飲み食い世界一の大阪。

第7回 値段が書いてない店

 いきなりではあるが、わたしはサイゼリアによく行く。意外だと思わんといてください。

 コンビニの「いらっしゃいませ、こんにちはー」の「ませ」のトーンを上げ、「こんにちはー」を下げて平坦に唄うような妙なイントネーションの挨拶は、「ほら、お客さんに挨拶をしてるでしょ」という合図だけで、本当は「客とのコミュニケーションがコスト」と思っているんではないか。ファミレスというところは、何回行っても「この店行きつけやから、今度連れてったげる」というふうにならないから街的でない、というようなことをあちこちに書いたり、大学の「まちづくり論」でそういうことを講義しているわたしではあるが、サイゼリアには行くし、寒い夜の10時くらいの仕事帰りに近所のローソンに入って、黒霧島とおでんの厚揚げと牛すじとちくわを買って帰って、家でテレビを観ながらお湯割りでまったりしてしまったりもする。

 さらに「ユニクロなんか着るぐらいなら裸でいた方がマシや」とか「IKEAのインテリアに住むぐらいならテントで生活した方が良い」なんてことをツイッターでつぶやいて、フォロワーやリツイートを増やしている俺ではあるが、1,980円のユニクロのフリース上下セットも、6つで680円のIKEAのコップも使っている。理由は簡単である。そら「安いから」に決まっている。このところのコンビニやファミレスやユニクロやIKEAなどなどは、そういうところが手強い、いや怖ろしいのだ。恐

 サイゼリアについては、何年か前に街の編集者の間で話題になったことがあって、まだ行ったことがなかったわたしは「これは、あかんのかな」と思って行った。「これも仕事や」という言い訳を纏って、「イタリアンワイン&カフェレストラン」のサイゼリアに行ったのである。

 その店は一言で表現するならファミレス系のイタリア料理店、ということになるのだが、そういうふうに言うと身も蓋もない。そしてこの手のチェーン店は街の雑誌やグルメ系の情報誌には載るようなことない。さっき言い訳をしたが、これはわたしの仕事の範疇ではないのだ。

 けれどもテレビ局報道セクションにいる後輩は、この外食企業について取材していて、レストランの厨房には包丁もフライパンもなく、「工場」で「加工」された「食材」を仕上げて客に出すのだという。「究極の人件費削減」とのことで、彼は「そこのところにビビりました」とメールに書いている。ツイッターを見ていると、全メニュー制覇でも2万6千円、などとマニアたちがつぶやいている。

 わたしは早速、一番近いサイゼリアをネットで見つけて、「あなたの近くもきっとあります 店舗案内」というところをクリックして、そこ(恥ずかしいから言わない)に行くことにした。

 土曜日の遅い昼下がり。さすがに皆が言うだけあって客は結構入っている。喫煙席に案内してもらう。しっかし安いな。ハウスワインは赤白ともグラスで100円(マクドのコーヒーか)。500mlのデカンタなら370円。ふたりで2杯ずつは十分取れてほろ酔いになれる。このワインは「毎週イタリアから運ばれる」と書いてある。パスタやピザはほとんどが399円と499円だ。エスカルゴがある。「何でイタリアンでエスカルゴやねん」という突っ込みは置いといて、399円という値段にこれまた驚く。桜橋のブリーゼタワーにあるアラン・デュカスの[ル・コントワール・ド・ブノワ]で食べると、6ヶで1,600円である。四分の一である。セットのプチフォッカ(パン)2ヶは69円。サラダは自家農園で栽培している野菜を使っているそうで、なかなか当世貧乏人のツボを突いている。

 それらを「とりあえず」と注文して、周りを見てみる。隣のテーブルでは高校生の男子6人が勘定の真っ最中で、ひとりが電卓を叩いて1円単位の割り勘にしている。競馬新聞片手の初老一人客はパスタでビールを2杯追加している。

 ワインと料理が来て食べる。なかなかうまい。早速平らげて、さあ次はパスタにしようかリゾットにしようかと迷うが、その時にこれは何かに似てるな、と思った。回転寿司である。

 回転寿司は黒の皿が450円、青が350円、白が250円という具合で、一目で値段がわかるようになっている。というより流れる皿の上の鮨を見るのと値段を認識するのが同時で、「あ、マグロ安い」と手を出し、「中トロ食べたいけど、黒なんでヤンピ」と見過ごしたりする。何だか「じゃんけんぽん」みたいに、料理とその対価としてのお金が瞬間に交換される感じだ。

 そこで前景化するのはその商品がその値段と果たして釣り合うか、つまりコストパフォーマンスであり、「おいしく食べること」以前にその判断能力を要求されているかのようで、これは持ち前の俺のセコさをさらに鍛えてくれるみたいで情けない。

 だからあれこれいっぱい食べて、「今日はよう食べたなあ、満足や」の後、「おあいそお願い」と言って勘定を見て、「うわー、安っすぅ」とか「まあ、そんなもんか」とか、「ええもん食うたし、しゃあないか」「高っかぁ、もう二度と来るかい」とか、まあそれはその都度さまざまあるわけだが、そういった「食べること」と「店」との微妙な関係性はない。このような食事の「価格計量化」みたいなものはあんまり楽しくない。うまいもんを食うときの基本である、「食いたいものは、食えばええやんけ」はそこにはないからだ。

 俺はいやわたしは、鮨屋には1万円以上する店に行かない。それは金がないことではなく(それもあるが)、そういう店は知らないからだ。知っているかもしれないが「知らない」。そういうスタンスこそ街的なのだとひとりで思ってもいる。けれども孤独な人生でない。愉快である。

 もう20年以上も行っている神戸三宮の三角マーケットそばの[源平]は、「トロ、あわび、うに、トロ!」などと連打しない限り、ビール一本酒二合、茶碗蒸しや赤だしを含めて5千円だ。たまに鮨以外に普段は食べないてっさやオコゼの吸い物とかを注文しても7千円である。

 そういう話を書いていると、わたしのツイッターのフォロワーさんから「その昔、まだ若い頃、おばあちゃんが送ってくれた10,000円で、旦那とふたり、築地の鮨屋へ行きました。カウンター席で、熱燗もいただいて、鮃のえんがわもいただいて、満腹して、お会計しようとしたら、10,000円ぴったり。粋な鮨屋だと感動しました」とツイートが入った。いい話である。そして「粋な鮨屋だと感動した」というのがめちゃめちゃ街的にリアルだ。

 オフィスの近所、北新地にあるうどん+小料理の[黒門さかえ]も、ふたりで行って「金時草の酢の物」と「上庄小芋と若鶏の煮付け」といった季節ものの渋い小鉢4〜5品と、小エビと三つ葉のかき揚げでビール一本酒二合、そして締めにうどんを食べ一人5千円ぐらいだ。

 もう一軒、北新地のグルメで賑わっている韓国系大阪料理[喰海]も4人くらいで行って、なまこのフェとチャプチェとナムル盛り合わせ、そして太刀魚の煮付けやハンバーグや豆乳のスンドゥフ・チゲ、それにピビンパとか喰いまくり飲みまくりで一人5千円(ぴったしのことが多い)だ。

 その他、近所のお好み焼き屋にしてもそういう店が多いが、「北新地価格」などと称される西日本屈指の歓楽街でも、わたしの場合はそんな感じだ。食事の「価格計量化」は楽しくない、と書いておいて「値段の話やないの、ヘンな人」と言われそうだが、これらの店はすべてメニューに値段が書いていない。[黒門さかえ]ではうどんには「ざるうどん七五〇円」というふうに書いてあるが、毎日半紙に書かれたその日の10数種の小鉢の料理や酒、ビールも値段が書いていない。季節になるとカウンターに松茸がうずたかく積まれていて、「まつたけうどん」と品書きが出ていたりするが、いくらなのかは知らない。その時は5千円を超えているのだろうがそれも覚えていない。だから自分にとって「いい店」なのだろう。

 値段が書いていない店は怖い。たとえば初めて入った知らない鮨屋で、イカとハマチとマグロとを2カンずつ、それにキュウリ巻きとビール一本と酒2合で「1万円です」といわれた場合、「酒が1合いくらで、マグロ1カンは?」と訊くことはできない。それが高いと思えば、「勘定を間違えてるのかな」などと訝しんでも、その店はこれっきりにするしかないのだ。だからそういうことのないように、値段が書いていない街場の鮨屋へは一見では行かない。というより本来、飲食店は「誰かに連れて行ってもらう」こと、あるいは「紹介してもらうこと」が一歩目なのだ。

 誰かに連れて行ってもらって「いいな」と思えば、また再度その人に連れて行ってもらうことになったり、いつの間にかひとりであるいは今度は誰かを連れて行くことにもなる。決して店へのおべんちゃらではないが、この三軒の店は抜群にうまいし「いい店」である。これまで何10回も誰かを連れて行ったり誰かに教えたり(つまり紹介ということになるのだろう)したが、皆が「おいしい」「いい店」だと声を揃える。調子者のわたしはそんな時、勝ち誇ったような「どや顔」をしているそうだ。

 メニューに値段の書いていないこれらお店の「いいな」と思うところは、何を食べてもいくら飲んでも5千円だというところだ。その値段はいつの間にか「そうなった」のである。最初からそうだったかかも知れないし、何年も何回も通ううちに5千円になったのかもしれない。けれどもそれは「何回行ったからそうなった」というのでは決してない。

 前述のように根がセコいわたしは、勘定を見た後で「あ、そうか」みたいな感じで、「しもた、もう一本酒を飲んどくべきだった」とか、「それやったらマグロではなくて中トロをもう一回頼んだら良かった」とか思ったりするのだが、だからこそこれらの店でまずいものを食べたりよくない酒を飲んだりしてこなかった何万分の1かの幸運があるのだろう。
 そして「何を食べてもいくら飲んでも」とは、「食べ放題、飲み放題」のことではないし、それは「食いたいものは、食えばええやんけ」とは全然違う。後者には人のだらしない欲望に関しての足枷のようなものが含まれている。

 けれどもなんだかんだ言っても店は「安い」と思うから行くのである。京都のバッキー井上はかつてある雑誌の「昼酒特集」の時に、「昼に飲む酒はなぜうまいのか」をかかりつけの女医さんに訊ねて、女医さんは「それはあなたがおいしいと思うからおいしい」という正解を引き出して唸っていたが、それはマグロが大間産のものだとかドングリを食べさせた放し飼いのイベリコ豚を使ってるとか、そしてそれらが「いくらで食べられる」というのではない。そのあたりが「いい店」とそうでない店の決定的な違いだ。

 例えハンサムであろうと、稼ぎが良かろうと、いい大学を出ていようと、いい店を知らない男には娘を嫁に出してはいけない。

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プロフィール

江 弘毅(こう・ひろき)

1958年、大阪・岸和田生まれの岸和田育ち。

『ミーツ・リージョナル』(京阪神エルマガジン社)の創刊に携わり12年間編集長を務める。現在、編集集団「140B」取締役編集責任者、神戸女学院大学非常勤講師。2011年4月より『大阪人』編集を担当。

著書に『「街的」ということ』(講談社現代新書)、『岸和田だんじり祭り だんじり若頭日記』(晶文社)、『ミーツへの道』(本の雑誌社)、『街場の大阪論』(新潮文庫)、『「うまいもん屋」からの大阪論』(NHK出版新書)など。

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