セトウチを行く

第15回 変化のなかを生きる(多度津町、高見島)

2016.12.28更新

 瀬戸芸で高見島と粟島を訪ねたあと、興味がわいて二つの島に関する文献を集めた。そのなかで、国際基督教大学の人類学研究室の学生たちが1994年に高見島で調査をした報告書に出会った。今回は、おもにこの報告書『瀬戸内・高見島の生活誌』をもとに、高見島で人びとがどんな生活をしてきたのか、その変化をたどってみよう。

 前回も書いたように、高見島では水が貴重だった。1992(平成4)年に多度津町からの送水設備ができるまで、地下水をくみ上げる井戸の水か、屋根に降った雨水をためて使うしかなかった。多くの家庭では、自分の家の井戸だけでは足りず、共同井戸に水を汲みに行っていた。この水汲みは子どもの仕事だった。「水汲みがつらくていやだった」と振り返る人が多い。1970年代後半からは、水不足のときに丸亀から給水船も来ていたようだ。

 当然、水の使い方には気をつかっていた。桶にためた水で洗い物をする。風呂の水は2〜3回あたためなおす。洗面器の水を3回使う。島の人には、そんな水の使い方があたりまえだった。島外から来たお嫁さんが洗濯をまめにすると「あの家はきれいな服で歩いとる」と嫌みを言われたり、水を出しっぱなしで洗い物をして驚かれたりした。

 しかし、どんなに水不足になっても、島の人は「雨乞いをして降らないことは一度もなかった」と口をそろえる。竜王山の山頂近くにある竜王宮には、浦と浜という二つの集落ごとの御神体が祀られている。雨乞いの儀礼では、それぞれの地区の総代など数名の男性が竜王山に登り、三日三晩交代で祈り続ける「おこもり」をする。それぞれの地区では、御神体を集落の寺や祠にもちかえり、そこで松明を焚いて念仏踊りをした。こうして雨乞いをすれば、かならず数日中に雨が降ったという。

 この「雨乞い」はあくまで農業用水の確保のためのものだった。前回、いま高見島は漁業が盛んだと書いたが、1960年代前半までは葉タバコや除虫菊の栽培が島の経済を支えていた。1961(昭和36)年には、専業農家が41%、漁業との兼業を合わせると、全戸数の7割が農業に従事していた。

 ところが葉タバコが外国産におされ、除虫菊が化学薬品に代替されると、農業が行き詰りはじめる。菊などの切り花栽培への転作も行われるが、安価な花の輸入が増え、若い世代が農業を離れ、島外に働きに出たり、漁に出るようになった。農業をする人が減ったことで、雨乞いもしだいに行われなくなった。

 高見島では、明治初頭、全戸数の約半数が大工職(船大工、宮大工)だった。大正期には、岡山に宮大工として働きに出る者が多かったようだ。当時、漁業をする人は二割弱ほどしかいなかった。漁業に従事する人が増えたのは1960年代のことで、1977(昭和52)年に漁業専業者が35%になって、はじめて農業を上回る。1963(昭和38)年の瀬戸大橋建設で漁師に補償金がおりるようになったことも、漁業従事者が増えた背景にはあったようだ。

 報告書を読むと、目まぐるしく島の生業が変遷してきたことがわかる。いまの地方の急速な生業や祭りの衰退をあまり悲観的にとらえる必要はないのかもしれない。これまでも地域社会は、すでにずっといろんな変化を経験し、何度も姿を変えながら時代を乗り越えてきたのだ。

 高見島の人口は、戦後、一貫して減少してきた。しかし、その「減少」も、たんに島からどんどん人が出て行く、という単純なものではなかった。報告書のなかでは、高見島と地方(じかた)の双方を行き来する人たちの存在に注目している。「地方」とは、多度津の陸側のことだ。

 たとえば、子どもの高校進学で、一時的に多度津に家を借りる人が多かった。母親だけが多度津で高校生の子どもと暮らし、父親と小中学生の子どもは島に残るなど、家族が別々に生活するケースもあった。子どもが高校を卒業すれば、多度津での生活は終わる。ところが高齢になって病院通いが増えると、また多度津に家を借りる人が出てくる。教育や医療へのアクセスが「地方」への依存を強める要因となってきたようだ。

 その過程で、住民票を多度津に移す人が増えていく。それでも高見の自宅は残し、庭木に水をやりにいったり、カラオケの会に参加したり、墓掃除に行くなど、島との行き来が途絶えてしまうわけではない。

 親は高見に住みながら、子ども世代が多度津で働いて生活している場合も多い。高見で漁業に従事している方は、イカナゴ漁が忙しい時期に、多度津で働いている息子が島に手伝いにくるという。住民票が移れば、統計上は島の人ではなくなる。だが、それで島との関わりが完全に失われるわけではない。

 高見島には、もともと浦地区に大聖寺と六社神社、浜地区に八幡神社と善福寺と、浦・浜それぞれに神社と寺があった。戦後の「生活改善運動」のなか、「小さい島なのに寺と神社を2つずつもっていてはいけない」という意見が出て、1958(昭和33)年から1959年にかけて、神社は浜の八幡神社、寺は浦の大聖寺に統合する「一社一ヵ寺」が行われた。

 高見島は、遺体を埋める「埋め墓(埋葬墓地)」と石塔を建てて死者を供養する「参り墓(石塔墓地)」のある両墓制の島として知られている。一社一ヵ寺によって善福寺にあった浜の「参り墓」の石塔は大聖寺に移された。浦と浜で別々に行われていた神社の秋祭りも、ひとつに統合された。

 1950年代頃に活発になった「生活改善事業」や「新生活運動」は、戦後日本の地域社会に大きな影響を与えた。各家庭の台所の改善から水道や風呂の整備、料理の献立づくりや家計簿のつけ方、嫁姑の話し合い、冠婚葬祭の簡素化、迷信因習の打破まで、生活のさまざまな「合理化」と「無駄の排除」が目指された。

 この運動は政府主導ではじまった。だが、地域の自治組織や婦人会・青年団、公民会への働きかけで、下からの生活改善を促す動きが日本全国に広がった。祭りをやめてその費用を小学校再建に使ったり、雛祭りなどの節句のお祝いや暑中見舞いをやめるなど、いまでは日本の誇らしい文化とされているものが陋習・虚礼として積極的に排除されたのだ。

 その影響は、高見島にも及んでいた。だが「一社一ヵ寺」への統合で、浦と浜がひとつになったわけではない。浦と浜には、それぞれ別々の「えびす」「お大師」「荒神」がある。「祇園さん」「本宮さん」は浦にしかなく、「弁天さん」「妙見さん」は浜にしかないなど、異なる信仰慣習が維持されている。

 島は、さまざまな変化を経験してきた。それはかならずしも「島の」変化ではない。むしろ日本社会全体の変化を、この小さな島が受けとめてきた結果なのだ。

 1994年の調査からすでに20年以上が経過した。人口も当時の4分の1にまで減った。この20年間に、さらなる大きな変化があったはずだ。ただ、20年前、高見島が国際芸術祭の会場となり、1日2000人が国や地域をこえて島を訪れるなど、だれが予想できただろうか。高見島がいま経験しているこのあらたな変化は、日本社会自体に起こりつつある変化を映し出している。
 


島を離れる船から高見島をのぞむ

 
参考文献
大森元吉・八木橋伸浩(編)1995『瀬戸内・高見島の生活誌』(国際基督教大学教養学部人類学研究室)
田中宣一(編著)2011『暮らし革命:戦後農村の生活改善事業と新生活運動』(農文協)

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松村圭一郎まつむら・けいいちろう

1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークをしてきた。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。2015年4月から岡山で暮らしはじめる。

「みんなのミシマガジン」では2015年3月まで「月刊 越尾比屋人」を連載。また『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、『KYOTO的』では「エチオピア的」を連載した。岡山大学文学部松村研究室

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