第11回 関係1
仲のよい友だちとそれほどでもない友だち。
親友か、ただ知人か。恋人なのか、友人なのか・・・。
自分が誰かとどういう関係にあるのか、それはわかりきったこと。
ぼくらは、そう当然のように考えている。
でも、人と人との「関係」は目に見えない。
仲のいい友人とは赤い線で結ばれていて、それが悪くなると灰色になる、なんてことはない。
では、どうやって、人との「関係」を「わかる」のだろうか?
人とコミュニケーションをとるとき、ぼくらは互いの振る舞いをよく「ふたりの関係が○○だから」という理由で説明したり、理解したりする。
「最近、親しくなってきて、よくメールのやりとりをしている」。
「仕事上の関係だから、プライベートなことを話すのは控えている」。
こういう感じで、相手との関係がどういう性質のものか、どんな状態にあるのかに応じて、ぼくらは行動のパターンを変化させている(と思っている)。
でも、この理解の仕方は正しいだろうか?
こんなケースを考えてみよう。
最近ときどきメールするようになった女の子を思い切って食事に誘う。
最初は、遠慮がちに敬語まじりで話していたけど、ちょっとくだけた感じで話しかけてみる。
でも、相手はずっと敬語のままで、あまり打ち解けた感じにならない。
こっちがなれなれしく話したりすると、少し戸惑ったような表情をみせる。
こういうとき、ふつうなら少し言葉づかいに気をつけながら話すようになるだろう。
自分と女の子の「関係」は、目に見えない。
相手は自分のことをどう思っているのか。
もっと親密になりたいのか、慎重になっているのか。
ぼくらは、それを手にとるように「知る」ことはできない。
(もちろん、その子自身だって、自分の気持ちをすべて把握しているとは限らない)
そこでは、自分/相手の話す言葉や話題、表情などを手がかりにしながら、ふたりの「関係」や互いの「気持ち」を推し量るしかない。
つまり、ぼくらは「関係が○○」だから、ある行動のパターンをとるのではなく、その場の行為によって、ある「関係」の状態をリアルなものとして感じとっているのだ。
「よくメールのやりとりをしている」からこそ、「親しくなってきた」と思えるのだし、「仕事上の関係」でも「プライベートなことを話す」ことで、「距離が近くなった」と感じるはずだ。
相手との「関係」が先にあるのではなく、ふたりのあいだの「行為」が手がかりになって、やっとその状態を「わかる」ことができる。
ほかにも、人にメールを出すとき、「〜さま」と書くのか、「〜様」と書くのか、「〜さん」なのか、「〜ちゃん」なのか、「〜先生」なのか、誰しも迷うことがあるだろう。
そこで、自分が「〜さん」と書いて、相手が「〜様」と返してきたら、「〜様」にしたほうがよかったかな、と思い直すかもしれない。「〜ちゃん」となっていたら、次のメールからもっとくだけた表現を使いはじめるかもしれない。
そんなの「宛名」の書き方に過ぎないではないか、と言われるかもしれない。
でも、ぼくらの「関係」をかたちづくっているのは、こんな些細なことの積み重ねでしかない。
相手との関係がどういう状況にあるのか、ぼくらは、日々、互いに微妙な調整をしあいながら、その距離を感じとり、行為している。
そして、こうした行為の繰り返しが、人と人との「関係」というひとつの現実をつくりだしている。
だから、何の連絡もとりあわないで「親友」の状態を維持することは難しいし、たとえ血のつながった家族であっても、ずっと離れて暮らして会話もなければ、他人のように疎遠になってしまう。
正式に交際を始めたり、結婚したりすれば、それだけで「関係」の継続が保証されるわけでもない。
自分が相手にどういう「行為」を投げかけるのか。
相手が、どんな「行為」を投げ返してくるのか。
そうして、ふたりの関係がある「かたち」をもっていく。
「親友」や「恋人」、「家族」といったカテゴリーは、その一時的な「かたち」にあとから説明を与えるために持ち出されているに過ぎない。
だから、「関係」はもろいし、移ろいやすい。
でも、だからこそ、「関係」は互いの行為によって変えることもできる。
<構築>人類学は、ぼくらの手で変えられる社会/世界のありさまに目を向ける。
世の中を動かす「権力」や「構造」、「制度」といったものは、とても巨大で強力だけれども、まずはすべてをその「せい」にすることをやめてみる。
自分たちの手で「関係」の網の目としての社会/世界をどうつくりあげるのか。
次回も考えていこう。
