セトウチを行く

第16回 船乗りの島と無人島になりかけた島(三豊市、粟島・志々島)

2017.02.02更新

 2016年10月に瀬戸内芸術祭で訪れた香川県の粟島。2時間ほどのごく短い滞在だったが、旧海員学校の美しい洋館や旧粟島中学校を拠点とした「粟島芸術家村」など、印象深い場所が多かった。開放感あふれる島の空気も心に残った。

 今回はこの粟島の変化について、文献をもとにたどっていこう。立命館大学の地理学者を中心とした1991年の共同研究の成果が『立命館大学人文科学研究所紀要』62号(1994)に収録されている。

 第14回で書いたように、粟島は船員養成を担ってきた島だ。1897(明治30)年、粟島村会議員の中野寅三郎が私財と敷地を提供して、日本で最初の地方商船学校である粟島村立海員補修学校が設立された。その後、国立の商船学校/海員学校となり、1987(昭和62)年に廃校になるまで、長く日本の海運業に船乗りたちを送り出してきた。卒業生の数は、4400名をこえる。

 粟島を訪れたとき、元船員と思われる島のボランティアの方が海員学校に残された資料や展示物について熱心に説明されていた。島には今も世界を旅した元船乗りたちが暮らす。

 初期の海員学校の入学者は粟島出身者が中心だった。その後、島外からの入学者も増え、瀬戸内海沿岸の府県から毎年、70名前後の若者が粟島に集まってきた。海員学校と小・中学校が合同で開催する秋の運動会は、島民全体が参加する粟島最大のイベントだったそうだ。島外から海員学校に来た若者が島の女性と結婚することもあった。粟島で感じた訪問者をあたたかく迎える雰囲気は、こういうルーツがあったからかもしれない。
 
 粟島出身の船員は、卒業するとほとんど海運会社に就職した。大型船の船長や一等航海士など幹部船員を数多く輩出している。船員の航海中の生活費は会社が負担するため、給料はそのまま家族の生活費になる。島では生活費も安いことから、船員の家族は経済的に安定した生活が送れた。

 船が日本に寄港する場合、家族は会社の費用で船員と面会に行くことができた。船員の家族は、島で暮らしながら日本各地を訪れる機会に恵まれていたのだ。コーヒーや洋食器などの舶来品も、他の島に先駆けて粟島で普及した。当時、粟島の人は服装なども都会的で、他の島とは雰囲気が違うので、ひと目でわかったそうだ。

 しかし、日本が高度経済成長を遂げた1970年前後から船員家族の考え方にも変化が出てきた。日本全体が経済的に豊かになり、船員家庭が享受してきた都市的生活の優位性も失われた。父親不在の家庭環境も、しだいに忌避されはじめる。オイルショックによる海運業の不況もあり、普通高校から一般の大学へと進学する子どもが増えた。普通高校に進学する場合、島を離れて子どもが下宿しなければならない。これが高見島と同様、家族が陸側の地方(じかた)に移り住むきっかけにもなった。

 こうして、1960年代までは維持されてきた島の人口の流出がはじまる。1970年に1387人(国勢調査)だった人口は、1987年には約半分の750人(住民基本台帳)まで減った。一方、1976年には陸側からの海底送水で簡易水道が設置され、1980年代にかけて島内の道路の拡幅舗装や港湾の整備なども進んだ。地方のインフラ整備が、人口流出に追いつかなかった状況がわかる。

 1987年の海員学校の廃校で、経済的にも精神的にもシンボルだった支柱を失い、粟島はリゾート開発へと舵を切る。折しも日本全体がバブル景気にわいた時期だ。前にふれた鴻島の別荘開発と同時期に、粟島全体をリゾートエリアにする計画がつくられた。その中心は、海員学校跡地を整備し、テニスコートやキャンプ場などをそなえた粟島海洋記念公園だ。宿泊施設のル・ポール粟島も公園内に新設された。

 バブルの崩壊で瀬戸内の多くのリゾート開発が行き詰まりを見せるなか、夏休みの週末に200〜300人の海水浴客が粟島を訪れ、ル・ポール粟島も予約客でいっぱいになった。開業後2年間の宿泊者は、香川県からが6割を占める一方、関西と関東の大都市圏からの宿泊客も2割近くを占めるなど好調だった。少なくとも共同研究が行われた1990年代初頭までは、粟島のリゾート開発は一定の成果をあげていたようだ。

 その後、粟島の小学校と中学校は、ともに2014年に廃校になった。2010年には島の人口は289人(国勢調査)まで減っている。リゾート開発だけで島の人口を維持するのは難しい。人口が減る事態にどう対処するのか。これはセトウチの島々が一様に直面する課題だ。

 資料を読み進めるなかで、気になる一文があった。粟島の隣にある志々島の人口減少についての記述だ。志々島は、1990年当時、もっとも若い年齢階級が40代後半で、高齢人口比率も68.2%になっていた。

 「こうした人口特性を踏まえると、志々島地区は21世紀になる頃には無人島になっている可能性すらある」

 21世紀になって16年が過ぎた。もう無人島になったのだろうか。さっそく調べてみると、1990年に88人だった志々島の人口は、2010年までに24人(国勢調査)に減ったものの、無人島にはなっていなかった。しかも、2005年に96.7%まで進んだ高齢化率が、5年後の2010年には66.7%まで改善している。何があったのか。

 情報を探していくと、志々島に通いつづける香川大の研究者の報告を見つけた。それによると、2007年から2009年にかけて30代から60代までの9人の転入があったという。いずれも志々島で生まれ育って島を離れた方とその家族のようだ。2011年には倉庫に眠っていた太鼓台が修復され、40年以上途絶えていた「だんじり」が復活した。
 
 その後も、2013年から2016年にかけて、島とはまったく縁のなかった3名が志々島に移り住んだ。2016年1月〜3月には、17人まで減った人口を30人まで増やそうと「島暮らし体験イベント」が3回開かれ、毎回50人ほどの参加者が訪れたそうだ。5月には、クラウドファンディングでの資金調達をもとに古民家を改修し、ゲストハウス「きんせんか」がオープンした。海外からの宿泊予約も入るという。

 志々島は瀬戸内芸術祭の会場にはなっていない。それでも島に惹かれる人たちが絶えない。いったい何が起きているのか。たぶん、そこにはセトウチの未来の予兆があるはずだ。これは一度、志々島を訪ねなければ・・・。
 
   

高台にある旧粟島小学校から粟島海洋記念公園を眺める。右端の水色の建物が旧海員学校の建物。

参考文献
戸所隆 1994「船員の島・粟島をとりまく立地環境と空間構造の変化」『立命館大学人文科学研究所紀要』62:1-37.
香川貴志 1994「粟島における人口構造の変化--海員学校閉鎖のインパクト--」同:39-61.
古賀慎二 1994「粟島におけるリゾート開発と余暇活動」同:141-160.
稲田道彦 2012「瀬戸内の島々の最近の光明 −志々島と小豆島−」香川大学瀬戸内圏研究センター編『瀬戸内海観光と国際芸術祭』美巧社.

参考URL
三豊市役所総務部秘書課『広報みとよ』2016年9月号(http://www.city.mitoyo.lg.jp/hf/kouho/2016.9.1.pdf
香川県「塩飽諸島地域振興計画」(www.pref.kagawa.lg.jp/chiiki/seto-island/pdf/promotionplan5.pdf

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松村圭一郎まつむら・けいいちろう

1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークをしてきた。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。2015年4月から岡山で暮らしはじめる。

2017年9月、「みんなのミシマガジン」での連載「<構築>人類学入門」をもとに大幅に書き下ろした、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)が刊行。

岡山大学文学部松村研究室

うしろめたさの人類学

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