感じる坊さん。

第1回 復活、坊さん。

2017.12.01更新

 大変、ご無沙汰になってしまい申し訳ありません。

 2016年7月に「感じる坊さん。」という威勢のいいタイトルの連載を開始してから、はや1年と数カ月、「はじめに」が掲載された後、なぜか次の回が掲載されない、謎の連載となってしまった。そこで当然出てくる疑問が、「坊さんはどこへ行っていたのか?」「単にさぼっていたのか?」という問いだと思う。

 「修行していました」というのが、僕からのささやかな弁明(ほ、本当だってば)。前回にも書かせて頂いた通り、僕は高野山で毎月一回弘法大師の著作の勉強会に出席しており、その場所の先生からの勧めで、高野山の「勧学会(かんがくえ)」という伝統行事に参加していた。勧学会自体は、毎年、行われているけれど、僕が参加したのは、昨年と今年。といっても、一年のうちに高野山にいるのは一カ月ほどだけど、その間、留守にした愛媛の寺で、施餓鬼(せがき)や法事などの大切な行事を、尼僧(女性の僧侶)の妻が中心になって執り行ってくれた。

 その「修行期間」にこのエッセイが書けなかったことも、なにか意味のあるものとして受けとめたい。

 その「勧学会」の修行の話は後ほどするとして、連載を書かないうちに長女は五歳になり、次女は二歳になった。長女は、来年小学生になる予定で、僕が子どもの頃読んでいた『日本の歴史』という分厚い漫画が最近のお気に入りらしい。いつものようにその本を読みふけっていた娘が、不安そうな顔をして、僕に聞く。

「お父さん・・・、お寺をおがむのって大切なことだよね?」

 なにを突然、と思ってページに目を向けると、懐かしの蘇我氏(そがし)と物部氏(もののべし)が、仏教伝来を巡って、激論を交わす大和時代のシーンが展開していた。

「仏教、反対! 仏像などおがむ必要はありませんぞ」(物部氏)
「仏教、いいじゃありませんか。中国に学んで、新しい政治のやり方を、とり入れましょう」(蘇我氏)

(『満点学習漫画 日本の歴史』学研より)


 娘はその様子を見て、「うちのお寺は大丈夫なのだろうか」と不安になったようだった。日本の歴史の重要シーンが、自分の住んでいる場所に直結しているとは、なんというかリアルだな、と思いながらも「大丈夫、大丈夫、大事なことだよ」と一応(?)励ましておいた。

 冒頭でも感謝の気持ちを伝えた尼僧の妻も、あいかわらずの調子だ。先日、娘が妻とお風呂に入りながら「お母さんは、お父さんを何番目に好き?」というかわいい質問をしていた。隣の部屋にいる僕が耳を全力で傾けていたのは、言うまでもない。

 すると妻は「そうやな。二十七番目かな」と一ミリの迷いもなく即答していた。「ど、どうして?」と完全に動揺している娘に、「好きな人がいっぱいおんねん」と駄目押しをしていた。家庭というのも、時に修行道場である。

***

 話を高野山に戻そう。

 勧学会に参加するために、僕は高野山内のお寺に衆坊(しゅうぼう)として属することになった。僕が属するのは、参加を勧めてくださった先生である松長有慶師が住職を務める補陀洛院(ふだらくいん)というお寺である。そして宿泊をする時は、補陀洛院のすぐ隣の南院という大きなお寺にお願いすることになった。

 勧学会に参加を決めると、高野山内で行われる様々な伝統行事に参加することになるので、儀式に用いる原稿などが主に漢文で配文される。それには高野山独特の読み癖などがあるので、儀式の前に高野山を訪れて師附の師僧である松長師から、読み方や儀式の進め方などを直接教わる。九十歳近い年齢で、高野山だけでなく、日本を代表するような高僧であり、なによりも僕にとっては学生時代に教えを受けてから「あこがれの僧侶」でもある松長先生から、一対一で何度も教えを授かるようなことは、僕には初めての経験だった。しかし、この「直接会う」「一対一」という要素の中に、僕が教えを受けている「密教」の大きな特徴があると思うし、先生はこの儀式の中で「体ごと」なにかを伝えようとしてくださっていると感じた。今、振り返るとそんなふうに冷静に感じられるけれど、その時は「同じ年齢になって真似できるかな。今の自分のままでは絶対できないな」という思いがたびたび、込みあげてくるのみだった。

 僕が受ける高野山学道の新衆(しんじゅ、新人)は、若ければ二十代前半の年齢から参加する人もいる。今は四十歳になった僕もルーキー。

 参加する儀式は、本当に様々だ。例えば、問者(もんじゃ)の僧が提出する疑問に対して、ある僧が考えを示したり、批判、指導する「堅精(りっせい)」、今では多くの儀式が実際の議論ではなく、テキストを読み上げる物になっているが、現代人の僕たちにはどこか新鮮でもある。堅精がおこなわれる前の旧暦5月1日、2日には、元寇の国難では、高野山の僧により太宰府まで運ばれたという僕の滞在させて頂いていた南院の本尊、浪切(なみきり)不動明王が、元々あった高野山の山王院(さんのういん)に一時的に戻り拝まれ、また南院にお戻りになる。僕も初めてこのお不動様を目の当たりにした。

 総本山である金剛峯寺で行われる「内談義(うちだんぎ)」もやはり問いかける問者、それに答える答者(たっしゃ)に別れて仏教の教理についての議論をする儀式である。その中でもある役割の僧侶が、香炉の前の空中に「久」という字を書く動作をしたり(仏法が永久に続くように)独特の所作が数多くある。

 「御最勝講(みさいしょうこう)」は、金光明最勝王経という経典を奉じる儀式。僕が高野山で一番、神秘的と感じる山王院(さんのういん)というお堂で、読師(とくし)という役割をすることになった僕は、講士(こうじ)という配役の僧侶と向かい合って座り、ひたすら講士の動作と同じ動作を真似て繰り返す(例えば手を回したら、僕も手を回す)。なので通称「まね師」と呼ばれる。僕が真似することになった講士さんの高野山・巴陵院(はりょういん)の僧侶は、偶然、高野山大学軟式テニス部の先輩で、再会を喜びあいながら、ひたすら真似をした。

 高野山の金堂(こんどう)で行われる「不断経(ふだんぎょう)は、お盆の行事で、僕も愛媛のお盆で多忙な時期であったが、師僧から「一生に一度の出仕になるかもしれないので、参加できたらいいね」と声をかけて頂き、なんとか都合をつけて参加した。真言宗の歴史的な僧侶、真然(しんぜん)大徳が特に奉じられる儀式で、この法要の中の一日、先頭(お経を唱えながら堂内をぐるぐる回る)でお経を唱える「経頭(きょうとう)」が配役され、この儀式専用の経典も購入して、経験のある地元の僧侶達に教えて頂きながら、なんとか役をこなした。

 そして、いよいよ始まる高野山に一カ月ほど滞在する勧学会でも、やはり問答が中心になるのだが、沙汰人(さたにん)という指導役の僧侶から、先輩達にお茶を出す作法からお堂の歩き方、座り方まで厳しく指導を受ける。僕は生粋の現代人で、どちらかといえばそういった堅苦しい「動き」「身のこなし」を避けてきた人生だったので、特に厳しく教えて頂いた。

 同じ年に参加している僧侶達は十人あまりで、二十代前半〜六十代後半の年齢である。高野山にある修行道場の指導者、お寺の跡継ぎ、お寺で働く僧侶、僕のような地方寺院の住職・・・、とそれぞれが抱えているバックボーン、思いも様々であった。

 勧学会の期間が最後の十日間になると、不要の外出は禁じられ、儀式の為に外に出る時も、縮緬帽子(ちりめんぼうし)という白い布を頭にかぶって、自分の顔を隠して歩く。これは、昔は議論に負けると山から追放されることもあり、僧侶にとって論議は一生をかけたものであったので、議論に強い僧侶が怨みをかって襲われることを避けるため、と言われている。

 その期間は、勧学会の儀式だけではなく、それぞれが自分の滞在している師のお寺で、密教の修法をする。僕も毎日、師僧のお寺、補陀洛院に通って修法することになった。高齢の師僧は、今でも毎朝、密教修法をされており、まずは師が拝んだ後の道場に、自分の修法のために樒の葉をお供えし、お香の準備をして師と同じ場所に座り拝む。そして修法を終えると、翌朝また修法をされる師の樒、お香の準備をして帰る。このことを十日間とはいえ続けていると、師がこの日々を通して、「伝えたいこと」ということが、身をもって染みいるようだった。「気づかないほうが馬鹿だろう」そんな言葉を自分にかけた。それはまさに師と弟子が、人と人とが「伝えあっていくこと」そのものだったような気がしている。それは仏教という枠に収まる話だけではなく僕たちの生きる社会や個にまつわる話だと感じた。

 僕が、修法の準備や後片付けをしていると、時々師が顔を出してくださり、色々なお話しをしてくださった。その中でも心の残っていることがいくつかある。ひとつは、「自分の考えは、人の意見や考え、思いをを懸命に聞いてこそ、見つけられる」というお話しをしてくださったことだ。ともすれば「自分の意見」の大切さを重んじるあまり、他者の声の大切さを忘れがちになってしまう自分にとって、長く胸に置きたい言葉だった。

 ふたつめは、密教は教相(きょうそう、理論的教義)、事相(じそう、修行の実践)というふたつに分けて現代では考えられることが多いけれど、そういう分け方はおかしくて、「瑜伽(ゆが)なんだ!」ということを、真剣な表情で伝えてくださったことだった。瑜伽の原義は「結びつくこと」「結びつけること」で、密教では仏と僕たちの身心が溶け合って、結ばれることを意味することがある。「分け、区別する」思考や動きの多い今という時代の中での「瑜伽」という言葉、動き。これも僕が受けとった大きな宿題だ。

 勧学会の二年目を終えて、最終となる「三年目」を受けられるのは、原則十年を過ぎた後。二年目を終えて感じることは、何かを得たということではなく、自分が「できないこと」ばかりだった。だからこそ、なにかまたスタートに立てた気分である。

 滞在していた高野山の名刹、南院では、さらに細かい儀式の作法などを長い時間をかけて院家(いんげ)さまに教えて頂き、お寺のトップである上綱(じょうごう)さまが率先してみずから細かく動き、お寺の皆さんに指示を出す姿に、自分自身が反省するばかりであった。また奥様達、小さな子供達を含めたご家族、台所で働く人達、お寺で働く僧侶の皆さんが、本当に暖かく支えてくださった。そのこともずっと憶えておきたい。

 栄福寺では、この時期、長年、作りたいと思っていた「新しいお寺のマーク」を作ることにした。寺紋(じもん)という昔からの紋はあるけれど、そこに加わる「これから」のスタートを切るために新しいシンボルも必要だと感じた。

 地元・愛媛のグラフィック・デザイナー井上真季さん(イノウエデザイン事務所)と何度も話し合いながら生まれたのは、「むかし」弘法大師が護摩の修法をされたというこの場所の<炎>と、「いま」もこの場所にあり時に寺を表す<山>、そして僕たちが「みらい」向かおうとする融合の世界、まさに瑜伽の場所としての<円>の三つが表現された新しい形だった。どのタイミングで皆さんに発表しようか考えていたけれど、この場所で初公開させてください。



 このイメージを胸に掲げて、また新しく懐かしい風景を見るために、一歩一歩歩いて、その風景を皆さんにご報告できれば思っている。

 今まで、「今この日本で、僧侶をする」という根本が見えにくくなったこともあるけれど、今、僕はそれを「魂や心の成長、暖かみ、思い込みを更新したりするために、いろんな形で自分や社会に関わったり、勉強したり、修行する」ことが「坊さん」なのかな、なんて考えています。今日「カップ担々麺」を食べながら、なにか、ふと腑に落ちました。

今月のミッセイボイス

☆ 今年は、僕が卒業論文を書いたテーマである「南方熊楠」が、生誕150周年です。それを記念したシンポジウムが和歌山県田辺市で行われ僕も登壇しました。http://www.city.tanabe.lg.jp/bunshin/2017-0830-1655-53.html
この様子は12月8日NHK-Eテレの「TVシンポジウム」で全国放送される予定です。ぜひご覧ください。【基調講演・池田清彦(早稲田大学教授、生物学者)。トークセッション・中沢新一(明治大学野生の科学研究所所長、人類学者)、篠原ともえ(タレント)、鏡リュウジ(占星術研究家/翻訳家)、白川密成(栄福寺住職)】

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白川密成(しらかわ・みっせい)

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。2010年、『ボクは坊さん。』(ミシマ社)を出版。2015年10月映画化。他の著書に『空海さんに聞いてみよう。』(徳間書店)、『坊さん、父になる。』がある。

ボクは坊さん。

坊さん、父になる。

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