セトウチを行く

第7回 島で生きる(備前市・鹿久居島)

2016.03.24更新

 3月、イカナゴの季節がやってきた。大阪湾から播磨灘を中心に、セトウチの春には欠かせない食材だ。各家庭で大量の釘煮がつくられ、近所や親戚などに配られる。「イカナゴ贈与経済」という本が書けそうなくらい、イカナゴがセトウチ中をめぐる。我が家にも、毎年、数キロの釘煮が赤穂の実家から送られてくる。

 なんと言っても美味なのが、3月のこの時期しか食べられない新子(シンコ)の釜揚げだ。これが感動的にうまい。ちりめんじゃこよりも大きく、しっとりとやわらかいイカナゴのシンコをご飯の上にのせ、わさび醤油をかけるだけ。つい「これを食べるためにセトウチに移住した!」と言いたくなるほど、うまい。

 さて、イカナゴはこれくらいにして、今回は日生(ひなせ)の「島」の話。岡山県には、87の島がある。そのうち人が住む有人島が21で、その多くが広島県に接する西部の笠岡諸島と兵庫県に近い東部の日生諸島にある。

 この岡山県の島で最大の面積を誇るのが、日生諸島の鹿久居島(かくいじま)だ。名前からして迫力がある。最初にこの島を目にしたときは、その姿に圧倒された。寒河(そうご)から国道250号線をまっすぐ海に向かって走ると、目の前に大きな「山」があらわれる。「島」というよりも、「山」なのだ。いくつも峰が連なり、海から鋭く切り立った斜面は深い緑に覆われている。人家や人工物は何も見えない。

 現在、島に暮らすのは、高齢化した5世帯9人だけ。2015年4月に「備前♡日生大橋」が開通し、日生本土とつながった。はたしてどんな島なのか。2015年6月、岡大の学生たちと橋を歩いて渡って、鹿久居島へと向かった。

 鹿久居島には、鎌倉時代や室町時代に「鹿久居千軒」と呼ばれた港町があった。島の南側の千軒湾の遺跡からは南宋の青磁器や宋銭なども出土している。江戸時代には、岡山藩の鹿狩りの狩場や馬牧場がつくられた後、罪人の流刑地とされた。1710(宝永7)年に、その流刑場も廃止され、無人島となる。

 鹿久居島に再び人が住み始めたのは、1946(昭和21)年のことだ。戦後の食糧難のなか、朝鮮半島からの引き揚げ者など、58世帯あまりが開拓入植した。しかし、やせた土地とシカの害などで生活は厳しかった。島の人口は1950(昭和25)年に34世帯・143人、1960(昭和35)年には19世帯・86人と減少し、その後も多くの人が島を離れていった。
 
 都会の人間からすれば、わずか5世帯の高齢化した島というだけで、生活が成り立たない危機的な状況を想像してしまう。つい人がたくさんいることが「豊かさ」の証しだと考えてしまうのだ。私自身もそうだった。しかし島の人から直接話を聞くと、予想もしなかった島の暮らしが見えてきた。

 鹿久居島では、1960年代に始まるミカン栽培と観光ミカン狩りの成功で、なんとか農業で生計が成り立つようになった。今も島に6つのミカン農園がある。そのうち3つの農園は、島を離れた人が通いでミカン栽培を続けている。中西さん(67歳・男性)も、そのひとりだ。

 20歳で島を離れ、電機会社のエンジニアとして働きながらも、週末の休みに鹿久居島に渡り、父親から引き継いだ農園を維持してきた。少年時代から自分で船を造るのが好きで、自作の船にエンジンをつけて島に通っていたという。定年後は、荒れた農園を再整備し、本格的にミカン栽培に取り組みはじめた。

 「趣味というんか......、まあ、島が好きなんで」と中西さんは言う。
 「やっぱりあの、〔鹿久居島は〕匂いが違うな。酸素がきついいうんかな、濃いいうかな。......潮風と山との混合の匂いいうんかな。そりゃ、ええ匂いするわー」

 化学肥料をいっさい使わず、山の腐葉土や海岸に流れつく海藻を肥料として使う。収穫したミカンは、岡山市内の1軒のスーパーだけに農園名をつけて出荷している。ミカン狩りはしていない。

 「ええミカン出すんだったらな。踏まれたりしたらな。......うちはミカンの木がまだ小さいから」
 毎年ミカンを楽しみにしている購入者の期待に応えようと、こだわったミカンづくりをしてきた。しかし、その農業への向き合い方は、どこまでも自由で、軽やかだ。

 「わしゃコーヒー飲むのが好きでな。あの木の上へなあ、自分だけでコーヒー飲むところ、つくっとんじゃ」

 見上げると、農園内の10メートルはある高い木の上にツリーハウスがあった。定年を迎えても自分の好きな島に通い、有機栽培に挑戦し、自分だけの時間を誰からも邪魔されずに過ごす。そこには、都会で暮らす人間には手の届かない「豊かさ」があった。

 南さん(67歳・女性)は、夫婦で島に暮らしながら、農業を営んできた。もとは日生本土の出身で、鹿久居島に嫁いできた。ミカン以外にも、トマトやブルーベリー、ジャンボニンニクなど、さまざまな作物の栽培も手がけている。

 架橋前から、ジャムやドーナツなど農園の食材を利用した加工品をつくり、農園の果物や野菜などとともに島外の市場で販売してきた。架橋後には、自宅を改装し、「お食事処 帆野果(ほのか)」を開業した。野菜や加工品なども、種類を増やして販売している。

 「自分で直売所を開くのが夢で。ほで、リフォームして」
 「高齢者」とされる年を過ぎてから、南さんはみずからの「夢」を叶えた。

 およそ600本のミカンを夫婦二人で育てる。評判が口コミで広がり、進物用のミカンには沖縄以外の全国から注文があるそうだ。ミカン栽培だけでなく、野菜や他の果物の世話、加工品づくり、食事の提供など、毎日、忙しい。

 「ずっと働いとんよ。......ほで何かしよう、畑行かんときは、おおそうじゃ、あの、梅ができとるから梅干しつくって、それからあの、蕗ができたら、蕗のきゃらぶきしたり」

 「気晴らしって、何かあるんですか?」という学生の率直すぎる質問にも、笑顔で答えてくれた。
 「ふふふ。気晴らしはもう、畑行くのが気晴らし。やっとあたしの時間じゃわ思うて。......山へ行くのが、一番気持ちがええ」

 南さんの言葉からは、島で働くことを楽しんでいる様子が伝わってくる。感心する女子学生たちに、「農家ってええよ、あの、自由な時間じゃし......じゃから、ぜひ農家へお嫁に行って」と笑う。

 2015年7月、学生と昼食をとるためにお店を訪れた。島でとれたひじき入りのコロッケなど、おいしい手料理を味わう。学生がご飯にそえられた漬け物について訊ねると、「そりゃな、あたらしい漬け物づくりに挑戦したんよ」と、インターネットで調べたというレシピをみせてくれた。農園とお店のホームページも、娘さんに手伝ってもらって開設したそうだ。どこまでも明るく、前向きな姿がとても印象的だった。

 「備前♡日生大橋」の開通後、鹿久居島の道路沿いには、各農園の真新しい看板が立てられ、喫茶スペースを併設した農園の直売所があらたにつくられた。大型バスが停められる駐車場を整備した農園や、スピーカーとスクリーンを設置して映画鑑賞できるスペースをつくった農園などもある。人口が減り、高齢化した島の農家が、いずれもあたらしい事業に挑戦している。

 「人口減少」や「高齢化」という言葉で、ぼくらは地方の状況を理解した気になっている。でも、その認識は間違っているかもしれない。

 65歳以上になれば「高齢者」とされ、統計では「生産年齢人口」から除外される。60歳で定年を迎える給与所得者がほとんどの都会では、それがあたりまえかもしれない。でも、田舎ではみんなまだ「現役」なのだ。鹿久居島で出会った人びとの姿からは、いかに日本の「常識」が都会を基準につくられているか、地方の実情を無視しているか、気づかされた。

 次回も、日生諸島の島から都会と地方の「ずれ」を考えてみよう。



「備前♡日生大橋」で日生本土とつながった鹿久居島


参考文献
鹿久居島開拓50周年記念式典開催実行委員会 1996『道遙か 鹿久居島開拓50年の歩み』
前川満 2002『日生を歩く』(岡山文庫218)

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

松村圭一郎まつむら・けいいちろう

1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークをしてきた。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。2015年4月から岡山で暮らしはじめる。

2017年9月、「みんなのミシマガジン」での連載「<構築>人類学入門」をもとに大幅に書き下ろした、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)が刊行。

岡山大学文学部松村研究室

うしろめたさの人類学

バックナンバー