おせっかい宣言

第44回 ふと目に入る

2018.01.10更新

 「紙の新聞」を読んでいるのは、現在50代以上、とか言われている。そうだろうな、と思う。今どきの、ひとりずまいの大学生で新聞を取っている人なんか、まずいない。
 今、紙の新聞を読んでいる人が大学生の頃は、実家から出て一人住まいでも、お金がなくても、結構無理して朝日新聞とか購読していたものなのだった。大学生で、さほど勉強もしていないのに、新聞さえ読まなくなってしまったら、大学生の価値がないように思っていたが、そんなことは、とうに、今は昔、の話である。

 ビジネスマンたちはみんな日経新聞を読んでいたし、今も読んでいるらしいが、紙で読んでいる人はどんどん減っているらしい。20代でビジネスマンをやっている息子も、日経は必読で、毎朝目を通す、というが、もちろん電子版で読んでいるのだ。
 若い人たちは、基本的に毎日、紙の新聞が家に届く、などということは、資源の無駄遣いであり、そんなに紙を使う必要はなく、ネットで十分だと思っているのである。新聞をとる、とは、毎日それだけの「資源ゴミ」が家に届く、ということであり、家に新聞紙があふれて大変だというのである。
 つまり、「若い人は新聞を読まない」と言いたいわけではなく、若い人たちはみんなパソコンやスマホで新聞を読んだり、Yahooニュースとかで各紙からのニュースをピックアップして読んだりしている。紙の新聞を読まない、というだけだ。

 「紙世代の最後の末裔」かもしれない私も、若い人たちに「資源の無駄だろう」と言われることには納得することもあったので、ちょっとだけ「紙版」の新聞をやめてみた。
 ガジェット好きというほど詳しくはないが、決して嫌いなわけじゃない。スマホもタブレットも結構早くから持っていたし、電子版の新聞も、もともと、あれこれ、読んでもいた。だから、若い人のように、紙の新聞がなくても、いけるかな、と、ちょっとだけ思ったのだ。電子版オンリーにして、タブレットやスマホやパソコンで目を通す、というのを試してみたが、数週間も経たないうちに、簡単に挫折。新聞販売店に電話。「紙の新聞、入れてください」と言ってしまった。

 何故挫折してしまったのか、考えるに、「ぼんやり新聞に目を通す」ということができなくなったことが、つまらなくて、気に入らなかったのだと思う。
 新聞を紙で読んでいたとき、意志を持って読んでいなかった。新聞は届いたら、見るものであり(だからこそ新聞各社の一面の配置は、おおごと、なのだと思うが)、手にとったら、開くものであり、読むぞ、という意思がなくてもなんとなくページを開くものだ。読む気がなくても、開いていくのであり、それが「大人のやることだ」と「紙新聞世代」は刷り込まれているから、届いたら、開くのだ。
 ちょっと前まで精神科医がうつ病の診断をするとき「毎朝の新聞が読めますか」ということを聞いていたらしい。これも、そういう習慣を繰り返せているか、外の世界とのつながりの象徴である新聞を開く気になれるか、というのがその人の内的状況に反映され得る、と思うだけの「大人の習慣」があったからこそである。つまり習慣として、ただ、開き、書いてある見出しを見る。目に入った広告を見る。心にとまったものは、読む。

 電子版だけにすると、そのような習慣の多くが、失われていった。トップニュースはあるにはあるが、そこから新聞を読み進めていこうとすると、意志を持ってどの記事を読むか、「選択」していかねばならない。「ぼんやり眺める」ということにはならない。
 紙版の新聞にこだわっている私のような世代のために、電子版にも紙面ビューアー、というのもあって、新聞の紙面のように読むこともできるにはできるのだが、こちらにすると、見にくいことこの上ないし、だいたいその紙面ビューアーの、どの部分を拡大するか、という時に、既にかなりの意志による「選択」が必要になってしまうのである。
 「意志」によって、毎日、世界の状況とか、新刊の出版とか、そういういうことをいちいち、選ばなければならないことに、紙世代の最後の末裔は、すっかり疲れてしまい、新聞を読むのがつまらなくなった。新聞は読むのではなくて、見るものだったのだ。

 紙の新聞を読んでいると、ふと目に入ることがたくさんある。そしてそういうことが当たり前だとも意識せずに読み続けている。お正月の新聞は、広告や特別版で持ち重りして、新聞受けに入らないくらい分厚い。その重さを新年の重みのように心地よく感じながら、分厚い元日の新聞を開くと、ああそうだった、出版社は、元旦に競って広告を打つのだったな、と思う。こういうことはネットでニュースを見たり新聞を読んでいても、やっぱり、わからない。意図せずに開いたページに思いがけない記事があるように、広告も、また、目に入ってくる。

 よその出版社の広告で恐縮だが、新潮社はお正月の広告として、作家、塩野七生さんが日比谷高校生だった頃、図書館で偶然にホーマーの『イーリアス』に出会い、それから古代ギリシャと地中海に魅せられ、今もヨーロッパにすみ、50年にわたってヨーロッパの通史を書き続けておられる、という話を掲載していた。

 図書館で、ある一冊に偶然に出会う。こういうものなのだ。出会いとは・・・と思う。新聞や、図書館や、本屋で、ふと目にはいる。その記事や一冊が、人生を変えてゆく。
 私は女子大の教師をしており、各学生の卒業論文を担当する。彼女たちが何を書いたら良いかわからない、何を読んだらいいかわからない、というときは、図書館に行って本棚の前に立ってくるように、と、いう。この辺かな、と思うところに立って、「偶然の出会い」を経験してもらいたいのだ。全面開架式の我が職場の図書館は、偶然の出会いに満ちているはずだ。

 インターネットは確かにネットを通じた独特の情報の発信と受信を通じ、関係性を構築していくようだが、その多くは「意志的」なものであり、ふとした偶然の出会いを予測しにくい。
 意志でどうこうできることは大したことではなく、この世界に自分を委ねた時に起こる偶然にこそ、人生がドライブされるのが本質だと思うが、それは一層見えにくくなっていくのかもしれない・・・などというこの文章は、まずは、ネットを通じて配信されているのだから、潔くないことをしている自覚は、もちろん、あります。ごめんなさい。

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三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。
1981年、京都薬科大学卒業。
1999年、ロンドン大学PhD(疫学)。津田塾大学国際関係科教授。
著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女を生きる覚悟』など多数。最新刊は『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)。

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