これからの建築スケッチ

第15信 軸線の先にある象徴的な建築

2015.08.25更新

 大学四年生だった2001年9月11日、そろそろ卒業設計のテーマを決めなければいけない頃だった。それまでの設計課題は、建物をデザインする敷地や設計条件があらかじめ与えられていたため、同級生たちは、みんな同じ条件で課題に取り組むのだが、学部の集大成となる卒業設計は、すべて個々人に委ねられている。敷地も、建物の用途も、規模も、すべて自由に決めてよいから特別なのだ。自分にとって、もっとも切実なテーマが何処にあるのか思い悩んでいたときのこと。よく見ていた久米宏がキャスターを務める「ニュースステーション」(今は「報道ステーション」と改名し、キャスターは古舘伊知郎)から流れるその衝撃的な映像は、さながら映画のワンシーンのようであり、目が釘付けになった。
 日系アメリカ人建築家のミノル・ヤマサキの設計で知られるマンハッタンで最も高い超高層ビルである《ワールド・トレード・センター》のツインタワーに、旅客機が突っ込んだという前代未聞の速報が全世界に中継されていたのである。東京は、すっかり夜だったが、画面の向こう側は爽やかな秋空の広がる早朝のニューヨーク。現地リポーターは、パニックし、この緊急事態をまったく把握していない最中、なんと、もうひとつのタワーに二機目の旅客機が突撃する瞬間の映像が流された。

 私が生まれ育ったニュージャージー州は、ニューヨークで働く多くの人々のためのベットタウンとして機能していた。わたしたち家族も車で半時間もすればマンハッタンにアクセス可能な場所に住んでいたため、よく家族でドライブし、唯一無二の夜景を見に行ったりしていた。そのとき、子どもながらに目の前に広がるクリスタルのような摩天楼の中でも尖った《エンパイア・ステートビル》やアールデコの装飾が印象的な《クライスラー・ビルディング》と違って、《ワールド・トレード・センター》は、高さこそナンバーワンだが、単純な四角い形が地味でその無表情さが好きにはなれなかったのを覚えている。

 しかし、いつでも堂々とそこにあったし、その圧倒的高さ故にマンハッタンに遊びに行くと、二本が重なって一本に見えたりと、どこからでも見えるのではないかと錯覚するほど、とにかくさまざまな場所からあのツインタワーを見ることができたのが、脳裏に焼きついている。マンハッタンに住むすごく沢山の人にとって、あの建築がとても大事な風景の一部であったことだけは、間違いない。
 三千人弱もの犠牲者とともに、マンハッタンの象徴のひとつでもあった《ワールド・トレード・センター》は、テロの前に屈し、跡形もなく崩れ落ちてしまった。それをリアルタイムで、東京の下宿で見ていた私は、世界中の誰もがきっとそうであったように、ただただ唖然とし、言葉を失った。何が起きたのか理解することができず、どこか焦点の定まらないような、ずっとソワソワした状態で、深夜を過ぎてもなお続く特別報道番組が流れるブラウン管を眺めていた。

 あの建築は、世界の貿易の中心であり、まさに20世紀後半の高度資本主義経済の象徴であったわけだが、一瞬のうちに瓦礫の山と化してしまった。その後のブッシュ大統領の会見や、イスラム過激派による同時多発テロ事件として、この大事件は毎日報道されていく。犠牲者の数は実感することのできない単なる数字として、日々増えていった。わたしたちは、アメリカという大国が、アフガニスタンやイラクとの新しい戦争へと突き進む様をテレビ越しに目撃することになる。富の象徴だったあの無表情な巨塔の姿がなくなったことは、資本主義経済によって突き動かされていたひとつの時代の終焉を感じさせた。大きな価値観のシフトを余儀なくされているように思えてならなかった。
 また、あのおぞましい現場は「爆心地」を意味する「グラウンド・ゼロ」と名付けられ、日々膨大な瓦礫が大型クレーンによって撤去され、運び出されていく映像も流されていた。まるで生き地獄のような現場をドンドン綺麗にして、ゴミの分別のように瓦礫を処理していた。そして、新しい《ワールド・トレード・センター》のために世界的建築家による指名コンペまで行われることを知る。テロに屈することなく、世界を新しく更新することがあたかも当たり前であるかのように、ものごとが展開するスピード感に違和感を覚えた。時間に対する感覚があまりに早いと感じたからだ。

 つまり、瓦礫は美しくないし、危険で邪魔なだけの何の役にも立たないことは、わかっている。しかし、この事件によって起きた破壊の傷口をかくも早く更新し、新しいものをつくろうとする気持ちが理解できなかったのだ。瓦礫は、あの悲惨な事件の証拠でもあり、(ひとではないが)被害者でもあるはずだ。声なき声に、耳をすませる時間というものがあるのではないか。鎮魂のための時間と儀式が必要なのではないか。死者たちへの配慮に欠けているように直感したのである。
 むしろ、あの場所に必要なのは、崩れ落ちてしまったツインタワーと犠牲者全員を弔う建築だと思ったのである。自分の気持ちにいち早く反応することの大切さを胸に、建築学科の学生として、グラウンド・ゼロを敷地に、ツインタワーのお墓を卒業計画として設計することを決めたのである。

 現場から瓦礫をすべて撤去してしまうのではなく、一部をそこに残し、それを囲い込むようにして「鎮魂の庭」としての礼拝堂をつくって、同時多発テロ事件を忘れないための空間をイメージした。瓦礫を半地下に埋め、ピロティ越しに青空が見えることで希望への想いも込めたのである。上部には、資料館やオフィスなどを積層させた複合建築を提案した。
 今見るとなんとも恥ずかしいデザインで、当然まったくリアリティーのないプログラムかもしれないが、建築を設計するときの出発点が「記憶に残る風景の創出」であり、そのためには「過去からの時間を伝え得る要素」を大切に組み合わせて設計しようとする姿勢は今もまったく変わっていない。
 つまり、私にとって下宿先の部屋のテレビの前で呆然としたあのときの記憶を忘れないために、建築の力を信じて、《ワールド・トレード・センター》のお墓を設計することが必要だと感じたのだ。

 いかにして、その場所にしか存在し得ない価値ある建築を立ち上げられるかということを起点に考え始めること。そのためによく観察し、クライアントや職人と対話しながら、パラメーターをなるべく増やすこと。場所と時間に対する敬意ある継承こそ、個人を超えて集団で共有可能な建築の大事な役割でと思っている。そのためには何を象徴し、どのようにして設計を進めていけばいいかをあのときからずっと考えている。

 一例として、軸線を利用する手法がある。点と点を結んで、線を引き、それをひとつの手掛かりに設計を進めていく考え方だ。建築にとっての背骨のように軸線を通すことで、建物の意図するコンセプトを明確に表現することができるようになる。
 日本全国に富士見坂という名の付く坂が多いのは、その昔、その坂を上ると富士山が見えたということの痕跡にほかならない。これも、軸線の効果といえる。こちらの方向に富士山がありますよ、ということを地名などが教えてくれたりすることで、富士山を望むことができたり、感じたりすることができる。軸線というものは、その場所よりも遠い何かと接続するチャンスを与えてくれるのだ。
 道路は、そもそも直線的であるために、移動手段であるのと同時に、都市計画のための軸線の考え方を最も如実に現すことになる。パリのオスマンのパリ大改造計画なども有名だが、シャンゼリゼ通りに立って、右向けば《エトワール凱旋門》、左に向けば《新凱旋門》というふうにバシッと軸が通っていると気持ちがいい。

 他には、イスラムのモスクにおいて、もっとも大事にされるのが、メッカの方角であることも、まさに建築における軸線の強度にほかならない。ムスリムの人たちにとって、世界中のどこに居ても、絶対的な存在としての神は、メッカにあるのであって、いかなるモスクもメッカに向かって礼拝することがアフォードされなければ、建設する意味さえなくなってしまう。

 では、設計者として、いかに説得力のある軸線の引き方を見出し、それをより多くの人と共有可能な設計の根拠にできるのか。
 深く自問自答していた学生時代、広島にある厳島神社で興味深い体験をした。それは、天気のいい秋空の下、引き潮で海の上を歩くことができた午後のつかの間の時間帯のこと。寝殿様式の厳島神社において、各種拝殿を繋いでいる回廊が、デッキのようにして瀬戸内海に大きくせり出している。海の中の立派な鳥居が見えたとき、その大鳥居と厳島神社の本殿が綺麗な軸線で結ばれていることに気がついた。しかし、普段は海の底である場所を自由に歩き周っていたら、太陽の日差しが強かったため、日陰を求めて水の引いた回廊デッキの下にもぐってみたのである。するとそこに、あまりにも美しい光景が広がっていた。

 回廊の板と板のわずか1センチほどの隙間から規則正しい光線が太陽の力に導かれて、砂浜の上にきっちりと落とされていた。綺麗なレーザー光線の補助線がそこに表れて、この建築の強い軸線がはっきりと視覚化されていた。同じ砂のはずが、光線で照らされるものと、影になるものとで、美しいコントラストを生み出し、つい地面を長時間見入ってしまったのである。そのどこかデジタルな光景を見ながら私は、考えた。
 そうか、これこそが軸線の力を、太陽が証明してくれている。更に、海上の大鳥居まで歩いて振り返ってみると、その軸線は何も厳島神社の本殿のみならず、背景にそびえ立つ霊山の「弥山」をもはっきりと捉えていることに心を奪われた。要するに宮島すべてを祝福しているようだった。大鳥居と厳島神社と弥山は綺麗に揃っており、軸線がビシッと貫かれていたのである。
 まさに、人間の想像の範疇を超えた遥かに大きな力と建築との接点として、同一軸線上にそれぞれが並ぶことで強調されるエネルギーのようなものを確かに感じたのである。建築が建つことで、自然のなかの野生の力をも引き寄せることができると確信したのである。

 続けて訪れた広島の平和記念公園もまた強い軸線が大きな役割を果たしていることに気がついた。丹下健三によって設計されたこの壮大な計画において、大きな公園と《広島平和記念資料館》を原爆遺構である《原爆ドーム》とを川越しに一直線で結ぶことで見事に人々を魅了した。この大きな公園に平和を願う人々が集う際に、平和の象徴として残された《原爆ドーム》と、高く持ち上げられたピロティが印象的な《広島平和記念資料館》に軸線が貫かれていることで、歩き回る手掛かりになっている。要するに、遠く離れて向かい合っているこの2つの建築が磁石となって、緑豊かな大きい公園に骨格を与え、戦争をしてはならない、平和を強く願う磁場のようなものを生み出している。軸線というのは、その場所に存在する象徴的なものを、建築がより明確に浮かび上がらせる手助けをしてくれる。

 生活の場として機能性が重視される住宅や、経済合理性が追求される商業施設と違って、神社仏閣や教会、モスクなどは、すべて人間が神と対話するための祈りの空間である。そうした建築が、実質的な空間や素材などの物質としての意味よりも、何か目に見えないもの、あるいは、遠くにあるもの象徴することで、まったく新しい意味を付加することができる。壁の向こう側にある、目に見えないものを意識し、人は確かな身体的結びつきとしてそれを感じるはずなのだ。過去の壮大な歴史という動き続ける時間というものに対して、建築が記憶の器として何かを継承するためには、物質的なものだけではない、そうした非物質的で霊的な象徴という、もうひとつのレイアーを必要とする。

 人体が遺伝子という膨大なデータベースを手掛かりに、細胞分裂し続けて生命を育みながら進化するように、人工的な建築もまた、ある場所に立ち上がる際に、何を発見し、何を象徴し得るのかを入念に検討し、建築家はそれら多くのパラメーターを丁寧に組み合わせていく。
 軸線によって、山と建築が結びつく、あるいは、目線の先に原爆ドームを捉え、平和を願う風景。自然のそうした複層的なエネルギーを内包する複雑で豊かな空間こそ、永きに渡って人の心を魅了する感動体験を提供する建築だと、私は考えている。

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光嶋裕介こうしま・ゆうすけ

建築家。東京・目黒と、兵庫・神戸在住。

1979年、アメリカ、ニュージャージー州生まれ。男三兄弟の次男。8歳までアメリカで育ち、「ブライアン」というミドルネームを持つ。帰国して、奈良の小学校を卒業すると、また父の転勤でトロントとマンチェスターで中学生活を送る。
1995年、単身帰国し、早稲田大学本庄高等学院に入学。大学時代は毎年夏休みに5、6週間のひとり旅。行き先はいつも憧れのヨーロッパ。
2002年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、大学院は石山修武研究室へ。
2004年、大学院卒業とともにドイツの建築設計事務所で働き、ベルリン生活を満喫。4年後に帰国し、事務所を開設。一級建築士免許取得。その間、内装設計やコンペ、ドローイングに銅版画を描いたりする毎日。
2010年、思想家の内田樹氏の自宅兼道場(合気道)の設計を依頼され、翌2011年、建築家としての処女作、凱風館(がいふうかん)を神戸に完成。SDレビュー2011に入選。また、凱風館の竣工と共に内田樹師範の下、合気道を始める。凱風館の工事中、糸井重里氏の主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」にて『みんなの家。~建築家1年生の初仕事~』という連載を執筆し、アルテスパブリッシング社より書籍として刊行。ライフワークである「幻想都市」を描いたドローイングをまとめた『幻想都市風景』(羽鳥書店)も同年に刊行。2013年には最新作の『建築武者修行~放課後のベルリン』(イースト・プレス社)を刊行。
2010年より桑沢デザイン研究所、2011年から2012年まで日本大学短期大学部、2013年より大阪市立大学にて非常勤講師を務める。さらに2012年からは、首都大学東京・都市環境学部に助教として勤務中。

光嶋裕介建築設計事務所

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