り出したらどうですか?
―― そうですね。今度手書きバージョンもつくってみようかな(笑)。
