第4回 知らない人に怒られる
平日の夕方、地下鉄に乗っていた。
車内はやや混んでいたが人とぶつかるほどではない。
席は埋まっており、私はつり革につかまり立っていた。
マスクをしている人も何人かいたなかで、私はのどの渇きが気になって、
肩にかけていたかばんからペットボトルを出し、水を飲んだ。
手術の後遺症でいま右手が不自由な私の動きは、にぶかっただろうとは思う。しかし飲むとき誰かに肘をぶつけたり、水をかけてしまったりといった迷惑はなかった。
なのにとつぜん、隣に立っていた人が、私に怒りだした。
はっきりおぼえていないが、「電車のなかで水を飲むなんて、まわりに迷惑だと思わないのか」というようなことだった。
彼は私に言い放ったあとは、まっすぐ前を向いて黙った。
私より年上の中年男性で、忙しそうではない。
無表情で、私を見ているようで私を見ていない。
よしもとばななさんの「なんくるない」が浮かんだ。
本屋で本を探していた小説のなかの「私」は、思いがけず書店員に怒りを向けられる。
「あんたがどんくさいからいけないのよ!」
そう言われて、「私」は、書店員に返す。
「私があなたに何をしたっていうんですか?」
すると書店員の彼女は「私」にこう言うのだ。
「わかりません、でもあなたを見ているだけで、あなたのような人の全てに、無性に腹がたつんです」
地下鉄での私は、「なんくるない」の「私」だった。
男に言い返すべきか?
「私があなたに何をしたっていうんですか?」と。
私が何かしてもしなくても、彼は私を不愉快なのに違いない。
そして私をふくむ、世の中ぜんぶにも。
男が私を責めたあとも、私たち二人は無言で、隣どうしで立っていた。
まわりの何人かが私を見たような気がした。
皆、私が男に言い返すのを待っていた。
結局私は何も言わないまま、何駅かに亘る時間を、男の隣で過ごした。
言い返したら、何かに屈してしまう、そんな気がした。
いまでも男の暗い横顔をはっきり思い出すことができる。
