「会社倒産」
(10年勤めた出版社が倒産して)きのうの今日で出処進退もないけれど、倒産の事実が(酒の)酔いとともに重くのしかかってくるようだった。
「カイシャを作っちまおうか」沈黙を破るように、わたしは口火を切った。
(『出版は風まかせ―おとぼけ社長奮闘記』春風社刊)
それから、早10年。横浜紅葉坂を上った小高い丘の上に「春風社」という出版社がある。創業者の三浦衛さんは、電子書籍の台頭や紙媒体の衰退が取り沙汰される今も、ずっと変わらないスタイルで仕事をしている。
本の表紙や見返しに貼られ、所蔵者を明らかにする版画の小紙片のことを"蔵書票"と呼ぶ。春風社の近刊『ガリヴァー旅行記蔵書票集』は、"紙の宝石"とも呼ばれるオリジナル蔵書票を収録した1冊だ。 スウィフトの「ガリヴァー旅行記」をテーマに、国内外の作家に好事家が蔵書票制作を依頼、いつのまにか189点にもなったコレクションのうち20種の版画が入っている。
このユニークな本に重ねて、春風社の描く本の未来像を、三浦さんに熱く語っていただいた。
(聞き手:森王子)
第7回 「紙の未来は紙のみぞ知る」春風社の本づくり(前編)―横浜の丘の上の出版社―
先生と呼ばれる生活から、先生と呼ぶ生活へ

―― 『出版は風まかせ―おとぼけ社長奮闘記』、楽しく読ませていただきました。春風社の10年間がたやすい道のりではなかったことが伝わってくるし、1冊の本が人の心を動かすことの意義も感じました。
三浦 ありがとうございます。ちいさな出版社ですが、創業からの話題だけで本が1冊作れてしまうことが、感慨深かった。日ごろ自分たちも、1冊1冊、時間をかけて作っていますから。
―― 三浦さんの編集者歴は20年とお聞きしました。春風社を作る以前は、どこかの出版社におられたのですか?

三浦 はい。都内の学術系の出版社に10年いました。そこが倒産したことが、そもそも春風社を立ち上げようと思い立ったきっかけです。仲間たちと、「どうしよう」と悩んでいたとき、僕がたまたま「カイシャ作っちまおうか」と言い放った一言で始まりました。もう40歳を過ぎていたし、就職は難しかろうと・・・。
―― 創業は保土ヶ谷ですよね。どうして?
三浦 いやぁ、最初のオフィスは自宅だったんです。理由は単に、背に腹は代えられなかったから・・・(笑)。人も、経験も、お金も、ないないづくしの創業でした。とはいえ、「机と電話とパソコンがあれば出版社はできる」と思っていました。結果的に今も都内にオフィスを移すことなく、ありがたいご縁で社業を続けています。
―― 前職は、高校教師だとか。
三浦 社会科を教えていました。けっこう問題校で、わりと荒れていました。当時は「学級崩壊」が問題になった時期でもあり、授業にならないわけですよ。それで他の先生方はどうしているのだろう、と覗いてみると、生徒が教師の話を聴こうが聴くまいが、とりあえず授業をこなし、お金をもらえればいいやみたいな、「サラリーマン教師」が少なくなかった。それが嫌でねぇ(笑)。
―― 体育の先生なんかだと、力づくで生徒を押さえ込むような人もいますが、そういうタイプの先生ではなかったのですね。
三浦 押さえつけるのは嫌でした。ただ、教師の仕事の中にも発見がありました。たとえば水俣病の授業をするために、休みを利用し、現地を訪れ調べてくる。自分で調べ、公害がどのように人々に被害をもたらしたかとか、いわば教科書に載っていない話をすると、ふだん荒れている生徒も、それなりに耳を傾けてくれた。
自分が本気で勉強し、みずから学んだことを話すと、言葉にリアリティが生まれる。実感のこもった言葉には、自然と耳と体が向くようになる。そのとき、言葉のリアリティって何なのだろう、ということを改めて考えました。
―― 編集者になるきっかけは、そんなところにあったのですね。
三浦 当時、影響を受けた人に、竹内敏晴さんという演出家がいます。竹内さんは、教師には教師らしい体つきがあるとおっしゃいました。大ざっぱにいえば、教卓に手をつっぱり「出席を取ります!」と宣言するときの身ぶり、口ぶりの裏には、「俺は先生で、お前たちは生徒だ。だから言うことを聞け」というメッセージが隠れている。つまり見えないルールの中で、生徒を威圧しているわけです。それがつまらなく感じました。しかし水俣病などの、自分の興味や人生に深く関わっているものについては、心をこめて話すことができる。教師の仕事を通じて、言葉との関わり方のヒントみたいなものを得られたような気がします。
本ならぬ本に収められた"紙の宝石"
―― それで、出版社へ進まれたわけですか?
三浦 いえ。演劇にも興味があったので、竹内敏晴さんが主宰する演劇研究所に通うことにしました。一時、その研究所から派生した劇団にも入っていたんです。そこで知り合った人に誘われて出版社に入りました。「次に仕事をするならまったく違うことをやろう」と考えていましてね。
―― 演劇もされていたんですか! 人生、何がどうなるか分からないものですね。
三浦 彼と会わなければ出版社という選択肢はなかったと思います。体験を通じてしか分からないことがある。いろんなことをやってみたいという、それだけで出版の世界に飛び込みました。

―― この『ガリヴァー旅行記蔵書票集』は、本当にすごい本だと思います。というか、もはや本の域を超えている、と感じました。
三浦 蔵書票って、ご存知でしたか?
――いえ、初めて知りました。不勉強ですみません・・・。
三浦 今ではもう馴染みのないものですが、蔵書票というのは、昔は本の愛好家の証のようなものだったんです。本がまだ貴重だった時代に、「私の本」であることを示すため、その本の所有者が蔵書票作家(多くの場合画家や版画家)に、ハガキ大の小さな版画を頼んだ。それを自分の大切な本の見返しや扉に貼り付ける、という贅沢な趣味がありました。

――へー、1冊1冊に1枚ずつのオーダーですか?
三浦 たいていは50~100枚ほどでオーダーしたようです。オーダーにはいろんな仕方があって、自分の名前の入ったイラストレーションだったり、版画作家にその本のストーリーを汲んで作ってもらうこともあった。今でも愛好家の間では"紙の宝石"として珍重されています。この本に収めた蔵書票は、すべて実際のオリジナルプリントです。つまりはこの世に数十枚しか存在しないものが収められています。
―― どういった経緯でこの本を出されたのでしょうか?

三浦 編纂したのは千葉県松戸市在住の松菱多津男さんという80歳の方です。生涯をかけ、なんと450冊もの『ガリヴァー旅行記』の翻訳書を収集されました。
――450冊!! 『ガリヴァー旅行記』に、そんなに多くの翻訳があったんですか。
三浦 松菱さんが『ガリヴァー旅行記』を集めた背景には、16歳のときに原爆投下直後のヒロシマを訪れた体験がありました。そこで松菱さんは、原爆に関する本を読みあさるようになり、原民喜という作家を知ることになります。原民喜は、原爆を題材にした文章を多く残した作家ですが、その遺作が『ガリヴァー旅行記』の翻訳だったのです。
――『ガリヴァー旅行記』といえば、小人の島の話やラピュタのエピソードが印象的です。

三浦 『ガリヴァー旅行記』を書いたスウィフトは、人間の愚かさや滑稽さを、ファンタジックな世界観で描写する天才でした。子どものときに読んでそれきり、という人が多いですが、大人になって読み返すと多くの発見がある本です。人間というものに対する深い洞察に満ちています。
もともと本が好きだった松菱さんは、人間の悪と愚かさの塊ともいえるヒロシマの風景に出会い、原民喜を知り、人間存在の深みを探るようにして『ガリヴァー旅行記』を収集することをライフワークとしてきました。
そして彼は『ガリヴァー旅行記』をモチーフにした蔵書票を、版画作家に依頼するようになりました。彼が依頼した版画家は、海を越え、外国にも及びました。その集大成がこの『ガリバー旅行記蔵書票集』です。この本には、松菱さんの強い反戦の思いと人間愛が息づいていると思います。
――『ガリヴァー旅行記』そのもののような、すごい物語ですね。
(次回、「"紙の未来は紙のみぞ知る"春風社の本づくり後編―本とは、物語を載せた造形物―」につづきます!)
