セトウチを行く

第10回 夢のつづき2(備前市・鴻島、瀬戸内市・長島)

2016.06.29更新

(夢のつづき1はこちら)


 1986(昭和61)年から1991(平成3)年までのバブル景気の時代。瀬戸内の島々は、急速なリゾート開発の波にさらされた。1987年の総合保養地域整備法の施行後、瀬戸内海に面する各県は、独自の「リゾート開発構想」を打ち出し、多くの島でゴルフ場やリゾートホテルなどの建設が計画された。しかし、バブルの崩壊で、計画が頓挫したり、廃墟となったりした施設も多い。

 急速な別荘建設が進められた鴻島でも、その「乱開発」が問題とされてきた。1990年ごろの新聞には、無届けの土地転売や違法建築などの事件を伝える記事が出ている。弁護士が書いた雑誌論文では「裸にされた島」と表現された。

 バブル崩壊から25年あまり。賑わいが失われたかにみえる鴻島にも、静かな変化が起きている。中古別荘を購入して、あらたに島暮らしをはじめる人がいる。バブル時代の「熱狂」とは違い、従来の豊かさや便利さとは異なるライフスタイルの実践にもみえる。ヨットで瀬戸内海をめぐったあと、10年ほど前に鴻島に移住した森田さんが、お話を聞かせてくれた。

 「ヨットマンだもんで。ヨットではしる衆は、瀬戸内海が一番、皆どこの衆も気に入るもんで。僕も瀬戸内海を、5年間ぐらいずっとひとりで回ってただよ。ほんで、広島の生口島っていうところへ行ったら、ヨットマンがいて、別荘がすごく安くなったから、あそこへ行って別荘買ったらどうかってことで紹介されて、ここへ来ただよ。鴻島へね。すごく安かったもんで。で、移住しちゃったんだよ」

 瀬戸内海を知り抜いたヨットマンが生きる場として選んだのが、この鴻島だった。森田さんは、65歳の定年まで、5年ほど「ヨット通勤」をして日生で運転手として働いた。そのあと、2003年に奥さんとともに「瀬戸の花嫁」という貸別荘と鉄板焼の店をオープンした。食事のお客さんには別荘の人が多いそうだ。

 「ようするに、なんで別荘の人が来てくれるかっていうとさ、まあ仲間同士っていうのもあるし、別荘まで来てね、奥さん連中が食事の支度するのが嫌だっていって。だって、来てさ、ほんで掃除する、で、旦那の食事をつくる。1泊2日っていったっても、5食ぐらいはね、奥さん1人で作るの嫌だからね、瀬戸の花嫁に食べに行こうか、って。そういう人がいるもんで、来てくれるもんでさ、うちとしては助かる。確かに奥さん連中はそうだもんね。必ず来たら、もう掃除、風通しして帰らないとね」

 「貸別荘のお客さんは知り合いの方とか、常連さんが多いんですか?」
 「常連はねー、けっこういるけど、うん、若い学生も来てる。来てくれてるよ。リピーターもできたからね。まあ、ヨットの人が一番多いね。ヨット仲間がね。ようするに、大阪の衆が一番、来るもんでね。大阪から出てくるとね、ちょうどここらへんでね、中間点。だいたい5、6時間かけて来るもんで。明石海峡か、鳴門海峡か、どっちから瀬戸内海入るにしたってさ、ちょうど中間点で、ここへ1泊泊まってくれるっていうかさ。そういう点で、うちを利用してくれてるもんでさ。まあ、ヨット乗ってる人は必ず瀬戸内海、一番。フェイスブックやってない? もう、フェイスブックやってれば、ヨットで日本一周してる人、ザラだからね。そういう衆に呼びかけてさ、そうすれば行かせてもらうよってさ」

 ヨットが縁で島外の人ともつながり、別荘を訪れる人にとっても欠かせないお店になっている。バブル期の乱開発やその後の空き家の増加など、ネガティブな面ばかりが強調されがちな鴻島にも、自分の生きる場をみずからの手で築きあげている人がいる。「問題」というレンズだけを通して見れば、その前向きな小さな営みの尊さに気づけなかったかもしれない。

 静かな入り江の亀ノ浦海岸に戻る。すぐ目の前には、濃い緑に覆われた長島が見える。ハンセン病の回復者たちがいまも暮らす島だ。備前市の鴻島と瀬戸内市の長島。行政的には違う自治体だが、驚くほど近い。別荘開発に沸いた島とハンセン病患者が隔離された島。ふたつの島がたどった歴史もまた、遠いようでいて近い。

 長島には、長島愛生園と邑久光明園のふたつの国立療養所がある。愛生園は、1931(昭和6)年に東京の全生園から85名の患者が専用列車で移送されてはじまった。光明園は、1934年の室戸台風で壊滅的被害を受け、173名もの死者を出した大阪の外島保養院(現在の西淀川区中島)の代替施設として、1938年につくられた。現在も、二園あわせて300名以上の入所者が生活し、その平均年齢は84歳を超える。 

 関西の不動産業者が別荘地として開発し、おもに関西圏の別荘オーナーの保養地となった鴻島。そして、東京や大阪からハンセン病患者を受け入れ、隔離する場となった長島。セトウチの島々は、こうしてつねに中央との関係のなかで、特殊な役割を担わされてきた。あるときは「流刑地」や「入植地」として、またあるときは「リゾート」や「隔離場所」という名の「別世界」として。
 
 長島と本土とのわずか100メートルあまりの海峡に橋が架かり、長島がようやく陸続きになったのが、1988(昭和63)年のこと。患者の隔離を定めた「らい予防法」が廃止されたのが1996(平成8)年。ちょうど鴻島で別荘開発が進み、賑わいをみせていた時期と重なる。長島の入所者たちは、隣の島に次々と建てられていく別荘をどう眺めたのだろうか。時は流れ、いずれもあらたな島のあり方が模索されている。

 2016年2月、光明園の敷地内に、はじめて民間の特別養護老人ホーム「せとの夢」が開設され、外部に開かれた長島の新時代が幕開けした。愛生園と光明園を中心に、香川県の大島青松園も含めた瀬戸内三園の世界遺産登録への運動も進められている。

 「限界集落」や「消滅可能性自治体」など、地方の衰退ぶりをあらわすかのような言葉が飛び交う。絶えず若者が街にあふれ、いつも最先端の商品やサービスを享受できる都会からしてみれば、地方の暮らしには「問題」が山積しているようにみえるかもしれない。しかし、地方に「問題」があるとしたら、それはつねに都会との関係のなかで、その「ひずみ」を引き受けるなかで生じてきた。

 時代に翻弄され、大きく姿を変えてきたセトウチの島々。その夢のつづきは、都会と地方とのあらたな関係を織り込みながら、島に生きる人びとの手によって紡ぎ出されている。
 


長島愛生園から鴻島を眺める


参考文献・URL
前川満 2002『日生を歩く』(岡山文庫218)
村本武志 1991「「裸にされた島」--鴻島における事例報告」『自由と正義』42(4):54-58.
長島愛生園:http://www.nhds.go.jp/~aiseien/index.html
邑久光明園:http://www.nhds.go.jp/~komyo/index.html

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松村圭一郎まつむら・けいいちろう

1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークをしてきた。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。2015年4月から岡山で暮らしはじめる。

2017年9月、「みんなのミシマガジン」での連載「<構築>人類学入門」をもとに大幅に書き下ろした、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)が刊行。

岡山大学文学部松村研究室

うしろめたさの人類学

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