K氏の大阪ブンガク論

第15回 徹頭徹尾「まず言葉ありき」ーー町田康ブンガク(2)

2017.11.19更新

『関東戎夷焼煮袋(かんとうじゅういやきにぶくろ)』はまことにユニークな町田作品である。
 「今回のこれ見てみ、初めからぜんぶ、おもっきり根に大阪があるんや」とK氏が、幻戯書房から出たばかりの、黄色や茶色の枯れ葉を枝に付けた樹木がまばらに生えている荒れ地にトイレの廃墟がぽつねんとある装幀のハードカバーを、「いっつもやけど、えらい表紙やのお」と持ってきた。

 最終ページの奥付を見ると「二〇一七年四月一七日第一刷発行」とある。その前の頁は34字×14行の大変に長いプロフィールで、次の前頁の上半分には丸く口を空けたアフリカの民芸品の人形みたいなものを撮った写真がレイアウトされ、下に「本書は『大阪人』(二〇一一年七月号ー二〇一二年五月号/隔月刊・六回)および『サイゾー』(二〇一五年六月号/月刊・三十一回)連載の『関東戎夷焼煮袋』を一冊にまとめ、改稿した作品です」とある。

 なるほど『大阪人』の連載やったんや。
 雑誌『大阪人』は大正14年(1925)創刊の『大大阪』がルーツの定期刊行物で、長く「大阪都市協会」が版元だった。
 そして橋下徹氏が市長になって、あっけなく政治判断でその時の発行元だった「大阪市都市工学情報センター」が解散させられ、2012年の3月に87年の歴史を閉じる。
  
 町田康さんはこの最後2年間の『大阪人』に連載していたのだが、第1回「うどん」に以下のように経緯(いきさつ)を書いている。

 あれ? 俺は偏屈だから気軽にメールを送ってくるような友達はいないし、仕事面においても、無能なバカ豚、ということが業界に知れわたっているから新規の仕事の依頼はないはずだが、いったいなにだろうか。バイアグラのDMだろうか、と訝りながら開封したら、わぷぷ、仕事の依頼であった。
 慌てふためいて開封すると、送信者は大川大範という人物で、大坂の人、内容は、今度、大坂の雑誌をつくることになったから、おまえ原稿を書け、あほんだら:)。という内容だった。
 もちろん自分はアホだし、原稿を書くのは家の業なので引き受けることにして、よろこんで、こころより。と返信したら、また、メールが来て、わかってるやろけど、内容は大坂でいけよ、ぼけ。と書いてあった。
 もちろん言われるまでもなくそのつもりであった。(p11)


 そこから町田さんの苦悩は始まる。いや苦悩ではなくて料理をつくるのであるが、

 もちろん、大坂語を繰ることはできる。しかし、それはあくまでも、見かけ上、文章上の大坂語であって、魂から発せられたものではなく、たとえば私が怒りを発し、「なめとったらあかんど、こらあ」と絶叫したとしても、それは心よりの絶叫ではなく、気持ちがいったん文章化され、そのうえでもう一度、発せられた、いわば俳優が演技で怒っているような絶叫で、つまりは、嘘、ということである。(p11)


 という徹底的なフッサール的内省のもと、「うどん」「ホルモン」「お好み焼」「土手焼」「イカ焼」、これを作る一部始終について記述し始める。
 「しかしながらやなあ、てっちり、しゃぶしゃぶと行かんと、土手焼、イカ焼ちゅうのが、さすがというかしっぶいとこやなあ」とK氏は唸るようにつけ足すことも忘れない。

 さて。まずタイトルであるが、これは後醍醐天皇の言葉である「関東戎夷也天下管領不可然」から取っている。つまり関東は戎夷であり、天下管領にはふさわしくない。
 それはつまり、うどんやホルモンの問題を放置して、いつの間にか大阪人である自分を忘れ、関東戎夷に成り下がっててしまった。そこで「本然の上方人」「大阪人の魂」を取り戻すために、うどんやホルモンなどなどを作ることだ。

 といって、しかし、どうやってうどんを作ったらよいのだろうか。もちろん私ももはや五十過ぎの大僧で、可愛ぶって、「いやーん、うどんの作り方わかんなーい」といってクニクニする心算はないし、そうしたところで誰も扶(たす)けてくれないことを知っている(p16)


 で、料理をつくるべくすべての材料、時には土手焼のために鉄板の買い出しから始まるのだが、小説でも随筆でもない、ノンフィクションでもないな。かといってクッキングブックでもない、つまり私小説や大衆文学といった「ジャンル」に容易に分類されることを拒絶する、それでいてまぎれもない大阪ブンガクなのである。

 話は関東つまり東京でのそれがすべてだ。
 土手焼のために牛すじを近所のスーパー買いに行ったのだが、売っていなかった、残念、となるところなど傑作である。
 「これは正味、大阪ちゅうところのもんが、正味、なにをどう上手いこと料理して食うているか、さすが正味の話や」とK氏が絶賛するところだ。

 「正味」か、そういう感じやねんな。
 前々回で書いた『告白』では、「正味の節ちゃん」というあかんヤクザ者が出てくる。

 「清やん。正味、やめといた方がええかも知れへんど」
 「なんでやね。賭場(やま)荒し黙ってかやすんかいな」
 「いや、こいつ正味、なにしよるかわからんど。正味、わいらをみな殺しかもしれんわ」
 「なんでそう思うね」
 「目ェ見てみい」
 言われてつくづく熊太郎の顔をのぞき込んだ清やんは背筋がそうと寒くなるのを感じた。(p203)


 泉州岸和田なK氏の口語的レトリックは、正味のところ、あの明治の着流し雪駄の時代の河内水分村の「正味の節ちゃん」と通じるところがあるのか。いやはや大阪の言語は深い。

 話を戻して、K氏の絶賛する『関東戎夷焼煮袋』での土手焼における「正味の話」は以下だ。

 そういえば四十年前、関東煮参った頃、スーパーマーケットに牛すじ肉は売っておらず、ごく稀に売っているのを見つけたら、そのパッケージに、(愛犬用)、という表示があった。私はこれを、関東では、すじ肉などという貧民の食い物を買うのは世間を憚る行為なので、店の側が牛すじを買う客のために、「これは愛犬用ですよ。人間が食べるために買うのではありませんよ」というエクスキューズを与えているのである、と解釈し、「ああ、なんたら虚飾に充ちたところだろう。いやなところに来てしまったものだ」と嘆いたものだが、あれから四十年が経ち、コラーゲン料理、なんて言われるようになって関東でも特段、牛すじ食を卑しむことはなくなった。(p159)


 これは正味の(←ひつこいなあ)ど真ん中の、なんとも見事な大阪人による、大阪人のための「食文化」についての考察にほかならない。

 最終章の「イカ焼」はこういう出だしである。
 なんとまあ、手を付けられへんというか...。加えて前回、町田さんは大阪弁の「役割語」について顛覆させた話を書いたが、さて現代的標準語のそれは、このようにひっくり返されているところにも注目して貰いたい、とK氏はつけ足す。

 いい加減な魂の軛(くびき)から開放されて清々した。しかしこれでやっと人波の郷愁に浸ることができる。いっぺん小学校の同窓会にでも行って、「俺なんか原宿でサル買っちゃってさ」など東京弁で吹かしてみんなに嫌われて悪酔いとかしてもっと嫌われようかな。
 と、そう思ったがそれが無理な相談なのは、若い頃より、パンクロッカーの群れに身を投じ、各地を放浪流浪してきた私の元に同窓会の報せなど届くわけがないからである。
 そして私が小学校の頃、住んでいたあたりは確か住吉区墨江中という町名であったが、それもその後、町名が変更になっているはずだが、その町名すらわたしは知らない。
 おそらく人も町も随分と変わり果てたことだろう、私はもう何十年も生まれ育った町に戻ったことがない。
 ならば久しぶりに戻って、魂にも拘泥せず、確信犯的に甘美な郷愁に浸り、そこらのスナックとかに入りごみ、「実はぼかあ、このあたりの生まれなんだよ。いまは東京でIT社長だけどね」とか言って、泣き濡れてご婦人と戯れようか。(p199)


 そのイカ焼を作って食そうとするのだが、町田さんはまず少年の頃に軽田君と入った、地元の住吉区の駅前にあったイカ焼屋を回想する。その掘立小屋のイカ焼屋の当のイカ焼の味の記憶ではなく、白衣を着た当主がイカ焼を焼いていた記憶である。
 街的な味覚とはそういうものだ、とK氏はええカッコ言う。
 痩せて背の高い、角刈りで、愛想のない、生真面目な、工作機械を扱っているようなおじさんのことである。

 そのときは、愛想のない、任侠系の、ちょっと怖いおじさん、と思ったが、いまから考えれば、きわめてまじめな人だったのではないか、と思う。
 また、ルックスが任侠系なのも、当時は、いわゆるホワイトカラーでない中年男性は、みんな任侠系というか、それ以外にファッションの選択肢がなかったように思う。例えば、その頃の、阪神タイガースや南海ホークスや近鉄バッファローズの職業野球選手の私服姿は、多くが任侠系というか、任侠そのものであったように思う。
 つまり、おじさんはいろんな事をやってきたのだろう。その果てに金融機関ではなく、親戚や親兄弟から開店資金を借り、掘立小屋を賃借し、プレス機のような鉄板を買って、背水の陣でイカ焼屋を始めたのであろう。通常そうした場合、妻が商売を手伝うはずだが、それらしき姿がなかったのは、或いは、いろんな事をやっているうちに離婚をしたのだろうか。或いは、あの歳まで独身だったのだろうか。(p207)


 せやせやせや。せやけどナンでそんなんわかるんやろ、とK氏は感嘆に暮れている。
 おじさんの白衣は「わざわざ、乏しい資金を割いて本格のコック服を買ってきたの」であり「食べ物商売をする以上は白衣を着なければならない」と信じて、メジャーなたこ焼きには目もくれず、敢えてイカ焼屋をチョイスした、と町田さんは書く。

 そして一旦、大阪ではイカ焼が廃れる。が、そのイカ焼を思いだし、作ろうとして町田さんは現在のイカ焼の興隆に驚愕する。阪神百貨店の地下1階に長蛇の列をなすイカ焼がonlineショップで「冷凍いか焼き 親子セット(小)」を買えるのを知って、取り寄せて「ぬくめて」食べようとする。
 宅急便の配達人に受け取り判子を押すときに「これは開運印鑑ですよ」と言い、「親子セット」とは何かについて考察し、レンジに入れて「ぷしゅ」と音がしたら出来上がりというイカ焼を食するのだが、イカ焼をイカ焼たらしめるのは、オタフクやブルドッグソースが、お好み焼、焼そばソースなどと称して関東で売ってる専用ソースとは根底から違う、と述べる。
 「イカ焼の全体性」について、徹底的に「言葉を割って」(@内田樹)語るのだ

漫画ならば簡単だ。「こっ、これはっ」と言って怖そうな人が驚いている絵を描けばよいのだからね。しかし、実際にイカ焼のソースを賞味・賞翫した人にとってそれは、アッピャッピャッピャッ、とっても大好き銅羅右衛門、レベルの欺瞞であろう。
 だったら私は文学と呼ばれようと呼ばれまいが、自らの言語、言論の解像度を上げていくより他ない。「言語にとって美とはなにか」そんなに難しいことは私にはわからない、と言うことはできる。でも魂のない私は、「言語にとってイカ焼に付属するソースはとはなにか」を避けて通ることはできない。(p230)


 そして最後にイカ焼きを食うためだけに大阪へ向かう。「グリーン車輛で参ったわけ」は「自分を追い込むため」であり、「退くときは死ぬとき」である。イカ焼の話は任侠に始まり任侠に終わっている。

 なんとなく土地勘のある心斎橋界隈を探し歩き、それで見つからなければ、難波方面に向かい、そこでも見つからなければ、堺筋に出て日本橋(にっぽんばし)を通って新世界まで行き、その間にもなければ動物園の脇を通って天王寺方面に行き、それで見つからなければ近鉄電車に乗って吉野山に行って自決しよう、と考えた。   
 それぞれに思い出のある土地だが、ただ一心にイカ焼だけのことを考え、懐郷心とも魂とも一切無関係に通過する。ソウルミュージックなんてクソ食らえだ。スケコマシ野郎共めがっ。
 と、やや場違いな罵倒をしたのは、高級輸入銘柄のバッグをぶら下げた同年配のおっさんが若い美女と腕と腕をからませて歩いているのを見たからである。(p245)


 町田さんのブンガク性は、徹頭徹尾「まず言葉ありき」である。「じぶんじぶん言うてなんぼのもんやねん」と言いながらも、とてつもない饒舌が始まる大阪人の自我意識の(質の良い)小ささにもそういう節があるが(しらんけど)、「自分が言いたいことは言葉に先行してあるわけでない」という、ある種の諦観であろう。

 ある一つのことを語ろうとしたときに、その「こと」がとても簡単な言葉では言い尽くせないので、その「こと」のさまざまな層に分け入り、その「こと」がいったん文脈を変えると、どういうふうな意味の変化を遂げるかを吟味する...というような作業のことである。
 だから言葉を無限にあやつる人というのは、うっかりすると、わずか一つの言葉から小説一本分のコンテンツを引き出すような芸当ができる。
 当代随一の「言葉遣い」の達人である町田康の文章はその好個の適例である。
 町田康の文章のもつコミュニケーションの深度は、「いまこの文章を書きつつある私のメカニズムそのものへの批評的自己言及」によって担保されている。
 ある言葉を発する。
 だが、ただちにその言葉をごく自然に発している私はどうしてこのような語り方を「自然」であるとみなしているのかという疑念が兆す(それが兆さない人はクリエイティヴィティとは生涯無縁である)。
 (内田樹の研究室080410「Voiceについて」、080418「ヴォイスを割る」)


 へへへっ、最後は人のフンドシで相撲取ったった。
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江 弘毅(こう・ひろき)

1958年岸和田市生まれ。神戸大学農学部卒。
1989年京阪神エルマガジン社にて『Meets Regional』誌をたちあげ、12年間編集長を務める。
2006年に編集集団140Bを大阪・中之島に設立、現在取締役編集部長。
著書に『だんじり若頭日記』(晶文社)、『「街的」ということ』(講談社現代新書)、『「うまいもん屋」からの大阪論』(NHK出版新書)、『有次と庖丁』(新潮社)、『飲み食い世界一の大阪〜そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの〜』『K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。』(以上、ミシマ社)など。近著に『濃い味、うす味、街のあじ。』(140B)がある。

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