東京のことは、東京の人に聞こう。
東京に生まれ、暮らす人しか知らない東京の姿がある。
そんな東京を知ると、普段見慣れた街並みが、奥行き深く、彩り鮮やかに見えてくる。
旧き東京人による、新しき東京人のための、東京のものがたり。
崇文堂書店二代目店主、斉藤光男さん |
麻布十番と言えば、多くの外国人が行き交うインターナショナルな香り漂うまち。
その十番商店街で唯一の書店、崇文堂書店の二代目店主、斉藤光男さんが今回の主人公だ。
崇文堂書店は、戦前、斉藤さんの親の代から、麻布の地で店を構えている。
斉藤さんは、1919(大正8)年生まれの御年92歳。
戦前、父親は、本のまち神保町で小さな出版社と取次会社を営み、母親は、麻布十番で書店を開いていた。斉藤さんは少年期を神保町で過ごし、戦後になって十番に移り住んだ。
今回、斉藤さんが語ってくれるのは、本のまち神保町の戦前の様子に始まって、少年時代に体験した歴史的事件の空気、軍都東京の記憶、戦後の麻布十番の様子に出版事情の変遷まで。いずれも、東京新参者には耳新しいことばかり。
東京今昔ものがたりの、はじまりはじまり。
(聞き書き:萱原正嗣)
第1回 崇文堂書店(麻布十番)・斉藤光男さん
神保町いまむかし
私が生まれたのは1919(大正8)年3月、今年で92歳です。
両親は麻布十番に住んでいましたが、私は祖父母が住む神田神保町で暮らしていました。家があったのは、すずらん通りの三省堂の裏手の辺り、駿河台下の交差点を少し南に行ったところです。いまは大きなビルがふたつ建ってしまって跡形もありませんが、そのうちの片方のビルの歩道部分に祖父母の家がありました(*)。
* 東京パークタワーと神保町三井ビルディング。家があったのはいまの神保町三井ビルディングの歩道があるところ。
神保町で大きく変わったところと言えば、あの大きなビルぐらいです。すずらん通りの裏手の辺りは当時とてんで変わりません。木造の小さな家がごちゃごちゃと建っていて、当時の面影そのままです。
神保町周辺地図。家のマークは斉藤さんが暮らした祖父母宅。この地図を大きく表示。
親父は、神保町の祖父母の家の一角を事務所にして、小さな出版社と取次を経営していました。屋号はいまの書店と同じく崇文堂です。
最近になって、親父がつくった本を古本屋で探して集めています。40冊くらいは手元にあります。汚らしい本ですが、親父の形見みたいなもので、私にとっては宝物です。
小さな会社だったので、取次といっても、大きな出版社からは相手にされませんでした。当時、神保町には大小十数軒の取次がありました。売れ筋の本を出版社から入手できず、同業者から本を分けてもらって書店に配本していたこともありました。
私も、学校を出てから兵隊に行くまでの間、父の取次の仕事を手伝っていました。配達であちこち回ったのを覚えています。当時はオートバイなんてありませんから全部自転車でした。
九段の坂を上って、麹町の辺りを抜けて、赤坂見附でまた青山通りの坂を上って、そこからは比較的平坦ですが、渋谷まで・・・。自転車の荷台に板を敷いて、本を何列も並べて、何段も重ねて、風呂敷で縛って運んでいました。後ろからは、私の姿は完全に見えない状態でした。いま考えると信じられないですね。
神保町から渋谷までの配達経路。九段の坂を上り、麹町を抜けて、赤坂見附から青山通りに入り、渋谷まで・・・。この地図を大きく表示。
ある歴史的事件の記憶
小学校は、明治大学の裏手にある錦華小学校に通っていました。いまは名前が変わってしまいました(現・お茶の水小学校)。小学校といっても当時は旧制で、尋常小学校の4年間と高等小学校の4年間、合計8年もありました。
小学校を卒業して、水道橋にある商業高校に入学します。毎日、白山通りを歩いて通っていました。
商業高校の2年生の冬のある日、大きな歴史的な事件を体験します。
1936(昭和11)年2月26日の朝のことでした。
その日は、しんしんと雪が降っていました。
学校に向かって神保町の交差点から水道橋に向かって歩いていても、車も人もまったく通りません。いつもは人通りの多い道なので、「今日はバカに人が少ないな」と不思議に思っていました。学校に着いても、生徒もろくに集まっていません。明らかに、いつもとは何かが違う。でも何が起きているかはわかりませんでした。
しばらくして、生徒連中の誰かが「九段の坂のところで、兵隊が剣付き鉄砲で何かやらかしたらしい」と、どこからか聞きつけてきました。でも、学校のなかでは、結局何が起きているかわかりません。その日は、学校に来られなかった先生も多く、授業はありませんでした。確か、次の日は学校が休みになったような気がします。
当時はまだ子どもでしたし、クーデターなんて言葉も知らなかったので、本当に何が起きているか理解できませんでした。混乱していた実感もありません。覚えているのは、人気のない雪の朝の静かな町の光景だけです。
兵隊の記憶
1939(昭和14)年に学校を卒業しました。すぐに親父の仕事の手伝いをして、翌年の12月に初年兵として千葉県佐倉の連隊に入隊しました。同じ年の末には、芝浦から貨物船で中国へ出兵しました。日本には、1943(昭和18)年に帰ってきました。
いまは六本木ミッドタウンになっている旧防衛庁の跡地には、戦前は歩兵の兵営がありました。私もそこに半年いたことがあります。そこから、いまは代々木公園になっている代々木練兵場まで、毎日歩いて通っていました。青山通りを通ったか、青山墓地を抜けて行ったか、詳しいことは覚えていませんが、表参道まで来ると、もう一息という感覚になりました。
あの辺りには、みなが「兵隊おばさん」と呼ぶ人がいて、私たち兵隊に飲み物を飲ませてくれました。どれだけ力をいただいたかわかりません。
行軍経路。ミッドタウン(戦前の兵営地・旧防衛庁跡地)から代々木公園(かつての代々木練兵場)まで。表参道の家マークは山陽堂書店さん。この地図を大きく表示。
軍隊にいたときの「軍隊手帳」(左)と、返還前の沖縄に旅行したときの「身分証明書」 |
跡形もなく焼けた麻布十番
おふくろが、戦前から麻布十番で書店をやっていました。私が小学生のころにはもう店をやっていました。店を始めたのは昭和のはじめごろだったと思います。戦前の店は、いまとは違うところにありました。
空襲で麻布十番一帯はほとんど焼けてしまいました。戦前借りていた店も、跡形もなく灰になってしまいました。土地の権利書も何もかもなくなりました。
一家で路頭に迷いかけましたが、幸いにも、おふくろの商売の縁で、いま店があるところの借地権を譲ってもらえることになりました。おふくろが、まちの人に顔がきいたんです。間口2間奥行き2間(*)と、随分狭くなりましたが、再び店を始めることができました。
* およそ3.6メートル。1間=およそ1.8メートル。
私も、戦争から帰ってきて、おふくろの書店を一緒に手伝うことにしました。親父の出版社も取次も、出版するにも物資はないし、取り次ぐにも本もない。やむにやまれず商売をたたみました。親父は無念がっていましたが、どうしようもない状況でした。
兵隊の仲間には、闇屋の商売をやるような連中もいました。いい品物に当たればいいけれども、なかなかそうもいかないだろうし、最初はうまくいったとしても長く続かないだろうと思いました。ちゃんとした商売じゃないと、続けられないだろうと思いました。とはいえ、私は手に職があるわけでもなく、やったことがあることと言えば本の商売だけ。おふくろの書店を手伝ったのは、ほかに選択肢がなかったというのが正直なところです。いまの土地を借りることができていなかったら、まったく別の人生になっていたと思います。
麻布十番周辺地図。緑の家マークは、現在の崇文堂書店所在地。黄色の家マークはかつて住まいにしていたほったて小屋があったところ(後述)。この地図を大きく表示。
戦後の出版事情
戦争中に出版統制があったせいか、戦争が終わると、みな活字に飢えていました。本をつくりさえすれば売れる時代でした。ただ、出版社自体焼けてしまって、本をつくるのも一苦労でした。そもそも紙は配給制で、刷るにしても部数が限られていました。
そんな状態だったので、書店といってもろくに本がない状態が終戦後一年くらい続きました。どうやって乗り切ったのかと思うほどです。一年くらいして、ようやく本を仕入れられるようになってきました。
当時は雑誌がよく売れました。というよりは、当時の限られた物資では、雑誌ぐらいしかつくれませんでした。単行本のような装丁のしっかりした本は、紙もないし印刷所も限られていて、つくりたくてもつくれませんでした。
なかでも、婦人雑誌はよく売れました。戦前からあった『主婦の友』(主婦の友社)、『婦人倶楽部』(講談社)、戦後にできた『主婦と生活』(主婦と生活社)、『婦人生活』(婦人生活社)辺りが人気でした。『主婦の友』や『婦人倶楽部』は、戦前は立派な装丁の雑誌でしたが、終戦直後は、新聞みたいなタブロイド紙を使っていました。それでも、実によく売れました。
あとは、芸能雑誌とか、いまでいうエログロ系の雑誌もよく出ました。芸能誌だと、『平凡』(平凡出版・現マガジンハウス)、少し後れをとりましたが『明星』(集英社)辺りです。エログロ系だと、鼻紙みたいなザラ紙に印刷しているようなものもありましたが、そういう怪しげなものもよく売れました。戦時中の統制の反動もあったと思いますが、それだけみなが本に飢えていたということだと思います。
ただ、どの雑誌も刷り部数が限られていました。店に入ってくるのは数えるほどです。すぐに売れてしまって、店先に品物がないこともしばしばでした。とはいえ、それだとこちらも商売になりません。現金を持って出版社に直接買い取りに行ったことも何度もありました。
さすがに老舗で大手の講談社には相手にされませんでしたが、平凡出版や戦後にできた婦人雑誌は、彼らも現金がほしいから、行くと売ってくれました。確か、婦人生活社は、空襲を逃れた社長の自宅を事務所にして創業したんじゃなかったかと思います。
実は、築地にある平凡出版を訪ねたときに、電車でお金をスられたことがあります。100冊くらい買おうと思って、店の売上をかき集めたんですが、平凡に着いてみたら財布がないんです。一冊何十円の時代だったと思いますが、大きな打撃でした。あのときの焦りといったらいまでも忘れられません。
ちゃんとした本がうちの書店にも出まわるようになるまでには随分時間がかかりました。戦後十数年から20年くらいかかったかもしれません。
青山にある山陽堂書店さんとは昔からのご縁があります。きっかけは、港区(当時は麻布区、赤坂区)の書店組合での付き合いです。
山陽堂さんは、三田の郵政局がお得意先で、当時のご主人が自転車で配達に行かれていました。その帰りに、うちの店にも立ち寄ってくれました。
山陽堂さんは、空襲をくぐり抜けて、多くの本が残っていました。うちの店に本がないことを知ると、山陽堂さんは本をこちらに回してくれました。うちでも、随分と山陽堂さんから分けていただいた本を売ったものです。
* 山陽堂書店:ミシマガジン取材記事参照
地下鉄が変えた麻布十番のまち
軍隊から帰ってきて、困ったのは住むところでした。空襲で全部焼けてしまいましたので・・・。
麻布十番には、いま交番と公園があるところに、ほったて小屋の長屋が10軒くらいありました。私の場合は、運良くそこに住めるようになりました。四分板を乗っけただけのような屋根だったので、雨が降ったり日が照ったりすると板が反ってきるようなボロ屋です。雨が入り込むのを防ぐために、軍隊からテントをもらってきて、屋根の下に張っていましたが、大雨が振ると水がたまってテントがたわむんですね。風が吹くと屋根が飛びそうになるし、雨の日と風の日は、気になっておちおち寝られたものじゃありませんでした。
終戦の翌年に結婚したんですが、そんなボロ屋で暮らしていました。新婚旅行なんて夢のまた夢です。いま思うとあわれなものですが、当時は住むところがあるだけでも恵まれていました。上野の辺りでは、住むところがない人が地下道で大勢寝ていました。当時はほとんどの人がホームレスです。
ですが、私もそうだし当時の人は、しょげたっていう感じはありませんでした。「何とかしなきゃ」「何とかなるさ」っていう感じで日々を生きていました。
麻布十番商店街、通りの反対側から見た崇文堂書店 |
十番の町が変わった、というか活気づいてきたのは、地下鉄の駅ができてからです。南北線と大江戸線ができたのが2000(平成12)年ですから、ほんの10年くらい前のことです。
それまでは、田舎の町の商店街です。夕方は人っ子一人通りませんし、町全体が居眠りしているような、のんびりした空気が流れていました。
戦後30年か40年くらいして、ようやく商売にも少し余裕ができてきて、書店組合の寄り合いの後に飲みに行くようになりました。銀座に飲みに行って、看板までいるとだいたい12時くらいになって、それからタクシーで帰ってくると、どこも開いている店がないんです。そういうところでした。
ちなみに、銀座からはタクシーで2,000円か3,000円くらい。手頃な距離なんです。それでだと思うんですが、この辺りには銀座で働くホステスさんが結構住んでいました。それが、地下鉄が通ってかえっていなくなってしまいました。理由はよくわかりませんが、ちょっと寂しい思いがあります。
まぼろしの日比谷線
麻布という地名は、江戸時代から続いています。住んでいる人も古く、まちにも歴史があります。そのせいか、私が若かったころは、まち全体に閉鎖的な感じがありました。商店街の寄り合いに顔を出すと、お年寄りの方と意見があわないこともよくあります。そういうときは決まって「だからよそ者はダメなんだ」と言われました。大阪から来たっていうならまだわかりますが、同じ東京の出身です。それをよそ者呼ばわりするぐらい、地の人のつながりが強いところでした。
日比谷線は、そもそもの計画では麻布十番を通るはずだった、と聞いたことがあります。
日比谷線のルートは、霞が関から虎ノ門、神谷町まではほぼ真っ直ぐに進んでいますが、神谷町を出ると飯倉付近で右にほぼ直角に曲がって六本木に迂回して、六本木を出ると今度は左に急激に曲がって広尾に向かいます。この曲がり方は実に不自然です。
飯倉で曲がらずそのまままっすぐ行くと、その先に広尾があって、麻布十番はその中間にあります。この直線ルートが、最初に計画されていたものだったはずです。
それがいまのルートになったのは、「そんなものができたら、いろんな人が来る代わりに古いお客が離れて逃げちゃう」と、土地の古い人が反対したからだ、と昔に聞いたことがあります。いまでは誰に聞いてもそんなことはなかったと言いますが、不自然な曲がり方や、寄り合いでの年配の方の反応を思い出すと、きっとそうだったんだろうと思います。それを認めると、「あいつが悪い」っていう犯人探しになっちゃいますから、いまとなっては誰も認めないんだと思います。
「幻の日比谷線」。薄いグレーが現行ルート。濃いグレーが「幻」のルート。この地図を大きく表示。
地下鉄が通ってほんの10年ですが、まちが随分と元気になってきました。地下鉄が、いろいろな人を運んできてくれたんだと思います。
