万字固めがほどけない

第1回 ナチュラル・ボーン

 世の中に数ある手強いもののうち、とりわけ外国語が放つ手強さといったら、誰もが深く首肯するところだと思うが、ご多分に漏れず、私も英語が苦手である。その向こうに限りなく広がる新世界の一歩手前で足踏みすることは、きっと多くの損を人生にもたらしているのだろうな、とは承知している。日本語に翻訳されていない本を原書で読み、「いやあ、おもしろかった。最高!」と感想を述べることができる人へのやっかみは、終生消えることはあるまい。だが、完全に没交渉なわけではない。中学、高校、大学を経て、長年なまあたたかく接してきた英語に関しては、今も「好きな英単語」という、絶対にネイティブのみなさんには理解できぬ、日本人限定の楽しみ方を享受することができる。

 たとえば、私は「superstition」という単語が好きだ。頭に「super」と冠しているうえに、こんなに長いのだから、きっと何かを大きく超えてくる単語、派手にしでかしてくれる単語だろうと期待させておいて、その意味は「迷信」。地味だ、たいへん地味だ。まったくスーパーではない。何も超えていない。むしろ戻っている気がする。

 同じく字面からはその意味の印象をかけらも感じ取れない、そこがまたたまらない単語に「triumph」がある。「トライアムフ」と読む。読み方はずいぶんちがうが女性下着メーカーと同じつづりだ。この単語の意味は「大勝利」である。だがどれほど発音してみても、まったく大勝利という気がしない。

「ヤッホイ! トライアムフゥッ!」

 いっさい勝利のよろこびが湧き上がってこない。しかし、この四角四面な手触りが、栄光のイメージを最大限に背負っているのだから、まさしく異文化を代表する単語のひとつではないかと思うのだ。

 さらには「psychopath」がある。そのまま、「サイコパス」と日本語で使われることも多くなってきた。意味は反社会的人格を有する精神病質といったところで、連続殺人犯が登場するノンフィクションや小説では、必ずといってもいいほどこの単語が登場する。されど、私にはどうも違和感がある。何というか、こわくないのである。人を殺めることが倫理的に悪だと理解できない、心の欠けた不気味な存在を意味するのだが、おそらく「サロンパス」という商品のせいだろう、ちっともこわくない。もしくは「オクトパス」のせいか。

 いつか、異常人格の連続殺人犯に追い詰められ、
「ハハッ、私は世でいうサイコパスってやつでね」
 とショットガン片手に、陽気に会話をもちかけられたりしたら、
「え? オクトパス?」
「そうそう、ちゅうちゅうタコかいな――、って誰がやねん、ズドン」
 と往生際のやり取りを交わしてしてしまいそうだ。

 そんな、ほとんど思いこみに近い楽しみを与えてくれる英単語のなかで、外見のみならず、中身に関しても深いものを伝えてくれる単語がある。

 単独ではなく、組み合わせた言葉ではあるが、「natural-born」だ。何といっても、最後の「ぼーん」と伸ばすところが心地いい。意味は「生まれながらの」「生得(しょうとく)の」であり、私はこの単語を知ることで「生得」という言葉をはじめて目にしたと思う。見知らぬ英語から、見知らぬ日本語に遭遇する不思議である。

 この「natural-born」は響きそのものからして素敵なわけだが、それに加えて予備校時代に英語の授業で聞いたエピソードが今も忘れられない。
 おそらく、この言葉が問題文あたりに顔を出し、「ボーン」つながりから脱線した話だったのだと思う。

 突然、先生が東京大学に入るために八浪した男の話を始めた。
 その男はとにかく骨の勉強がしたかったのだという。
 小さな頃から人間の骨にたまらない興味を抱いていた彼は、将来骨の研究者になりたいと願っていた。高校時代、自分の部屋にも人体の骨の標本を飾り、骨に関する書物を読みあさり、骨への熱意を日に日に高めていた。そんな誠実なる学究の徒を目指す彼の前に、大きな試練が立ちふさがる。
 そう、当時、人間の骨を学問として研究する学部が、日本には東京大学にしかなかったのだ。
 悩むことなく、彼は東大を目指すことを決めた。東大に入らないことには、骨の研究ができないのだから仕方がない。しかし、相手は東大だ。残念なことに、彼の受験科目に関する学力は決して高くはなかった。はっきり言って、東大受験はかなり無理のある挑戦だった。
 一年目、不合格。
 二年目、不合格。
 でも、彼はあきらめない。
 三年目、四年目、五年目――、不合格。
 それでも、あきらめない。
 六年目、七年目と無情にも過ぎ去り、八年目、数えて九度の挑戦で、彼は長い試練の時間に終止符を打ち、ついに東京大学の門をくぐる資格を得る。

 受験勉強のかたわら、彼は骨についての研究を八年間黙々と続けていた。ゆえに、入学の時点ですでに彼に勝る骨への知識を持つ学生は、大学にひとりもいなかった。彼は新入生にもかかわらず、院の研究室に出入りするようになった。すぐさま、その学識を認められ、教授の助手を務めるかたわら、大学一年のときから論文を続々と発表したそうである。

「ナチュラル・ボーン」

 と先生は言った。まさに彼は生得の骨(ボーン)研究家だったのだ。
 このささやかな雑談は、当時予備校生だった私の心に深い印象を刻みつけた。
 今となって振り返るに、このとき先生の話した内容がどこまで本当のことだったのかはわからない。人の骨の研究ができる大学が日本で東大しかない、というのは少々あやしい気もする。だが、今さらそれについて調べるなんて野暮な真似はしない。このとき「natural-born」という意味について、私が深く考えさせられたことは、変わることのない事実だからだ。

 この八浪男のエピソードは、大学で学ぶということについての、究極の純粋さを表していた。学びたいことがあるから大学に行く。きわめて当たり前のことように聞こえるが、実際にここまで研ぎ澄まされた動機を抱き、受験する若者はそうはいないだろう。

 この話を予備校の教室で聞いたとき、私は己が「natural-born」ではないことを痛感した。別に文学部でもいいのだけれど、せっかく浪人したことだし、難しい法学部のほうを受けとくか、といい加減に揺れていた自分とは、その意識に雲泥の差があった。「生得の」という言葉の次にくっつけて、己を紹介すべきものなど何も思いつかなかった。八浪はさすがに勘弁だが、それほどまでしてやりたいことがあるくだんの彼を、とてもうらやましいと思ったのである。

 先日、この「natural-born」という言葉にまつわる感覚を、ひさびさに呼び起こされる出来事に出会った。
 私の作品の表紙を、デビュー作から数多く担当してくださっている画家の石居麻耶さんとお話しする機会があったとき、
「いつから自分が人とちがって、絵がうまいことに気づいたのか。やっぱり、幼稚園や小学校の図画の時間に、まわりとの出来がちがうことで、自分の才能を知ったのか」
 といったようなことを私は訊ねてみた。

 私が文章に対し、人より少しだけ意識が高いと気づいたのは、大学三年生のときだった。大学がネット環境を整備し、学生一人ひとりに電子メールのアドレスを配布したことがきっかけだった。携帯もパソコンも持っていなかった私は、生まれてはじめて、さして用もなく文章を書くという経験を持った。そこで、どうも自分はおもしろい表現を探す熱意が他人よりも高いらしい、とそれまで思いもしなかった己の傾向を知った。同じように石居さんも他者との比較から、自分の得意なものの萌芽を見出したのかと思ったのだ。
 しかし、答えはまったく予想しないものだった。

「言葉というものが、うまく出てこなかったからです」

 言葉で自分の思うこと、感じたことを説明することが小さい頃から苦手で、絵で描いたほうがすんなりそれを表現できたから、気がついたら絵ばかり描いていた――、と石居さんはスタート地点にあったものを語ってくれた。「頭に浮かんだものは何でもかんでも文字にしてやろう」と、とかく企みがちな私にとって、石居さんの話には別の世界の存在を突如教えられたような、ハッとさせられる驚きがあった。

 ナチュラル・ボーン。

 八浪して東大に入った骨好きの彼の話を聞いて以来、その言葉が鮮やかな実感を伴って蘇った。
 だが、むかしとちがったのは、あの嫌な焦燥感がもはや湧き上がってこなかったことだ。

 振り返ってみれば、我が二十代は己が「natural-born」とは無縁だったことへの焦り、先天的なものがないのなら、後天的なものを探し出してものにするしかないという強迫感に追い立てられた十年だったように思う。されどときは経ち、骨好きの彼の話を聞いたときの倍近い年齢になってようやく、あの焦りの日々は、これから幕が開くのを待つ者にだけ与えられる、特別な時間だったことを知ったのだ。

「natural-born」

 今一度、声に出してつぶやいてみる。
 この響きに無性に心乱された十代、実際に格闘した二十代を経て、先天的なものがあろうとなかろうと、その後進むべき道の険しさに何の違いもない、と知ったこの三十代――、なんとひとつの言葉と私は長い間じゃれ合ってきたことか。

 もっとも、「ぼーん」という後半部分の楽しさは今もって何ら変わらない。七十、八十になっても、きっと変わらずあってほしい。

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プロフィール

万城目学(まきめ・まなぶ)

1976年生まれ、大阪府出身。京都大学法学部卒。
2006年、『鴨川ホルモー』でデビュー。
主な作品に『鹿男あをによし』『プリンセス・トヨトミ』『偉大なる、しゅららぼん』など。
また、エッセイ集に『ザ・万歩計』『ザ・万遊記』がある。

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