ミルコの六本木日記

第4回 知らない人に怒られる

平日の夕方、地下鉄に乗っていた。

車内はやや混んでいたが人とぶつかるほどではない。
席は埋まっており、私はつり革につかまり立っていた。
マスクをしている人も何人かいたなかで、私はのどの渇きが気になって、
肩にかけていたかばんからペットボトルを出し、水を飲んだ。

手術の後遺症でいま右手が不自由な私の動きは、にぶかっただろうとは思う。しかし飲むとき誰かに肘をぶつけたり、水をかけてしまったりといった迷惑はなかった。
なのにとつぜん、隣に立っていた人が、私に怒りだした。

はっきりおぼえていないが、「電車のなかで水を飲むなんて、まわりに迷惑だと思わないのか」というようなことだった。

彼は私に言い放ったあとは、まっすぐ前を向いて黙った。
私より年上の中年男性で、忙しそうではない。
無表情で、私を見ているようで私を見ていない。
 
よしもとばななさんの「なんくるない」が浮かんだ。

本屋で本を探していた小説のなかの「私」は、思いがけず書店員に怒りを向けられる。

「あんたがどんくさいからいけないのよ!」

そう言われて、「私」は、書店員に返す。

「私があなたに何をしたっていうんですか?」

すると書店員の彼女は「私」にこう言うのだ。

「わかりません、でもあなたを見ているだけで、あなたのような人の全てに、無性に腹がたつんです」

地下鉄での私は、「なんくるない」の「私」だった。
男に言い返すべきか?

「私があなたに何をしたっていうんですか?」と。
 
私が何かしてもしなくても、彼は私を不愉快なのに違いない。
そして私をふくむ、世の中ぜんぶにも。

男が私を責めたあとも、私たち二人は無言で、隣どうしで立っていた。
まわりの何人かが私を見たような気がした。
皆、私が男に言い返すのを待っていた。

結局私は何も言わないまま、何駅かに亘る時間を、男の隣で過ごした。
 
言い返したら、何かに屈してしまう、そんな気がした。
いまでも男の暗い横顔をはっきり思い出すことができる。

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プロフィール

山口ミルコ(やまぐち・みるこ)

東京都生まれ。角川書店雑誌編集部から94年2月、幻冬舎へ。20年に亘り、文芸から芸能ものまでさまざまな本を編集。2009年3月、幻冬舎を退社。趣味でジャズを愛好、サックス・クラリネット奏者として港区で活動している。

【お知らせ】
秦建日子さん作演出の劇団・秦組の舞台「らん」(7・7〜11六本木俳優座にて)に出演します。

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