K氏の大阪ブンガク論

第2回 ついに出たぁ!「K氏」の大阪ブンガク論。(2)

2016.09.01更新

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 先生も地元出身ばかりで、国語の先生は宮沢賢治の詩を泉州弁で朗読していたし、英語の先生は大阪流イントネーション英語で、テープレコーダーの英語とは全然違っていた。  
 そこで教育の際に使われるセンセの話し言葉は「制度化され教育され標準(共通)語」ではない。そんなコトバによる授業を前提として学んだことは、「正しい言葉などといったものはない」ということであり、それぞれの独自のエクリチュールを持つ日常の実生活においての「それぞれの言葉」は違うことだ。

 K氏は「動物園みたいだった」中学校で、無意識のうちに言語の多様性を見つめる土壌を体得したと思っている。
 実際に大阪弁(これからの場合、関西方言が正しいのだろう)は、ミナミで河内弁と泉州弁がどちらも聞こえてきたり、同じミナミでも心斎橋筋のデパートや洋服屋で話される言葉と黒門市場の魚屋で話される言葉は違う。
 言葉は地域や職業、社会的属性によって違うという、至極当然の事実を身体で分かるということだ。
「こちらのほうが、全然グローバルやないか」「なにが英語を話せて国際競争を勝ち抜ける人材や」などとK氏は苦々しく思うのだ。

 中学生のK氏たちは、本気の怒突き合いをずいぶんやったが、「一人勝ち、勝ち逃げ。親の総取りはあかん」という掟がルールとして徹底していたし、困っているものをもっと困らせてやろうというようなガキには、誰かが「それはやめといたれ」と言う土地柄だった。
 子どもの頃から誰もが似かよったやりかたでセコく「勝ち抜く」ことばかり考えていて、のっぺりと画一なビジネスマン言語を話す大人に育つ社会は「気色悪いな」、とK氏はその頃からすでに思っていた。
 てんでばらばらな背景を持ち、想像も共感も絶する「他者」に、自分の言葉で意思伝達したりする際の「俳味」とでも言うべき「おもろさ」。それがK氏にとってのコミュニケーションの基本であり、それこそが他人にフレンドリーな態度というものなのだろう。


 K氏が関西のエリア雑誌の編集をやっていた頃、大分県出身の大阪在住の編集者にこういう話を聞いたことがある。
 大阪や京都の地元出身の人は、東京弁すなわち標準語を使う人は少ない。会社の編集会議も結婚式の挨拶もデパートの店員さんも関西弁だ。だからこちらも標準語を使わなくてもいいんだ、と思ってそのままつい大分弁をしゃべってしまう。しかしながら、それで「?」という顔をされる。
 街場のコトバは難しいなあ、とK氏は思う。

 関西方言には標準語のようなものはない。つまり京都人は京都弁、大阪はもっと多く、わたしら岸和田の人間は岸和田弁、東大阪や八尾の人は河内弁を大阪市内で普通に喋っている。
「〜しよう」「〜しとう」という神戸〜播州系の言語も梅田近辺ではしょっちゅう聞こえるし、「でんでんかまいませんよ」などと、「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」になる和歌山弁を聞いたりすると、近しい泉州地方出身のK氏からすれば、思わずにやっとしてしまう。
 とくにミナミの難波周辺にいると、近鉄、南海沿線からの人が集まっているので、「わいら」「しやけど」といった奈良〜河内系、「おもしゃい」「ええわし」などの泉州弁はあたり前に耳にする。
 K氏はこういった大阪系言語のさらに細かい地域性がわかるローカル的なところが好きだ。どこかの評論家が「吉本芸人の話芸は河内や泉州の人間が噺家や漫才師になってから下品になった」みたいなことを読んだ記憶があるが、K氏は「そら、違(ち)ゃうやろ」と思っている。むしろ落語家が妙な船場言葉を喋ったりしているのを聞くときに、「変に真似すなよ、逆にそれ田舎臭いど」などと思ったりする。
 これについてはさすが織田作之助、随筆なのにまことに小説的な味わいのする『大阪の可能性』という作品でドンピシャに書いている。

 たとえば「そうだんべ」とか「おら知ンねえだよ」などという紋切り型が、あるいはしゃべられあるいは書かれて、われわれをうんざりさせ、辟易させ、苦笑させる機会が多くて、私にそのたびに人生の退屈さを感じて、劇場へ行ったり小説を読んだり放送を聴いたりすることに恐怖を感じ、こんな紋切型に喜んでいるのが私たちの人生であるならば、随分と生きて甲斐無き人生であると思うのだが、そしてまた、相当人気のある劇作家や連続放送劇のベテラン作家や翻訳の大家や流行作家がこんな紋切型の田舎言葉を書いているのを見ると、彼等の羞恥心なき厚顔無恥に一種義憤すら感じてしまうのだが、大阪弁が紋切型に書かれているのを見ても、やはり「ばかにするねい!」(大阪人もまた東京弁を使うこともある)と言いたくなる。

 しっかし、400字一気のウケまるなしの文章。さすがというか、なんちゅう書き方をするんや、オダサクは。
 K氏がもっと違和感を感じるのは、大阪出身者があらたまった場やビジネスの際に標準語をしゃべることで、「このおっさん、何、気取ってんねん」などと思う。
 確かに船場や中之島の都心のマンション現地案内会に行って、大手不動産会社の担当から、「奥さん、これは値打ちありまっせー」とか大阪弁でセールスされると、悪徳な不動産屋にダマされているような気がするが、船場のきつねうどん発祥の[松葉家]で食べていて、東京弁でだしについての話が聞こえてくると「ぐちゃぐちゃ講釈垂れてんと、早よ喰え」と言いたくなる。
 かといって、もちろんK氏も「言うちゃら」「あっかえ」とかの激しい岸和田弁は仕事や編集会議では使わないし、「鍵かいで帰って」などと言うと、泉州人にしか伝わらないので、気をつけている。
 これを書いているこの文章だって東京や九州の読者が読んでもわかるように、言葉を選んで書いているつもりだ(ご意見ご感想お待ちしてます)。

 言語運用つまり言葉による表現は、人それぞれ多様であるからこそ面白い。そしてその上に、コミュニケーションの相手に伝達すべき内容や自分の思いなどなどが、「うまく伝わっているのか」という気遣いや、「どうか伝わってほしい」といった願いが乗っかる。
 コンビニやファストフードで「いらっしゃいませ。こんにちは」「○×でよろしかったでしょうか」といった、どこの言葉でもない妙なイントネーションの笑顔の言葉を耳にするとき「シャラくさいな」と思ったり、アップルストアでそれまで関西弁でしゃべっていたスタッフが、機能を説明する段になった途端、標準語的になるのを耳にすると、薄ら寒い気がするのはそういうことからだ。


 さてそういう大阪的なコミュニケーションにまみれているK氏の日常だが、先日、大阪駅前ビル地下にある行きつけの串カツ屋に行った際のことをどうしても言いたいそうだ。許してやってほしい。
 その串カツ屋は梅田地下街、阪神梅田駅改札裏の[ぶらり横丁]のうちの1軒であったが、去年6月に、橋下徹大阪市長から[ぶらり横丁]に対して「行政代執行通知」が出されて、「代執行はワヤくちゃにされるんで自主撤去しました」という、カウンター1本10人弱定員の串カツの名店だ。
 それで駅前第4ビルに移ってきたのだが、その際「ぶらり横丁の看板もついでに持ってきましてん」という大将の串カツは抜群に旨い。おまけに1本110円と、西成や新世界並みに安い。メレンゲを使った薄い衣をラードの「エエ油」をつかって揚げていて胸焼けがしない。ワインやらリンゴやらを混ぜ込んだソースもイケるし、何よりもちゃんと「肉は肉」「エビはエビ」の味がする良い串カツ屋なのだ。
 今回は枚数がないのでこの辺でやめてもらうが、てっちりでもそうだが、大阪の食べもんについてこういうことを書かせるとK氏はナンボでも書く。

 ただ残念なことに移転によって、店が禁煙になった。「タバコは出てすぐ左に喫煙コーナーありまっせ」と大将が言うのでK氏がそこへ行く。
 そのスペースはペットボトルや缶の自動販売機が置かれてあって、右奥がガラス戸で仕切られた簡素極まりない喫煙所だ。
 何という偶然、灰皿は串カツ屋のソースのバットみたいである。例の「二度づけお断り」のステンレスだかアルミ製のそれをふたまわりほど大きくしたバットに水が入れられていて、そこに煙草の吸い殻を捨てるようになっている。
 4箇所ほどそのバットがひっくり返らないようにか、カウンターに埋められるようにセットしてある。なかなか手が込んでいるな。そしておのおののバットの前に注意書きが貼られている。

☆ご注意ください☆
店外で購入された飲食品の
店内の持ち込み及び
喫煙のみのご利用、または
居眠り等は一切禁止、
発見しだい、退店をお願い
する場合があります

「何じゃそれ」と思ったK氏は、それをiPhoneで写真に撮ってTwitterに「大阪駅前4ビルの自動販売機だけ置いているコーナーの奥の喫煙所にこういうことが書いてある。かなしくなってくる」と呟いた。
 すると、「ただで使わしてもらって文句言うな! 自販機置いてる業者は家賃払ってるんだろ。セコいこと言うな」という返信が@K氏に送られてきた。「これは、若い奴やな」と直感した。
 K氏はさらにかなしくなった。
 そいつの「ディスり方」がまったくおもろくなかったからだ。

 そらね、飲みもん売ってタバコ吸わす店で、おばちゃんが一人おって、「にいちゃん悪いな、ここ"店"やしタバコ吸うんやったら何か飲みもんでも買うたげてくれへんか」言われたら、こっちも「すんません」言うてお茶ぐらい買わしてもらうがな。「おばちゃん、これまた洒落た喫茶店やなぁ」とか言うたりもするがな。
 そやけど、人件費節減か何か知らんけど、人も置かんと、そんな他人をビビらすような貼り紙だけ書いてやな、だれも「ほな、水でも買お」いう人は居(お)れへんのちゃいますか? それが「横着や」言いまんねん。それと「セコい」ってどっちやねん。聞き捨てならんどコラ。ほな、おのれが店に立って「すません、ペットボトルはいかがですか」てやらんかい。そうか、ようせんか。ほな「ここで喫煙する人は10円です」て書いて賽銭箱でも置いとかんかい。今日びタバコ1本20円以上するんや。おのれより毎日、税金もたんと払ろてるんや。10円ぐらいどっちゅうことあるかえ。串カツ食うてる間に一人3回吸いに来たら、30円丸取りや。飲みもん1本の口銭より多いんちゃうか。要らんこと人に言う前に、ちょっとは頭を使わんかい頭を。

 というようなことをTwitterに書き込んで「メンション返したれ」とK氏は思うのだったが、あほらしなって止めておいた。
 奴壺にはまるような気がしたからだ。

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江 弘毅(こう・ひろき)

1958年岸和田市生まれ。神戸大学農学部卒。 1989年京阪神エルマガジン社にて『Meets Regional』誌をたちあげ、12年間編集長を務める。 2006年に編集集団140Bを大阪・中之島に設立、現在取締役編集部長。 著書に『だんじり若頭日記』(晶文社)、『「街的」ということ』(講談社現代新書)、『「うまいもん屋」からの大阪論』(NHK出版新書)、『有次と庖丁』(新潮社)、『濃い味、うす味、街のあじ。』『いっとかなあかん店 大阪』『いっとかなあかん神戸』(以上、140B)、『飲み食い世界一の大阪〜そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの〜』『K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。』以上、ミシマ社)など。津村記久子さんとの共著『大阪的』(ミシマ社)も大好評発売中。

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