きんじよ

第29回 きのくん

2017.02.10更新


 城崎温泉は五年ぶりだ。
 前回も、雪が降っていた。降っていたどころか、前夜の豪雪で、特急きのさきは運休。東京の兄夫婦、大阪の母、うちの一家は京都に集まり、出発を一日遅らせ、暖かい中華料理でも食べようか、ということになった。ところが、実家の父とはなかなか連絡がつかない。ようやっと携帯電話に出た父は、大阪駅のプラットホームにいた。
「おとーさん、なにしてるんですか?」
 と園子さん。電話のむこうで、
「『普通』は、動いとるぞっ!」
 と父。背景に列車の音、ざわめき、駅員さんのアナウンス。ちょっと置いて、
「・・・ふー、とりあえず乗ったわ」
「え、なにに?」
「行けるとこまで行ってみる!」
「おとーさん、おとーさん、って! あ、切れてる」
 あとできけば、普通列車で、雪中を4時間かけて城崎温泉についた父は、広い旅館、温泉場を、本場のマツバガニを、たったひとりでこころゆくまで満喫したそうな。
 今回は、去年から今年にかけ、受勲騒ぎとノロウィルスに疲れ切った父と母、そして、もうじき小学校にあがり、平日の旅行などできなくなってしまうひとひと僕たち夫婦、合計五人の旅だ。京都駅を出発した僕たちは、福知山で、両親が大阪駅から乗っている特急「こうのとりに」に乗り換え、車中で合流する、というてはず。
 ところが、京都駅の31番線で、行き先表示板をみあげた園子さんは、
「え、あ! しまった! 9時52分じゃなかった! 9時25分だった! ごめん、ほんとーに、ごめん!」
 典型的な、数字の記憶違い。両親には先に行っておいてもらい、僕たちは、10時25分発の特急に乗り、一時間遅れで城崎にはいることになった。うちの一家は、電車をめぐるトラブルを経ないと、城崎にはたどり着けないのかもしれない。
 到着し、駅前で合流してすぐ、逗留先の「山本屋」さんにむかう。ここのご主人、高宮さんは僕の会社時代の四つ上の先輩で、就職活動の意味すらわきまえていなかった僕を採用してくれた恩人でもある。22年前に会社をやめ、城崎に引っ越し、奥さんの実家である山本屋さんで働くようになった。柄の選べる浴衣、外湯めぐりのICシステムなど、あたらしい提案をつぎつぎと実現させ、いまは温泉協会の理事長をつとめている。
「ひとひくん、おーきなったなあ!」
 高宮さんがいうと、ひとひはフェー、フェー、と照れて動物の鳴き真似をする。前は一歳とちょいだった。よてよて、よてよて、二本足で進んでは、どて、と前のめりに倒れていた。いまは片足で、階段をぴょんぴょん一段ずつはねあがっていく。
 とはいえ外に出ると、温泉街の町並み、風情は、なんにも変わっていなかった。カラコロ、カラコロ、と下駄の音がひびく。いうまでもなく、城崎温泉は外湯めぐりが名物。七つの、それぞれちがった情緒の浴場を、気まぐれにめぐっていく。柳並木の根元に、雪かきで集められた白いかたまりが溶け残っている。下駄の音が、がらん、ごろっ、かかか、ごろっ、と少々不安定なのは、ここ数年城崎温泉を訪れる外国人が飛躍的に増えているから。山本屋さんでも、泊まっている日本人は僕たちだけ。あとは、春節、ということもあって、全員が中国からの旅行者。がらん、ごろっ、かかか、ごろっ、ごろろっ!
 外湯の温泉はどこも熱かった。全国から集まってくる温泉マニアのためか。温泉好きのひとは、お湯が熱すぎることについて、ほとんど文句をいわない。熱けりゃ熱いだけ、意地になって、口をきっと結んで肩までつかる、みたいなところがある。逆に、お湯がぬるいと、口をとんがらかして非難する。飲んべえが、薄すぎる水割りをけなすのと似た心理かもしれない。
 ひとひは「御所の湯」の、ぬるめの露天風呂ならOKだった。もっといえば、「地蔵の湯」に設置された「こども風呂」でいちばんのんびりしていた。京都生まれの子はぬるま湯が好きなのだ。江戸っこ、かつ温泉好きの園子さんは、「さとの湯」の足湯に足首まで浸しながら、「もうちょっと熱くてもいいのに」「ふつうに温泉はいりたくなっちゃう」とこぼしていた。
 城崎で驚いたのは、水族館、マリンワールドの充実ぶりだ。前にいったときは、なんだか薄暗く、陰気な感じで、飼われている動物たちの顔も、なんだか不気味にみえたものだったが、曇りの日に訪れたにもかかわらず、今回のマリンワールドはきらきらしていた。エイ、イワシ、コバンザメら、とりどりの魚が群舞する大水槽は、そのまま日本海につながっているみたいに豪勢に波打っていた。
 ショーに登場する飼育員、さらにイルカ、アシカ、セイウチたちの表情は、ルーティン仕事を適当にこなすもののそれでなく、いま目の前にいるお客さんを、可能なかぎり楽しませようという、エンタメ的な気概にみちみちていた。
 浅い海水プールで、ナマコにウニに、魚たちに触れるし、メジナやアジに、オキアミの餌やりもできる。オキアミをつまんでちょっと水面に浸すと、ばしゃばしゃばしゃ、しぶきをあげて魚が集まってくる。ひとひをふくめたこどもたちばかりでなく、園子さんらおとなももう夢中だ。
「アシカにサインを出そう」なるツアーに、ひとひとふたりで参加した。定員20人。相手をしてくれるのはアシカの「トイ」くん。
 まず、なにかを摘まむみたいに手指をすぼめて、自分のほっぺたにくっつけ、「にっ」と笑う。するとトイくん、アシカの顔でほんとうに「にっ」と笑みを浮かべる。背筋をのばし、てのひらをさっと額にくっつけるや、トイくんも右の前脚を掲げ、みごとな「けいれい」をみせてくれる。
 圧巻は「オイデ」と呼ばれるサイン。長細いシートの、いっぽうの端にひとひ、もういっぽうの端にトイくん。ひとひが、餌のはいった青バケツを軽く左右に降り、そうして脇へ置いてから、がばっと手をひろげ、
「オイデー!」
 大声で叫ぶ。
 トイくん、一度うなずき、勢いをつけて、シートの上を、つつー、つつー、つつーっ、と滑ってくる。そうしてひとひの胸に飛びこむと、冬の寒さにバラ色に染まった頬に、軽くチュッとキスをした。
 僕たちが訪れた日がこのツアーの初日。この回が初回。そのひとり目がひとひ、ということはつまり、アシカのトイくんにとっても人間のひとひにとっても、これがファーストキッス。おめでとう城崎温泉。お祝いにひとひはおじいちゃんとおばあちゃんに、セイウチのフィギュアを買ってもらった。
 京都の家に帰ってからも、城崎、をとって「キノくん」と名付けたそのセイウチと、ひとひはともに、ぬるめのお湯につかり、湯たんぽでぬくぬくと膨らました布団におさまっている。


お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

いしいしんじ

作家。大阪生まれ。現在、京都のミシマ社の「きんじよ」に在住。2016年 『悪声』で第4回河合隼雄物語賞受賞。6月に新刊『海と山のピアノ』を刊行予定。お酒好き。魚好き。蓄音機好き。

KBSラジオ「いしいしんじのころがるいしのおと」を毎週火曜日午後9時半から放送中。イベント「いしいしんじとコロちゃんの(だいたい)78回転のアルバム」を京都・誠光社にて定期開催中。

バックナンバー