セトウチを行く

第18回 吉備の海2  景観が語る歴史(岡山市、玉野市・児島半島)

2017.05.08更新

 春の風に桜の花びらが舞うと、山が木々の新緑に染まる。岡山大学の裏の半田山も、あざやかな緑のパッチワークに彩られはじめた。時計台へとつづくイチョウ並木にも、みずみずしい若葉が萌える。近くを流れる旭川を上ると、川沿いの山々が透き通った浅緑に輝いている。岡山で暮らしはじめて、毎年この季節は、山の新緑の美しさに目を奪われる。

 なぜ岡山の山は新緑がきれいなのか。それは、あきらかにスギやヒノキといった針葉樹の植林が少ないからだ。秋には葉を落とすコナラやヤマザクラなどの広葉樹がほとんどで、春にはいっせいに青葉が芽吹く。高知など四国に行くと、一年中、山が植林された濃緑の針葉樹に覆われているのと対照的だ。

 では、どうして落葉広葉樹が多いのか。それは、かつて多くの山が「はげ山」だったからだ。半田山も、50年ほど前まで生活用の薪をとる薪炭林として乱伐されてきた。うっそうと緑の木々に覆われた現在の姿からは、想像もつかない。つねに都市の人びとが木を伐り、利用してきた山だからこそ、木が生長するまで何十年もかかる植林地にはならなかった。そして戦後、電気やガスが普及して山の木が使われなくなると、そのまま放置され、さまざまな種類の広葉樹が繁茂しはじめたのだ。

 山の燃料林としての利用の歴史は長い。第4回で赤穂の塩づくりにふれたが、じつは岡山のほうが製塩のはじまりは古い。「師楽式土器」という薄く火の通りやすい粗製土器を使った弥生時代の製塩は、現在の岡山と香川にまたがる備讃瀬戸の島々ではじまったと考えられている(縄文時代の土器製塩は茨城や宮城など東日本が最古)。土器をつくるにも、繰り返し海水をかけて乾かした海藻を焼くにも、その灰を海水とともに土器に入れて煮詰めるにも、塩づくりには燃料の確保が欠かせない。

 弥生時代の製塩遺跡の分布をみると、「吉備の穴海」をぐるりと囲むように製塩土器が出土していることがわかる。穴海に面した岡山南部の平野部、児島半島や牛窓半島、小豆島や直島諸島などで土器製塩が行われていた。とくに弥生時代最古の製塩土器が発見され、西日本で最初に土器製塩がはじまったとみられる児島半島に多くの遺跡が集中している。

 児島半島(かつての吉備児島)は、古代から現在にいたるまで製塩業で有名な場所だ。平城宮址から出土した729(天平元)年の木簡にも、備前国児島郡から塩が調(租税)として納められていた記録があった。土器で海水を煮詰める製塩は、中世には石釜や鉄釜にかわり、遠浅の浜の塩田を利用する方式が一般的になった。児島では、江戸時代後期に塩田開発が急速に進み、大阪の市場で売られた塩は「児島塩」として全国にも名を馳せた。のちに「塩田王」といわれる塩業資本家も登場する。

 この児島は、江戸時代から昭和の戦後にかけて、岡山でもっとも「はげ山」が広がっていた場所でもある。ただし、製塩のために周辺の木が乱伐されたわけではない。塩浜用の燃料は、広葉樹の小枝や松葉など燃焼温度の低いものが好まれた。塩の結晶が細かくなり、色も白くなるからだ。割木や石炭だと大量生産はできるものの結晶が大きくなり、不純物も多く混じった。

 児島の塩田には、中国山地の美作(みまさか)地方から旭川や吉井川を下る船が松葉や広葉樹の小枝を運んだ。広島方面からも燃料が取り寄せられていたようだ。江戸時代半ば、岡山の市中では薪不足が深刻化していた。1773(安永2)年には、以前から薪を運んでいた美作船が岡山に入らなくなる。当時、市中の燃料販売は藩の決めた公定価格で取引されていた。瀬戸内海沿岸の塩田の拡大で燃料需要が高まり、沿岸の薪問屋に卸したほうが有利になったのだ。

 岡山市中の薪の値段は高騰し、近郊の山の共有林では盗伐が進んだ。1842(天保13)年には、約50年にわたって維持された薪の公定価格が5割値上げされたが、薪不足は改善しなかった。1840年前後(天保末期)に岡山町奉行所が調べた吉井川の薪船の数は年間300〜900隻に及んでいた。ところが、その大半が児島で広大な塩田を経営する塩業資本家の支配下にあった。

 児島など瀬戸内海沿岸の塩業資本は、山間部の塩薪を独占していた。18世紀以降、瀬戸内の塩田で石炭の利用が広がるなかでも、岡山だけは広大な山地から薪の供給があったため、石炭の導入が遅かったといわれる。塩業資本家たちは、藩とも政結びつきながら、薪の独占を許されてきた。それが岡山の市中の恒常的な薪不足をもたらし、都市近郊の山の荒廃にもつながったと考えられている。

 4月半ばの週末。天気がいいので、家族で児島半島にある宇野港に出かけた。この港からは小豆島や直島などに客船やフェリーが出ている。香川県の直島はすぐ目の前だ。最近は、直島や豊島が瀬戸内国際芸術祭で有名になったこともあり、海外からの大型客船も宇野港に停泊する。その日はフランスの客船が停泊していた。

 芝生の広場でマルシェが開かれ、港は大勢の人でにぎわう。まぶしい太陽と乾いた潮風が心地いい。春の陽光を全身に浴びる。冬の寒さにこわばっていた身体がほぐれていくようだ。夕方、帰りに競輪場のある東海岸のほうに出た。こちらは、ひっそりと静まりかえっている。この「日の出海岸」の正面に、喜兵衛島(きへいじま)という無人島がある。1950年代にはじまる発掘調査で、古代の土器を用いた製塩技術が証拠づけられた島だ。

 それまで備讃瀬戸の浜辺に土器の破片が大量に散乱していることは知られていた。しかし、用途はまったく不明だった。製塩のための土器は薄く、海水を煮詰めるために火にかけると、すぐに破損した。塩が貢納や交易品として生産されるようになると、製塩土器が大量につくられ、そのまま塩をとった海岸に廃棄されてきたのだ。

 喜兵衛島には製塩に従事したとみられる人びとの古墳が18も見つかっている。発掘調査では、鉄の刀や矢鏃(やじり)、土器の練り玉や耳環、ガラス玉などが発見された。副葬品の釣針は、隣の屏風島(びょうぶじま)の漁師がすぐに鯛釣り用だとわかるほど、いまも使われる鯛釣針と寸法から形まで同じだった。武器をもち、装飾品で身を飾った塩民集団が、魚をとりながら、この小さな島で塩をつくって暮らしていたのだ。

 青空にやわらかいピンク色の光がさしはじめる。そのまま児島半島の東海岸を岡山方面に走る。小さな峠を越えると、突然、目の前に巨大なソーラーパネル群があらわれた。牛窓の錦海湾でも同じ光景を目にしたことがある。海辺の広大な空き地にソーラーパネルが続々と設置されているのだ。いずれもかつて塩田だった場所だ。1970年代以降、製塩は電気で海水からナトリウム・イオンを分離させる工場生産に変わり、塩田は不要になった。

 私たちがいま目にしている景観には、その土地の古くからの歩みが少しねじれながら埋め込まれている。巨大なソーラーパネルの太陽光発電施設も、山の美しい新緑の輝きも、セトウチの塩の歴史物語の痕跡なのだ。
 

岡山大学の津島キャンパスから見える半田山の森。現在、岡大の演習林になっている。


参考文献
岩本正二・大久保徹也 2007『備讃瀬戸の土器製塩』(吉備人出版)
近藤義郎 2005『土器製塩の島:喜兵衛島製塩遺跡と古墳』(新泉社)
千葉徳爾 1991『はげ山の研究』(そしえて)
宮本常一 2007『宮本常一著作集49 塩の民俗と生活』(未来社)

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松村圭一郎まつむら・けいいちろう

1975年、熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークをしてきた。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。2015年4月から岡山で暮らしはじめる。

「みんなのミシマガジン」では2015年3月まで「月刊 越尾比屋人」を連載。また『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、『KYOTO的』では「エチオピア的」を連載した。岡山大学文学部松村研究室

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