セトウチを行く

第9回 夢のつづき1(備前市・鴻島)

2016.05.28更新

 小豆島から日生行きのフェリーは、日生諸島の島々を眺めながら、日生港へと向かう。最初に見えてくるのが、大多府島(おおたぶじま)。元禄11(1698)年に岡山藩が港を築いた歴史ある島だ。それから、もっとも人口が多くカキ養殖の盛んな頭島、ハンセン病の国立療養所がある長島、鴻島、鹿久居島と続く。なかでも、鴻島(こうじま)は、島全体に別荘が建ち並ぶユニークな景観に目を奪われる。あきらかに他の島とは雰囲気が違う。

 2015年6月。はじめて学生とともに島を訪れた。定期船を下り、桟橋から島に一歩足を踏みいれる。何かの束縛が解けたような、軽やかな気分になる。交番も郵便局もなければ、コンビニも商店も、信号も横断歩道もない。都市生活を成り立たせている社会のシステムやルールと最小限の接続しかしていない。そんな「離島」の空気が漂っている。
 
 島にある330軒あまりの別荘は、すべてバブル期に建てられた。関西の2つの不動産会社が中心となり、わずか数年のあいだに開発が進められた。そのとき別荘を購入したのも、大阪や神戸など関西圏の人が多い。

 もともと鴻島は、鹿久居島よりも早い昭和2(1927)年に開拓入植が始まり、20世帯あまりが入植した。終戦直後の開拓入植では、約40世帯が参加し、昭和24年には、62戸306人にまで人口が増えた。2010年現在、島の人口は42人。鹿久居島と同じく、島からの人口流出が続いてきた。ところが過去5年間(2005〜2010)に限れば、鴻島は日生諸島で唯一、わずかに人口が増加に転じている。あらたに中古別荘を購入して移住する人もいるようだ。

 島のなかは、いくつもの細い道が走る。曲がりくねった坂道が多く、自分がどこに向かって歩いているのか、不安になる。島のいたるところに別荘が並ぶ。シーズンオフで、ほとんどの家に人の気配はない。玄関に会社名を掲げる家もある。企業の保養所なのだろうか。

 山道を通り抜け、静かな入り江の砂浜にたどりつく。ほっと心が落ち着く景色だ。隣に休校になった鴻島分校の立派な校舎がある。いったい、この島でどんな暮らしが営まれてきたのか。7月に再訪したとき、数人の方にお話しを伺うことができた。

 バブル期に別荘を購入されたNさんは、大阪で会社を経営している。60代後半だというのに、きれいに日焼けした顔が若々しい。当時の別荘開発がどのように進んできたか、詳しく話してくれた。

 「僕も、はじめここに買いに来てね、まだ別荘は、あっこの半島あるでしょ。あそこしかなかったんですよ。それで、土地買いに来たときに、土地やいうたって、崖やから。土地ないやん、言うたら、いや透視図を上からこうね、崖があるとこ見たら、そこに見える底辺が土地なんですよ、って。平たい都会で家が並ぶとね、前の家が邪魔になりますやん、視界が。ところが、ここは斜面やから、隣が上下になる。ほんなら、どっちの家も景色いい。だから逆に、こういう別荘地はね、斜面の方がいいんですよー言われて、へー!言うて」

 本来は住宅を建てにくい山の斜面を別荘地として開発していった様子がわかる。それが鴻島の独特な景観につながった。急激に進んだ開発で、島の状況は一変する。

 「はじめね、水もなかったんですよ。もともとここの開拓団が入った時に、50世帯ぐらい住んではったらしいんですよ。で、その50世帯入ってはった人たちが、ぎりぎり暮らせるぐらいの水がね、この山の上にダムがあるんですよ。そこの水でまかなってた。それが、ちょうど昭和63年の夏やった思うんやけどね。うちが完成したんが63年の秋ぐらいかな。で、その前に、水がなくなってね、大変やったんですよ。別荘もいっぱい人が来て、そのころ家がだいたい何軒ぐらいかなぁ。30軒、40軒ぐらいできたんかなぁ。ほんで、みんないっせいに水使いだしたら、なくなってしもて」

 結局、その後、不動産業者と日生町が資金を出しあって海底送水のパイプラインをつくり、別荘の開発と販売は続けられた。

 「別荘業者も、水引かんことには売られへんからいうことで、別荘業者も、もう売るだけ売って逃げる思てたけど、よう売れるし、いやこれは、もっともっと売ろういうことになって、インフラ投資をしたんですよね。でそのあとね、結局、別荘業者は、一説によると、ここの島で、あのー100億ぐらい稼いだと。C社ね。O社は、知らんけどね、かなりねぇ、50億ぐらいは売ったんかも。いっときテレビの番組に出てはったからね。セレブのなんとかいうて」

 バブルに熱狂した時代の異様な空気が伝わってくる。一緒に話を聞いた学生たちが生まれる前のことだ。みんな、あっけにとられた表情でうなずいている。

 「まぁバブルの頃、C社の社長なんか、ひどかったからねぇ。船でも4億ぐらいの買ったり、パワーボートでも1億ぐらいの買ったりして、もう走りまわってた。ヘリコプターも、大阪のお客さんを運ぶのに、ヘリコプターで運んだ。チャーターしてたんやと思うんやけど。ほんますごかったよ。それが平成3、4年の話かな。ほんで、その社長さんはイタリア製の10億円のヨットを・・・・・・」
 「10億円!?」
 「発注してて、で、その金がね、結局、払えんまま倒産した。最後は、もう会員制にするからいうて、僕らも会員にならんかいうて、勧められたけどね。入会金6000万、年会費400万いうて。僕そのとき言うたよ、社長に。社長、もうバブルはじけてるから」
 「え? もう、はじけてたんですか?」
 「はじけてたよ。平成5年ぐらいの話やから。4年ぐらいには、ほとんどねぇ、おかしなってたから。ほんで社長に、もうそんな時代ちゃいますよ、言うて。えらい怒られた」

 Nさんは、島に別荘を購入する前からマリンスポーツが好きで、瀬戸内の海を遊び場にしていた。当時、島に別荘をもつことは、輝かしい「夢」だったに違いない。
 
 「僕なんかは、ずーっと30歳ぐらいから水上スキーをして、相生の室津いうとこでね。家島あたりで遊んでた。で、その時にうちの女房がチラシ見て、お父さんこんなんあるよー、言うて。で、どんなとこか行ってみよう思って。で行ったりしてて、なんかいかがわしいなぁ、と。どっちみちインチキ業者に決まってるわ、言うて。で、水もね、きれいって書いてあったんや。瀬戸内海が、そんなきれいなわけないやん!」

 「いや、ほんまに。だから、あんまりはじめのときは、相手にしてなかったんやけど、すぐつぶれるやろう思ってたら、なんか、どんどんチラシが増えるから。で、いっぺん見に来た。ほんなら、ちょうど来たときが、3月ぐらいやったんかなぁ。水が3月ごろきれいなんですよ。いまごろ台風で濁ってるけどね。そやから、自分の思うてるよりも非常にきれいやったんやね。ほんでまぁ、浜もあるし、あっこに桟橋あるし、ジェットスキー乗って遊べるなぁ、いうことで。そのとき僕の船、ここに来てからおっきい船とか、ちっさい船とか、5隻ぐらい」
 「5隻も?」
 「まぁちっちゃい船ですよ。今浮いてるようなちっさいボートとか。でそんなんで、あの会員制にしてね、ちょっと遊ばすようにして。で、大学生の人に来てもろてね。夏休みだけね。バイトの子は、上でみんな合宿。雑魚寝でね。で、そんなんでこう、まぁ遊んでたんですけどね。非常に世の中もね、もうあのころは、大阪の北新地とか、南のクラブの女の子がお客さんとして来たりね。ジェットスキー乗ろかーいうて、みんなこう、わいわい来るわけですよ」

 当時は、山陽自動車道も全線開通しておらず、電車も乗り継ぎが悪ければ、大阪から日生まで4時間以上かかった。

 「遠いって感じはなかったですか?大阪からここまで通うのは」
 「まぁ遠いけど。こんな好き勝手できる場所ないから。結局ね、僕ら船に乗るんが好きやったからね。ちょうど僕、穂浪いうとこに船おいてるんです。で、そこまで車で来て、そっからボートに乗って。ウェイクボードやりだしたんが、ちょうど50ぐらいからですわ。50ぐらいから流行りだしたからね。もう毎日やってましたここで」
 「あの引っ張るやつですよね?」
 「そうそう、引っ張るやつ。まぁそれと、ジェットスキー。一人乗りのジェットスキーが流行ってるころ。だってあの岡山港からね、ジェットでここまで来るんやからね。4、50人ぐらいのすごい団体で」
 「団体で?」
 「なんせすごいの。もう女の子とか男の子が30、40人くらい来んねん。日曜日なったら。ほんで・・・・・・」
 「ここの浜につける?」
 「いや、つけへんよ。ばーって遊んで。うちもそのころジェットが8台くらいあったから、うちも乗ってるけど、うちは大阪から来てね、下手くその初心者ばっかりやから。ほんなら、もうその人たちは、うまい人は潜るし、ぐるぐる回るし。そんなん来たら、もうみんなあっけにとられて、海から上がってもうて。で、二階がね、フライングブリッジいうて、観覧船みたいに乗れるやつ。結局そこの上でみんな見て、しまいに、わーって歓声あげて。ほんならもう、よけいやんねん。そこにサメよけネットのロープはってて、こっちに入られへん。海水浴の人もおったから。そのネットぎりぎりまでビューン突っ込んできて、そこでターンしてね、ばーっと、みんなやんねん。むちゃくちゃうまいわけ、それが」
 「それいつぐらいまでですか?」
 「それはそうやね。そういう軍団は、平成元年ぐらいから来だして、で、ふっと気がついておらんなったんは、平成6年ぐらいかなぁ」

 バブルの崩壊とともに、島から賑わいが失われていく。15年ほど前からは、鴻島に海水浴にくる観光客も少なくなった。放置されたままの別荘も増えている。Nさんは、なぜ今も島に通い続けているのか。大きな窓の外に広がる美しい入り江を眺めながら話してくれた。

 「淡路島には湾がない。こういう湾がね。自分の庭みたいやろ。頭島とかね、鹿久居のへんをね、ここかて船で一周まわるとね、結構また、ほんまにこう静かなんですよ。そうするとね、やっぱり、日生のここの海にね、瀬戸内海の縮図があるいうて」
 「ここだけで全部楽しめる感じですね」
 「鹿久居はおっきい島やからね。島に沿って、ずっと向こう行ったらね、また違う景色があるんですよ。で、あそこまで行けば、小豆島がばーん見えるし。で、頭島の先に大多府ってあるでしょ? あの島はあの島で一周まわってもね。風光明媚。岩があったりね。そやからここおったら、遠くに行かなくなったんですよ。結局、おっきい船はいらんのですよ。もうちっちゃい船でね、遊んでるのが一番楽しい」

 海が好きな人にとって、鴻島の魅力は、まだ色あせていないようだ。Nさんは、最近のあたらしい動きについても話してくれた。

 「それこそ最近ね、若い人が買ってきて、あの大阪でIT企業に勤めてる、35、6の若者がね、独身やのにね。もう、安くなってるんですよ。建てるときに土地と建物で3000万ぐらいかけて建てはった家でも、今は500万ぐらいでね、手放しとるんですよ。ネットで若い人は見るでしょ? ネットで見て、ほんでぽんと買うから。けっこうだからね、売れてるんですよ。で、その人なんか、独身でね、友達は結婚してて、結婚してる友達つれて遊びに来とんねん。こないだなんか、ここのビーチで、あのー、あれ飛ばしてたみたいよ。ドローン!」
 「ここだったらいくら飛ばしても大丈夫ですね」
 「その子はね、なんかあのー、あれしてるらしいですよ。なんかゲームの、ゲームのソフト会社で働いてるって。せやから一日座りっぱなしでしょ? もう海来て、ここでゆっくりして」
 「じゃあまだ、けっこうニーズがあるんですね」
 「だから、たぶんね、僕思うねんけど、世代交代してもね、景色は変わらへんやんか。昔みたいにもうボート買ってね、走りまわって、そういう楽しみ方は、もうないかもしれんけどね・・・・・・」

 鴻島の「夢」には、まだ続きがありそうだ。バブル時代の別荘開発によって島は急激な変化を被った。テレビや新聞は、それを深刻な「問題」として取りあげてきた。でも、いまもこの島に夢を託し、島暮らしを楽しむ人たちがいる。もう少し島の人の声に耳を傾けてみよう。

 (つづく)



頭島大橋(鹿久居島〜頭島)から鴻島を望む

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松村圭一郎まつむら・けいいちろう

1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークをしてきた。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。2015年4月から岡山で暮らしはじめる。

2017年9月、「みんなのミシマガジン」での連載「<構築>人類学入門」をもとに大幅に書き下ろした、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)が刊行。

岡山大学文学部松村研究室

うしろめたさの人類学

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