ミシマ社の話

第61回 12年目。別れと決意

2017.12.09更新

 先日、ミシマ社は11周年を迎えました。この間、支えていただいた皆さま、そして読者の方々に心から感謝いたします。
 その思いを伝えるため、9月の末に自由が丘で、10月の中旬に京都で、「一年遅れの10周年記念パーティー」を開催しました。わざわざ「一年遅れの」をつけるくらいなら、去年やればいいじゃないの、と言われる方もいましたが、ごもっとも。
 一年前、このコーナーでこんなことを書いていました。

「10周年イベントはしないんですか?」
 ときどき、そんなふうにお声がけをいただきます。
 何人かの方々は、10周年パーティーといったものをイメージされているようです。
 たしかに、お世話になった方々をお招きして、そういう機会をもつのが、会社としてただしいあり方だと思います。10周年というのは、一度きりのことですし、これ以上の区切りはありませんので。
 それを重々承知のうえで、そのような晴れがましい場をもつにはまだ早いという思いがあります。
 いまは、その自分のなかの声にしたがうことにしました。

 
 あれから一年が経ち、どうして開催を決意するに至ったのか。
 それは少し、ほんの少しですが、余裕ができたのだと思います。残念ながら経済的に、ではありません・・。気持ちの面で、去年と比べると多少は余裕ができた。そのために、お世話になった方々に直接御礼を申し上げたい、と思うようになりました。
 理由のひとつは、個人的なことですが、昨年は、実父が亡くなり自分なりに喪に服していた時期にあった、ということがあります。同時に、ミシマ社という会社の状態に、心のどこかで危機感を抱いていた。おそらくこれが、気持ちに余裕のなかった何よりも大きな原因です。
 ではその危機感とは何か?
 と問われれば、即答できます。
「ひと」
 メンバー一人ひとりの成長をあまり感じることができなかった。
 ということに尽きます。
 けれど、その危機感は、今年、だいぶ払拭されました。裏を返せば、この一年、特に今年に入ってから、メンバーが成長軌道に乗った、と感じられるようになったのです。
 どうして、そうなったのか?
 はいずれ述べることがあるかと思いますので、今日は割愛します。
 今回は、問いを逆から発するにとどめます。
 どうして成長していなかったのか?
 もちろん、成長はしていたのです。個々の動きを仔細に見れば、電話のかけ方を知らなかった子が電話できるようになり、雑巾を絞れなかった子が絞れるようになり、世の中には「予算」という言葉があること、そしてそれは大切であるということを知ったり、といった「成長」は確かにありました。 ただしそれは、10歳児の、自然状態における成長速度からはあまりに遅々としている。少なくとも私はそう感じていました。
 今から振り返れば、世間ずれしてきた10歳児みたいなものでしょうか。野生児でしかなかった時代の伸びやかさは後退し、文明的なやり方をおぼえた気になり、調子こく。そんな青年の手前の状態。言い換えれば、青年になるのを直視することから逃避していた段階、です。
 「どうして」の答えになってはいませんが、そういう状態・段階にあった。
 そして、今年になって気持ちの余裕ができた、というのは、こういう時期もあろう、と思えるようになったということでもあります。
 子どもは直線的に成長するわけではない。
 同じように、会社もまっすぐ成長していくなんてことはない。
 成長する時期があればそうでない時期もある。あるメンバーが成長しているとき、あるメンバーは停滞している。全員が停滞することだってある、会社が生き物である以上、「そういうこと」は避けて通れぬ必然である。
 その「必然」を必然として受け入れられなかったところに、昨年の余裕の無さを感じます。

 今年に入り、メンバー全員が成長している。そう感じていると先ほども述べました。
 きっと、11歳を迎える前に、幼年期に別れを告げ、青年になる心の準備ができたのだと思います。それは、歳月の積み重ねだけがもたらすことのできる類の成長なのかもしれません。

 歳月の積み重ね。と言いました。
 11年の歳月をミシマ社という出版社が誕生してから重ねてきたのは紛れもない事実です。
 人間でいえば、11歳。少年から青年に移り変わろうとする時期にあたります。
 当然、もはや赤ちゃんではありませんし、赤ちゃんでいることもできません。
 ひたすら愛される存在だったものが、生意気だと思われたり、なかには理由なく疎んじるものがでてきたり、逆に、これまでまさに赤ん坊扱いしかしてこなかった人たちが振り向いたり。自然状態における成長とはそういうものでしょう。
 歳月の積み重ねとはまた出会いと別れの積み重ねでもあります。
 11歳になったミシマ社もまた例外ではなく、今年、これまで経験したことのない辛い別れをいくつか経験しました。
 とりわけ、あるお二人との別れは身が引き裂かれるものでした。
 ひとりは、札幌に住むKさんという書店員さんです。

 最初にお会いしたときのKさんの目は、いまもはっきりと思い出すとことができます。
 それは、閉店間際のノーアポでの突然の訪問でした。にもかかわらず、Kさんは、文字通り目を輝かせて喜んでくださいました。「お会いしたかった」とまで言ってくださり。
 いったい何を話したかあまり覚えていないのですが、その目の輝きだけは今もいっさい色褪せることなく私のなかで輝きを放っています。
 その後、イベントを2度、開催くださいました。
 イベントの最後にマイクをもって、「新しいことをどんどんやるつもりだ」と意欲的に語られた姿は、実にすがすがしく、頼もしいものでありました。
ところが、それからほどなく閉店を発表されます。
 えっ、と驚くほかありませんでした。後になって病気をされていたことなどを知るわけですが。そのときは、ただただ残念でしかなく、気持ちよく仕事のできる書店員さんがまたいなくなる・・・そのことに心を痛めたのでした。
それから1年ほどしてミシマ社の京都オフィスに来てくださったことがあります。
「また本屋をやろうと思って」
そうおっしゃるKさんの目には再びあの輝きが戻ってきたように感じました。
 なのに・・・・・・。

 もうひとりは、赤ん坊の頃からかわいがってくださった、つまりミシマ社がヨチヨチ歩きの頃から目をかけてくださっていた方です。
 山陰に住むMさん。
 私が一方的にではありますが、Mさんのことを父のように慕っていました。
 年齢は一回り半ほど上に過ぎないことを、亡くなられたあと知ったのですが。ふた回りほど上のように感じていました。
 先ほど申したように、かつては愛情を寄せていた相手であっても11年の歳月を重ねると、気持ちが離れていくことだってままあります。特に理由もなく離れる、ということもあれば、好きだった時代の雰囲気でなくなったから、という場合もある。後者の捉え方のなかには、自分が思うような存在でなくなった、というニュアンスもときに含まれます。ようは、自分の手を離れて活躍するのはあまり好ましくない。私自身も、幾人かの歌手やアーティストに対してそうだったかもしれません。
 ところが、Mさんは、どんな状態でも、見守ってくれているような存在でした。少なくとも、私はそう感じていました。
 Mさんは山陰方面に住んでおられるため頻繁に会うことは叶いません。この10年の間も、数年会えなかったことだってあります。
 ですが、父のように、と先ほど言ったように、どれだけ再会の期間が空いたとしても、会うたびMさんは「Mさん」として私の前に現れます。それは、友人に対する打ち解け感とは違います。むしろどこかぎこちなさを残しつつも、家族だけにもちうる絶対的な安心感のようなものがそこにはありました。
 今年の5月。2年ぶりに山陰方面に行く機会がありました。とはいえ、Mさんとは特に会う予定はありませんでした。メールで連絡をとりあったり、ましてやSNSで「つながる」なんて間柄ではなかったのです(他界した実父と、メールを出すことも受けることも一度もなかったように)。
 そのときは一泊二日の滞在でした。二日目、京都に帰る前にMさんが務める書店へ行きました。特にMさんに会うつもりもなく、あくまでもそこの店長さんに会って仕事の話をするために。
 いろいろ話したあと、急に店長さんが「Mを呼びますね。きっと喜ぶと思います」と言って、わざわざ別のところにいたMさんを呼んできてくれました。
 しばらくして「どーもどーも」とにこやかにMさんは現れました。
 雑談をすこししてから「今からどういう予定です?」と訊かれたので、駅から京都に向けて帰りますと伝えると「送りますよ」と言って車を出してくれました。車中、「最近はどうですか?」と尋ねると、「いやぁ忙しくて」と笑みを浮かべつつおっしゃいました。「パートさんが急に辞めて、僕がぜんぶやらないといけなくなっちゃって」。そう述べるMさんは確かにすこし疲れているようにも見えましたが、まだまだ現役ですよと言わんばかりの充実感が漂っていました。
 降り際、「三島さんは同志だと思っています」と突然おっしゃいました。「はい、もちろんです」と答えつつ、「ありがとうございます。また!」と手を振って別れたのでした。もちろんそれが最後の別れになるとは夢にも思うことなく。

 KさんとMさん。
 タイプは違えど、それぞれ私にとっては深いところでつながっているまさに同志の存在でした。そのお二人が相次いで鬼籍に入られました。
 いま、それぞれから大きな宿題をもらったような思いでいます。
 頼んだぞ。
 そんな言葉とともに、決して返すことのできない強くて温かなパスを託されました。
 12年目。
 そのパスを次世代、次次世代に繋げていけるようにしたいです。
 お二人の遺志を受け取った者としての使命。
 それを担うには幼年期のメンタリティでは不可能です。
 いま、私たちは青年期に入りました。
 


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三島邦弘(みしま・くにひろ)

1975年京都生まれ。1999年大学卒業後、PHP研究所に入社。単行本の編集者となる。2003年退社後、東欧などを旅する。同年10月、別の出版社で編集活動を再開。2006年10月株式会社ミシマ社を単身設立。「原点回帰」の出版社を標榜し、編集・営業・仕掛け屋などチームの枠を超え、「出版は全身運動である」という思いのもと、日々、奔走中。
「ミシマ社のblog」もがんばって書いてます。

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