本屋さんと私


 今回の「本屋さんと私」は小説家の滝口悠生さんにお話を伺いました。そして新人ノザキの人生初インタビューです。本の虫でもなければ、小説を山ほど読んできたわけでもない、そんな私がたまらなくいいと思った書き手の滝口さん。日記にも書き残さないような日々の出来事や感情を捉える語りには、電車の中で読んでいても、ついつい口元が緩んでしまいます。

「たしかにあったどうでもいいことは、この世界にどのように残りうるのか。 それともどうでもよさゆえに忘れられ、いつかは消えてなくなってしまうのか。」
――『死んでいない者』滝口悠生


 これが私のお気に入りの一節です。さて、西武線のこと、小説を書き、届けるということ、そして最新刊の『高架線』についてもたっぷり伺いました。滝口さんのお話を全3回にわたってお届けします。どうぞお楽しみください。

 第2回目の今日は、「滝口さんは小説をどんなふうに書いているのか?」に迫ります!

(聞き手・構成・写真:野崎敬乃 構成補助:星野友里)

第206回 書くものと書き手の距離(滝口悠生さん編)

2017.11.14更新

登場人物の名前の付け方

―― 滝口さんの小説に出てくる登場人物の名前は、突飛すぎるわけではないのに、どこか耳に残ります。名前の付け方について教えてください。

滝口名前は、作品によってなんですけど、難しくていつも悩んじゃうというか、そんなにすっとは決まらないんです。ずっと語り手が一人で一人称の作品だと、語り手の名前はあまり出てこなかったりするので、なんでもいいやって感じなんですが、『高架線』の場合はいろんな人が出てくるので、ちょうどいい名前というか、やりすぎもせず、でもよくある名前ばっかりだと引っかかりにくいしっていうので、やっぱりいろいろ考えました。決めるときに意味を考えすぎたり、人物像と絡めようとし始めると凝った名前になってしまうので、なるべくすぽんと出て来たものを付けるように気をつけています。その結果、僕が書く登場人物の名前は、ものすごく数字が多いんですよ。

―― 三郎とかそうですね。

滝口三郎とか一郎とかやりがちなんですよね。数字が一個入っていると、ちょっと簡単な感じが出て、なんかいい塩梅になる。新井田千一さんもそうだし、七見さんもそうだし、三郎もそうだし。変な言い方ですが、いかに適当に付けてそうな名前を付けるかということにはすごく気をつけています。新井田さんの文通相手は成瀬文香という名前で、別に普通の名前だけど、僕のなかではちょっと色っぽい名前をつけたつもりで、でもこの人は実際には登場しないからそうやって少し凝っててもいい。たくさん喋ったりよく出てくる人は凝った名前だとうるさいので、なるべくあっさりとしつつ、ちょっと特徴があるようにとか。新井田さんも、新井千一さんだとあっさりしすぎかな、と思って田を付けるとか、適当さに適当さを加える足し算のような。すると、おかしくはないけど少し覚えやすくなる。

―― 今回の『高架線』では、木下目見(きのしたまみ)ちゃんが最高でした。「木登りしてる女の子を下から見上げたらパンツが見えた、みたいな名前」という説明のユーモアがたまらなくて。

滝口目見ちゃんは多分音を先に決めて、字を考えていたときに、「きのしたまみ」ってわりとポピュラーな苗字と名前の組み合わせなので、少し変わった字にしようと。そうすると少し引っかかりができるし、その字にまつわるやりとりを他の登場人物とできたりもする。目見っていうのはいい名前をつけられたなと思います。

―― いい名前です。

滝口あの人が中心に出過ぎてきちゃうと、またちょっと違うかもしれないけど、この人もそんなに前面に出てくるわけではないから、ちょっと変でもいい。そういうバランスを気にしつつ、でも基本的にはぱっと決める感じですね。あまり考えすぎるとよくない。目見っていう字は変換候補に出てきて、あ、これいいや、って決めたんだった気がする。じゃないと思いつかないですね。


無駄なことの愛嬌

―― 滝口さんの小説では、すでにある慣習に対して、単に批判するのでも茶化すのでもない姿勢が印象的です。そういうことは意識して書かれていますか?

滝口そうですね。慣習とか、馴れ合いみたいなものって、よくないものもあるとは思うんですけど、なんとなく続いてしまっていることの愛嬌みたいなのもあって、そこが僕は結構好きかもしれないです。

 前に小さいお店で働いていたんですけど、仕事場って効率的にしようとするとできることがいろいろあるんですよね。僕は立場的にそれを改善していくような仕事が多くて、ここをもうちょっと切り詰めて作業効率を上げようとか、経費削減とか、そんなことばっかり考えていました。仕事だからそうしていくし、それはそれで面白さもあるんですけど、僕個人の指向としては無駄なこととかダラダラしたことに惹かれるので、小説にはそういうしょうがないなあみたいな感じを書くことが多いんじゃないかな。『茄子の輝き』に入っている「お茶の時間」という短編はまさにそういう話なんですが、ダラダラしている人がダラダラする中で結構有意義なことを考えていたりするかもしれないし、お店とか仕事場って、どんなに非効率で無駄に見えても、そこを省いたら全部崩れちゃうみたいな、絶対変えちゃいけない部分もある。慣習とか無駄の功罪は、奥が深いです。


小説の終わり方

―― これまでの作品では淡く終わっていくものが多かったのに対して、『高架線』でははっきりした終わりがある印象を受けました。あれは意図した結果ですか?

滝口最後に物語が収束するというか、伏線を回収していく形になったのは、意図していたわけではなくて、書きながら勝手にそうなっていったんです。それこそ最後はエンディングらしいエンディングみたいになって、すごいベタなんですけど、そこに抵抗がなかったかというと、これが実はあまりなくて。

 小説の終わりってすごい不思議で、なんで終わったのかってうまく説明ができない。僕の作品は人が大勢集まって集合したり、誰かが死んじゃったりして終わることが多いんですね。そうしたくてそう書いているわけではないし、そう書いたからといって必ず終わるってものでもないんですけど、どんなにベタなことでも、書いている自分にとって、無理やりそこに持っていったっていう感じがなければ何をやってもいいと思っています。
 
 最初から終わり方が決まっていて、そういうふうにしようと思って本当にそうなっちゃったらダメなんだけど、そんなつもりはなく書いているうちにああそうだったのかっていう驚きが自分の中にあれば、それはどんなにベタでも典型的でもオッケーというふうに思っていて、そこが線引きですね。自分の中で驚きがあるかどうか。こうやって説明するとどうとでも言えるというか、自分の中の免罪符みたいに聞こえるかもしれないですけど、でもその驚きみたいなものは多分文章の中にもあるはずなので、それがあればテキストとしてもなんらかの面白みとか、驚きみたいなものがそこに活きてくると思っていて、そうじゃないと読んでいても面白くないというか退屈してしまう。予定通りにそういうことを書いてもやっぱりつまんないと思うんです。

―― そうなんですね。

滝口これはここ最近で結構はっきり思うようになったことです。だいたい僕の作品は毎回そんなに暗くならずに、ああよかったね、ちゃんちゃんっていうふうに終わることが多くて、それでいいのかなっていう疑問というか不安もあったんですけど、そうしたくてそうしているというのがなく、勝手に終わるっていう感触があれば、それはどんな形でもよいかなと思えるようになりました。

―― 面白いです。

滝口書くものと書き手の距離をちゃんと保つために、あまりどうするかを決めずにこちらで驚きながら書くということが僕にとって丁度いい距離ということなんだと思います。

(つづきます)


    

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滝口悠生(たきぐち・ゆうしょう)

1982年東京都生まれ。
2011年、「楽器」で新潮新人賞を受賞しデビュー。
2015年、『愛と人生』で野間文芸新人賞受賞。
2016年、「死んでいない者」で芥川龍之介賞受賞。
他の著書に『寝相』『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』『茄子の輝き』がある。

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