K氏の大阪ブンガク論

第10回 『細雪』ーー谷崎の「食」の書きっぷり(2)

2017.04.01更新

 この芦(蘆)屋に住んでいる大阪人の女たちは、大阪よりもむしろ神戸のハイカラでエキゾチックなところに親しんでいるのが読み取れる。
 「芦屋住まいの大阪の金持ちは、無いもん強請(ねだ)りやさかいなあ」とK氏。
 オリエンタルホテルほかが他出する神戸の店は、中国料理にしても見事に使い分けている。街的極まりない一家だ。

 上巻十六(p.118)と早い回に、こいさんつまり末妹の妙子が鯉川筋の画廊で個展を開き、作品の人形の大部分が1日で売約済みになる。3日目、会場の片付けを家族で手伝いに行き、その際に女ばかりで「なんか食べて帰ろう」というときのシーン。冒頭の悦ちゃんというのは幸子の娘である。

「悦ちゃん、今夜はこいさんに奢って貰お。こいさんお金持ちやよってに」
「そやそや」
と雪子も嗾けるような口調で、
「どこがええ、悦ちゃん、洋食か、支那料理か」
「そうかて、まだお金受け取ってえへんねん。ーーー」
と、妙子は空惚けようとしても空惚けきれないで、にやにやしながら云った。
「構めへんわ、こいさん、お金やったら立て換えとくが」
(中略) 
「そんなら、東雅楼にしてんか、あそこが一番安いよってに」
「ケチやなあ、こいさんは。オリエンタルのグリル奮発しんかいな」
 東雅楼というのは南京町にある、表の店で牛豚肉の切り売りもしている廣東料理の一膳めし屋なのであったが、


 と入ると、ロシア人の知人と会う。

「あの西洋人、支那料理好きやのん」
「あの人上海で育ったのんで、支那料理のことえらい通やねんわ。支那料理やったら普通の西洋人の行かんような汚い家ほどおいしい云うて、神戸ではここが一番や云うねん」


 そして、

 悦子の好きな蝦の巻揚げ、鳩の卵のスープ、幸子の好きな鶩の皮を焼いたのを味噌や葱と一緒に餅の皮に包んで食べる料理、等々を盛った錫の食器を囲みながら、ひとしきりキリレンコ一家の噂がはずんだ。


 「なんちゅう、チャッカリもんやこの女どもは」とK氏は感心しながらも、この店美味そうやどこやろ、と昭和10年前後の南京町の地図を見ると[東興楼]と[大東楼]と類似した中華料理店名があった。[東雅楼]はその二軒あるいはどちらか一軒をモデルにしたものだとK氏は読んでいる。

 だが同じ中国料理でも、見合いの席には山手の[北京楼]である。「この建物がどこか支那の港町にあるような建て方」と微妙な書き方をしているが、この[北京楼]は実名だと思う、たしか石造りの神戸を代表するグラン・シノワで、震災前まであったとK氏。

 日本酒と紹興酒と前菜とで晩餐が始められ、
(中略)
 雪子は氷砂糖の入った紹興酒の杯を舐めるようにした。(p.245)


 この見合いはまとまらなかった。けれども「氷砂糖の入った紹興酒の杯を舐める」とは、すごい立ち居振る舞いだと思う。

 東京に越した本家を訪ねる際の奔放なグルメぶりも、これまたすさまじい。

 この三姉妹は銀座のローマイヤで「独逸ビール」のジョッキを一人で一つずつ空け、


 明くる日の夕飯時にも、ひとり宿にいた妙子は女将の食事の用意を断る。

 昨夜の独逸ビールの味が忘れられず、今夜は妙子が輝雄にローマイヤを奢った(p.529)


 極め付きは、幸子が病気になって黄疸の症状が出たシーン。これはまずいと、とにかく櫛田医師に往診を頼む。

「黄疸や、これは。間違いなし。ーーー」
「昨日ビフテキの大きいのん食べましてん」
「それが原因ですな。ご馳走の食べ過ぎや。ーーー蜆汁を毎日飲むといいですな」(p.162)


 どんな大きなビフテキを食べると黄疸になるんだろうか。
 「そもそも肉を食うて黄疸になる話なんか、聞いたことがないな」とK氏。
 この『細雪』によって徹頭徹尾書き表される「大阪人のグルメ」ぶりは類まれなものである。雪子が子爵家へ輿入れする場面でこの小説は終わるが、最後の一文はこの通りである。

 そういえば、昔雪子が貞之助に嫁ぐ時にも、ちっとも楽しそうな様子なんかせず、妹たちに聞かれても、嬉しいことも何ともないと云って、きょうもまた衣えらびに日は暮れぬ嫁ぎゆき身のそぞろ悲しき、という歌を書いて示したことがあったのを、はからずも思い浮かべていたが、下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた。


 「下痢てか」。はて? 
 いったいこのええ年したお嬢、何を食べたのだろうか、と思うのはK氏だけではない。

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江 弘毅(こう・ひろき)

1958年岸和田市生まれ。神戸大学農学部卒。
1989年京阪神エルマガジン社にて『Meets Regional』誌をたちあげ、12年間編集長を務める。
2006年に編集集団140Bを大阪・中之島に設立、現在取締役編集部長。
著書に『だんじり若頭日記』(晶文社)、『「街的」ということ』(講談社現代新書)、『「うまいもん屋」からの大阪論』(NHK出版新書)、『有次と庖丁』(新潮社)、『飲み食い世界一の大阪〜そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの〜』『K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。』(以上、ミシマ社)など。近著に『濃い味、うす味、街のあじ。』(140B)がある。

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