凍った脳みそ

第9回 Aから片付けることの面倒とZからのリスク

2016.12.15更新

 楽曲制作が順調に進むくらいには環境の整ったコールド・ブレイン・スタジオではあったが、部屋の隅にはまだいくつかの段ボール箱が荷を解かれぬまま転がっていた。
 中身は大量のCDだった。

 そんなものは直ぐ様にガムテープの封を剥がして壁沿いに備え付けられたCD棚に移したらいいではないか、ということは人に言われるまでもなく、誰よりも強く自分自身に投げかけたい言葉だった。

 ところが、思っても一向に手をつけられない用事というのはよくあるもので、特別に怠惰というわけでもないのにどうしても気が向かない行為の代表的存在のひとつに、引越し後の荷物の片付けがあげられるだろう。

 そうした性質を「仕方がないよね」という心持ちで無批判に受け入れてゆくとワイドショーなどでお馴染みのゴミ屋敷が出来上がるのかもしれない。ゴミ屋敷に住んで近隣の住民から白眼視されることに対する恐怖がないわけではなかったが、そのような恐怖心を飲み込んだり誤魔化したりしながら、消極的に選択したのは段ボールの「放置」だった。

 何しろ箱の中にはCDが二千枚くらいある。そういった量的な、物理的な情報というのは存外に強烈で、荷を解いて仕舞うだけでも重労働なのに、新しい棚への収納について頭を使わなければならないという事実も俺を段ボールから遠ざける一因だった。

 これが食器の類ならば、一旦はキッチン台や食器棚へ無造作に並べてから、その後でゆっくり時間をかけて、茶碗、湯呑み、急須、銚子、大徳利、御猪口、杯、平皿、深皿など、用途や重さなどを基準にして並べ替えることもできるだろう。見るからに形が違う、感触も違う、材質が違う、用途が違う。そういった差異を楽しみながら仕分けられるかもしれない。違いの分かる男を気取ってドヤ顔のひとつもできよう。

 ところがCDとなるとそうは行かない。CDはジャケットこそ違えど、その外観や質感についてはおおよそ統一されていて、例えば目を瞑って撫でまわしながら「やっぱり中期ビートルズのCDケースは収録内容に引けを取らないくらいにサイケデリックだね」という感慨を得ることができない。アートワークなどの視覚的な情報を遮断すれば、手の内に無機質なプラケースがあるのみだ。何の楽しみもない。しかも、俺は収納スペースを圧縮するべく、すべてのCDをソフトケースに入れ替えて保管している。そうなると一層、それぞれに違いのある作品たちの手触りはヌメッとした塩化ビニールでしかない。そのヌメッた塩ビの内側のジャケットに刮目しながら、アルファベット順に作品を並べてゆく作業の単調さ、その割に神経を使う様、どこを取っても後回しにされる要素しかないではないかと俺は思う。

 しかも、我がスタジオの移転に際しては、薄い塩ビのケースが災いして「M」から始まる作品の列の隙間に「N」が頭文字のアルバムが紛れ込む、「S」の段ボールの中で様々なバンドのCDがゴチャ混ぜになっている、などの問題も発生していた。俺の片付けへの意欲は萎えるばかりだった。

 それでもどうにか気持ちを整えて、エイヤと荷を解いてみたものの、予想通りCDの片付けは面倒だった。

 新しい棚に移すには、新しい棚幅に合わせて「A」から「Z」の作品を振り分ける必要がある。アルファベットの字数からして真ん中は「M」と「N」の辺りだろうと高を括って適当に段ボールを開けて行くと、思った以上に「S」と「T」から始まるバンドやアーティストが多い、「H」や「I」や「J」の層が薄い、といった事態に直面して、何度も棚を移し替えなければいけなくなってしまう。

 というわけで、CDを棚に収納する場合は、「A」か「Z」から作業を始めるのが合理的だという当たり前の事実に俺は到達したのだった。

 よし。「A」の箱はどこだろう。と思って探すと、「A」の箱が見当たらない。それならば「Z」から作業しようと思ったが、「Z」の箱も見当たらなかった。どちらの箱も積み上げられた段ボールの最下段、しかも奥にあるらしい。

 仕方がないので、ひとつずつ箱を退けて積み直した。CDがパンパンに詰まったダンボール箱は想像以上に重く、腰の辺りで滞った血流が原因なのか、俺の脳みそはキンキンに冷えてゆくのだった。

 どうにか「A」を掘り当てると、「A」の箱には「A」だけでなく幾らかの「B」の作品も収納されていた。しかも、先に取り出して棚へと移したい「A」よりも、「B」のCDたちが箱の上側に入れられていた。引越し作業員たちが「A」から箱に仕舞っていったのだろう。ということを考えると、棚に移す際は、最後に箱に納められたであろう「Z」から取り出したほうがスムースかもしれない。

 うむ。では、開けてしまった「A」の箱を触るのは止して、「Z」の段から収納してゆこう。めでたし、めでたし。とはならなかったのは、新設した棚のキャパシティを俺が把握していないからだった。全部で何枚のCDが収納できるのかを知らなかった。ということはつまり、すべてのCDを収め終わったときの終点にあたる場所がどのあたりになるのか分からないということだ。

 これはまずい。

 例えば、棚の右下を終点と考えて「Z」から並べていった場合、棚の最上段の左端に妙に広いスペースが生まれてしまうかもしれない。コンサートなどのイベントで入場者を後部座席から案内していったところ最前列付近がガラガラになってしまって決まりが悪く、相当のチケット代を払った観客たちが席を移せと激怒、それを気にした演者のパフォーマンスも落ちて感興が削がれる、みたいな状況、という例をあげればわかるように、「Z」からの作業は様々なリスクを孕んでいた。

 八方が塞がった俺は、もう一度「A」の箱に戻って、「B」の端数を別のスペースに退けてから「A」を然るべき棚に仕舞い、その続きに避けておいた「B」を移して並べ、今度は「BCD」と書かれた箱の上部から「C」と「D」を取り出して避け、箱の底にあった「B」を続きの棚に仕舞ってから「C」と「D」順番に並べる、というような、書いたり読んだりするのも煩わしい工程を箱毎に繰り返したのだった。

 作業をしながら、大好きで集めたはずのCDたちに対して、どこか恨めしいような、ネガティブな感情が湧きあがっていった。同時に、棚に収まり切らないという事実が露わになっていったのだった。そして、いつしか分厚いデジパックや紙ジャケットといった特殊仕様作品への怨恨が心に芽生え、スペースも取らずに大人しく陳列している塩ビに比べて主張が強い、幅を利かせている、自由や権利を履き違えている、対案を出せ、つうか塩ビを見習え、痩せろ、黙って無給で残業しろ、社歌を斉唱せよ、敬礼せよ、というような雑言でスタジオがいっぱいになってしまった。

 ところが、そっちがその気なら断捨離だ、捨てて捨てて、剃髪して出家してやる、という捨て鉢な気分でボキボキと特殊ケースを粉砕してゴミ袋に投げ込む、ということはできなかった。何しろ、ほとんどが好きで集めたものだった。

 よくよく考えれば、二千枚のCDのそれぞれを四十分程度と見積もっても、すべて聴き返すのに八万分、千三百時間以上かかることになる。二ヶ月くらい不眠不休で聴き続けて、やっと聴き終わるくらいの情報量だ。しかも、毎月十枚くらいのペースでCDは増えている。そう考えると、リスナーとして、これだけのCDを所持する意味や必要性は薄いのかもしれない。

 ところが、資料性を考えると不必要だとは言い切れない。辞書の「ぬ」の段を引くことは滅多にないからと言って、要らないとは言えない。現在は不必要と思わしきCDも、いつの日か、音色やプロダクションの参考やインスピレーションの源となる日が来るかもしれない。実際に友人たちが参考にと借りて帰ってゆくこともある。そう考えると、「断捨離じゃ、リストラじゃコラ、ボケカス」という気持ちはすっかり萎んでいった。ドメスティックバイオレンス後の亭主よろしく、「別れないで」と泣いて縋りたい気分でもあった。

 ただ、全面的に愛とも呼べない何らかの感情がスタジオの片隅に数百枚積み上がったのも事実で、俺の脳は深々と凍ってゆくのだった。

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後藤正文(ごとう・まさふみ)

1976年静岡県生まれ。日本のロックバンド・ASIAN KUNG-FU GENERATION のボーカル&ギターを担当し、ほとんどの楽曲の作詞・作曲を手がける。ソロでは「Gotch」名義で活動。また、新しい時代とこれからの社会を考える新聞『THE FUTURE TIMES』の編集長を務める。レーベル「only in dreams」主宰。

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