凍った脳みそ

第21回 4秒の壁

2017.11.16更新

 コールドブレインには録音用のブースがない。

 そう書くとアジカンのメガネのスタジオはスタジオとは名ばかりで、四方の壁が崩れて開けっ放しになったアバラ家のような建物の一角を不法に占拠してスタジオと称し、近隣に騒音被害を与えているのではないか、という疑惑を持つ人がいるかもしれない。

 誤解を解くために言葉を重ねれば、コールドブレインは四方が開けっ放しにならない地下物件である。そして、何らかの手抜きや怠惰の象徴として録音ブースを作らなかったのではなく、敢えて作らなかったのだ。

 コンピューターの処理速度と音楽制作ソフトの発展は目覚ましい。大きなギターアンプを自室に持ち込まずとも、インターフェイスと呼ばれる小さな機器にケーブルを直接差し込んで、楽器の演奏が録音できるようになった。

 ギターアンプが要らないだなんて嘘をつけ、貸した金を返せ、失った青春を返せと憤慨する元ギター・ロックキッズもいるだろうから加えて解説すると、最近では様々な種類のギターアンプやスピーカー、マイク、音響的な処理をするエフェクターなどがパソコンの内部で精密に再現されるようになった。仮想のスタジオがパソコン内に立ち上がって、下手にマイクを立てるよりもいい音で録音することができるのだ。

 こうしたコンピューター技術の発達を受けて、ブースなんて古いじゃん、逆に面倒じゃんと考え、ギターアンプの類を一切使わないで録音を行う一派もある。

 けれども、俺はそうしたパソコンだけで何でもやれるじゃん派の一員としてブースの設置を拒んだわけではなかった。簡単に言うと、費用と効果のバランスが悪いと考えたのだった。

 録音ブースは、音の編集や調整をするための部屋と、楽器や声などの音をマイクで収録する部屋を分けるために存在している。

 編集や調整を行う部屋はコントロール・ルームと呼ばれていて、そこではバンドの演奏中もリアルタイムでいろいろな機材の操作が行われている。そして、「ドラムの音は饂飩で言うならば大阪風ではなく讃岐風のコシのある感じにしたい」だとか、「さっきの音はソースにマヨネーズを混ぜた感じがしてくどい」というような会話が同時になされているのだ。ときどき屁をこく者もいる。

 一方で、録音ブースとコントロール・ルームが一体になっているスタジオで同じことをしようとすると、録音に対するディスカッションがギターアンプやドラムスからの爆音にかき消されて、話し合った形跡のない支離滅裂な音源が出来上がったり、「あそこのフレーズ、ダサくね?」というような演奏者に対するディス、エンジニアやスタッフの放屁やイビキ、咳払いの音などが演奏と一緒に録音されたり、様々なトラブルが発生してしまう。

 そうなるとアジカンのメガネの関わった音源には屁の音が入っている、メンバー同士の罵り合いがギターに混じって聞こえてくる、ということになって、最初のうちは話題になったとしても、徐々に仕事が減ってしまうだろう。

 それではまずいので、やっぱり録音ブースを設置しよう。と焦って工務店に電話をしてはいけない。

 なぜなら、コールドブレインは俺の個人的な作業場であるため、己の演奏や歌唱を己で録音するワンオペを基本としているからだ。

 ワンオペで録音を行う場合には、もちろん誰とも話をしない。そこそこの音量で鳴っているギターアンプの音を打ち消すほどの独り言は言わないし、歌いながらまったく別のことを喋るというような奇特な能力を身につけてもいない。屁は我慢できる。よって不必要な音がうっかり録音される可能性が低い。

 これだけ書けば、コールドブレインに録音ブースは要らないのだなと納得してもらえるとは思うけれど、さらに付け加えるならば、ワンオペは録音ブースとの相性が悪かった。

 例えば、歌の録音をする場合、マウスやキーボードにタッチして録音をスタートさせる。ボーカル用のマイクはパソコンの近くに設置して、身体を少しずらすくらいで歌の録音ができる体勢を整える必要がある。歌手とエンジニアの二役をこなすには、この方法が効率的なのだ。

 ところが、録音ブースで歌うということになると、画面上の録音のボタンをクリックしてからブースに向かって歩き、防音の扉を開いてブースに入り、マイクが風圧で痛まないように扉をゆっくりと閉め、ヘッドフォンをしてマイクの前に立つことになる。この間に10秒くらいの時間を要するので、マイクの前にたどり着く間にイントロが終わってしまう曲もある。

 とすれば、俺は歌の録音を始めるより、まずは俊敏な肉体の獲得を目指さないといけなくなるだろう。当然、ジムに通ったり、栄養士に食事の指導を受けたり、アスリートのような生活を強いられる。そうして鍛え上げれば、いずれ3秒くらいでブースの中まで行けるようになるかもしれないが、肉体改造にかかる費用のことを考えると暗く冷たい気持ちになる。

 早く自作の歌の録音に取り掛かりたい。けれども、楽曲のスタートから歌のはじまりまで4秒しかない。現在の体力では、どうやっても1秒くらい遅れてしまう。というか、4秒の壁をもう半年も破れないでいる。昨日は4秒83だった。なんとか歌い出しに間に合いたい。歌い切ってアルバムを完成させたい。そのためには今日もジム、明日もジム、合間にプールへ行き、朝昼晩と笹身だけを食べ、あまり美味しくないプロテインを飲まねばならない。その繰り返しにはうんざりだ。ここまで来るのに三年もかかった。そうこうしている間にバンドのメンバーは怒っていなくなってしまった。なんてことだ。畜生。

 という感じで、脳が凍り付くだけでは済まずに、収入が激減してスタジオは閉鎖に追い込まれるだろう。

 かくして、録音用のブースは設置されなかった。

 幸運にもコールドブレインは角ばった「9」のような形であるため、右下の柄のようなスペースにギターアンプを設置し、仮想ブースのように使用することもできた。よって、不便を感じることが少なかった。

 ところが、どういうわけかプロデュースの仕事が増え、複数のミュージシャンやスタッフたちと作業をする機会も増えた。「屁の音が録れちゃう問題」が再燃するのは当然の成り行きだった。何より、演奏の録音中に息を潜める必要があったり、リアルタイムで良し悪しについてのディスカッションができなかったりするのは、バンドのような形態で行う録音には不向きだった。

 というわけで、俺は意を決してスタジオの設計と施工を行っている会社に連絡し、録音ブース設置の見積もりを取った。別途で必要になるジムや笹身の代金を考えると気が重かったけれど、これから一緒に仕事をするバンドたちのためには、一刻も早い工事が必要だった。

 担当者と話し合い、角ばった「9」の字の柄の部分の根元に防音壁と防音扉を設置してスタジオを「口」と「I」に分離し、「I」の部分を録音ブースに改造することにした。

 元々、「I」の壁面にはブースに使うような吸音素材を使用していたため、工事はとてもスムースに行われ、工賃も抑えることができた。

 さて、次はジムに通わなければならない。バンドとの作業が増えても、ワンオペ仕事がなくなるわけではないからだ。俊敏性を手に入れなければ、イントロの長い曲しか作れなくなってしまう。

 毎日食べる大量の笹身についても思案が必要だろう。業務用に大量販売している会社を見つけて購入するのが割安だろうか。

 俺は新しい生活に対する不安で一杯になり、心が押しつぶされそうだった。

 けれども、風呂に浸かってよく考えてみると、歌のワンオペ録音は今まで通り、ブースを使わずにパソコンの近くで行えばいいだけのことだった。

 ラルラルラー。録音ブースが完成する前と同じ方法で、俺は高らかに自分の歌声の録音を行った。急速に心身の緊張が解けたためか、必要以上に滑らかに歌うことができた。
 同時に尻から吐息のような安堵が漏れ出た。

 何らかの音が鳴ったような手応えというか尻応えがあったけれど、朗らかな歌声にかき消されて、不思議と雑音が録音されることはなかった。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

後藤正文(ごとう・まさふみ)

1976年静岡県生まれ。日本のロックバンド・ASIAN KUNG-FU GENERATION のボーカル&ギターを担当し、ほとんどの楽曲の作詞・作曲を手がける。ソロでは「Gotch」名義で活動。また、新しい時代とこれからの社会を考える新聞『THE FUTURE TIMES』の編集長を務める。レーベル「only in dreams」主宰。

何度でもオールライトと歌え

『何度でもオールライトと歌え』後藤正文(ミシマ社)

2016年4月27日発売!!

バックナンバー