第1回 ミシマ社との出会い
2009年1月19日、私は会社に辞表を出した。
会社を愛し、作家と仲間に恵まれて、たくさんの本を作った。
偉大な編集者であり社長の、怖くて優しくて、もっとも近くて遠い存在だった見城さんのもとを離れることは私にとって、ほんとうに人生の一大イベントであったと思う。
辞表を出す前日までに私はすでにくたくたになっていた。考えに考えぬいたからだ。
考えに考えぬく、というのは見城さんが好きな言葉で、考えに考えぬかないと社員は皆、叱られた。だから私は、考えに考えぬいた。
1月19日は、暦上 「てんしゃ」というよい日だった。
陽の高いうちに全力で退社の意志を見城さんに伝えた私は、もうフラフラだったが、じつはこの夜、もうひとつ、大切な用事を入れていた。
それは、ミシマ社の社長のミシマさんと会うというもので、それも、「てんしゃ」だという理由でこの日にしていた。
ミシマ社との出会い。それはさらに数ヶ月前にさかのぼる。
2008年秋、東京・水道橋。聖地・後楽園ホール。
みちのくプロレスに誘ってくれたのは、精神科医の香山リカさんである。香山さんの『鬱の力』という五木寛之さんとの共著書で、一緒に編集担当した幻冬舎の小木田順子さん(コギー)とともに試合を楽しんだ。
十年ほどのブランクがあったが、私はプロレスの見方を忘れていなかった。
その昔、角川書店にいたころの先輩がプロレス好きで、プロレスを教わった。
会場に足を運び、週プロとゴングとビデオを買い、試合をおさらいし......を、ある時期
よくやったおかげで、技を味わう力というものが、自分のなかにまだ残っていたのである。
休憩時間にトイレへ。
聖地の狭い通路は、パンフやグッズ売りの若いレスラーやスタッフ、そこに群がるお客さんたちで、まさに「むんむん」という表現がぴったりの熱気に包まれていた。
そんな暑苦しい人々のなかに、ひときわ清潔で涼しい、ひとつの集団がいた。
おそろいのTシャツを着た5、6人が、本を売っていたのである。
本をもつ手を高く掲げて、元気に声を出す彼ら。
おそろいのTシャツには、「ミシマ」と、へのへのもへじ状にやや頼りない文字で描かれている。
本はプロレスライターの斎藤文彦さんのコラム集で、版元の社員のようだ。
彼らはとても感じがよい。
私自身もかつてタレントさんやミュージシャンの本を作り、ライブ会場販売をよくやったものだ。
作った本をお客さんに手渡すのは本当に楽しい! その興奮が伝わってくる。彼らを目前にして、退社を考えていた私のなかに、さまざまな思いがこみ上げた。
ミシマ社の姿がいかに私の胸を打ち抜いたかを、帰りぎわ私はコギーに熱く語った。
勉強不足の私はミシマ社を知らなかったのだが、業界で注目の、小さな自由が丘の出版社であるらしかった。
社長のミシマさんはプロレス会場にはいなかったが、31歳の若さで出版社を立ち上げ、起業3年目に入るところであるという。
「ミルコさんの心にミシマ社がそんなにひびいたなんて......」とコギーは楽しそうに笑いながら、じゃあミシマさんをこんどちゃんと紹介しますねーと約束してくれた。
コギーは約束を守ってくれた。
てんしゃの夜、私はミシマさんに会えた。念願のミシマ社訪問を果たし、そのあと三人で自由が丘駅前の居酒屋「かねだ」で、ちょっとお酒を飲んだ。
ミシマさんはすごい巨体であるとか極端に小柄だったりということはなく、ふつうにちゃんとした若い男子だった。髪と眉がくきりと黒い。
謙虚だが迫力があった。ミシマさんは、私の友達の誰にも似ていなかった。まったく新しいタイプの人物との出会いといえた。
それからしばらくして、小さなパーティをやるので来ませんか? というお誘いを受けた私は古い一軒家のミシマ社を再び訪れる。
一階の居間に、社員メンバー7人と、数人の仕事仲間の方々がいらした。机にはお寿司のほかに、お客さんの手土産のお惣菜やら菓子やらが並べられ、それらをつまみながらおしゃべりをするという、それだけのものだったのだが和気藹々とし、会はとてもあたたかだった。
ミシマ社の面々は私がプロレス会場で見抜いたとおり、いっしょうけんめいで 、創造力とやる気にあふれ、そしてミシマ社にはきれいなエネルギーが流れていた。このメンバーが集まると虹ができるような。
こうしてミシマ社との交流は始まり、ミシマガ創刊にあたり、大好きなミシマ社のページのひとつをもたせていただけることになった。ご縁に心から感謝している。このところ立て続けに虹を見た。とてもはっきりとした、二重の虹だ。
