今月の特集1


 今年1月に発売となった『言葉はこうして生き残った』。
 おかげさまで、「こんな本が読みたかった」「360ページ、一気に読んでしまった」等々、たくさんの嬉しい感想をいただいています。

 本書は、中央公論社(現・中央公論新社)で30年、新潮社で6年8ヵ月、編集者として、そうそうたる作家、装丁家、ジャーナリストの方々と仕事をされてきた河野さんが、雑誌「考える人」の編集長としてこの間、毎週綴られてきたメールマガジンから厳選した37本を書籍化したもの。

 『言葉はこうして生き残った』河野通和(ミシマ社)本書の制作や販売、イベント等を通して、河野さんにお目にかかり、お話をうかがう機会は、まだ会社としても若いミシマ社の面々にとって、自分たちが受け継ぎたい出版を知る、豊かな時間となっています。

 そんな河野さんの言葉をみなさまと共有すべく、今月の特集では、1月24日に東京堂書店で行われたイベント、そして2月13日に銀座EDIT TOKYOで行われたイベントで語られた河野さんの言葉を編集し、3日間にわたってお届けします。どうぞお楽しみください。

(構成:星野友里、中谷利明、角智春、写真:池畑索季)

出版のDNAを、いまの人たちに必ず伝えていく(@EDIT TOKYO)

2017.03.07更新


出来の悪いAIが経営しているようではいけない

三島現状の出版界はどうご覧になっていますか?

河野出版危機を乗り切って生き延びなければならないと必死になるあまり、どうしてもお金を稼ぐことに経営の目が向いてしまいます。それは当然だし、やむを得ないのですが、本来は何がやりたくて出版社に入ったのか、という原点が見失われていくんです。
 ただ、「確実な企画」「失敗のリスクが少ない作家」「この人は初版を出すと大体このくらい売れて、会社にこれくらいの利潤が出てくる」というところで企画が選別されていく。非常に出来の悪いAIが経営をやっているみたいなんです。せいぜい10とか20くらいの過去のデータをもとに、「これだったら大丈夫そうだね」と"安全運転"に走っているのが、今の出版をとてもつまらなくしている理由です。だからきっと、もっと優れたAIが出版社経営をやったら、いまの出版社って要らなくなると思います。

三島なるほど。たしかにそうですね。

河野いまやもう、わざわざ高給を求めて出版社に来る人もいない。だから、本とかクリエイティブということに関心を持って出版社の門を叩く人を、そういう出来の悪いAIみたいな道に誘導して押しこめるのは、とてもまずいことだと思っています。『言葉はこうして生き残った』にも書きましたが、そうではない思いで言葉に関わってきた出版人たちに、彼らが考えていたことをもう一回聞いてみたいな、という思いが私自身にありました。


当時の社長からもらった、忘れられない言葉

河野バブルの時代、私は「中央公論」という雑誌をずっと編集していました。その頃、日本は経済大国になって、「アメリカ何するものぞ。日本は世界の超大国(スーパーパワー)である」という勢いがありました。経済面では、自動車や半導体が売れて、それがアメリカを席捲していく。アメリカでは製造業が全部頭打ちになって、国を支えてきた中産階級の人たちが、みんなそろって苦しんでいく。いまのトランプ現象の予兆です。日本企業が脅威だと言われ、日米貿易摩擦といったものが生まれた時代で、当時の日本人は非常に驕っていました。それからしばらくして、私は、そういう天下国家について大きな言葉で議論する「中央公論」から、「婦人公論」に配置転換になったんです。

三島出版がお金を強く意識するようになったのは、その時代頃からなのかもしれませんね。

河野そのときに、当時の嶋中鵬二(しまなかほうじ)社長に呼ばれて言われた言葉が、今でも忘れられません。社長のご尊父、嶋中雄作氏が、「婦人公論」を創った人だったんですね。

 明治に「中央公論」という雑誌が生まれ、大正年間に「中央公論」の臨時増刊として「婦人問題号」が出て、そこから「婦人公論」が生まれます。明治の近代国家が誕生したにも関わらず、日本の女性たちはいまだに、少しも自由になっていない。選挙権も無かった時代ですし、あらゆる意味で江戸時代の延長のような状況に女性は置かれていた。そこで、これから日本が真の近代国家になっていくために避けては通れない、女性の問題――自我の確立、地位の向上をテーマにした雑誌が創られたのです。

 私は新人時代に一度「婦人公論」に配属されました。当時この雑誌は月に40万部売れて、ブイブイいわせていました。でもそのあとのバブルの時代に、「婦人公論」はいかにも旧時代の雑誌だという印象を持たれて、年間だいたい1万部ずつ下げていくかたちで、発行部数が20万部くらいまで減りました。そこへ私は副編集長としていくように言われたんです。

 私が社長室に呼ばれたとき、社長は「この雑誌を立て直してほしい」と言いました。私はそのとき、「儲かる雑誌にしてほしい」という言葉が続くのかなと思ったんですが、社長からは全然違う言葉が出てきたんです。

 「きみが入った頃の「婦人公論」は部数が40万部で、とてもいい雑誌でよく売れて会社に貢献してくれたが、残念ながら今はそういうふうになっていない。そこで、君に頼みたいのはこういうことだ」と。「40万部売っていたときの編集長は、いまの女性たちのテーマを見事なまでに汲み取って、売れる雑誌をつくった。あのときの編集長は、女性に対する好奇心は非常に旺盛で、色々なテーマを見つけ出した。ただ、彼に欠けていたのは女性に対する敬意である。私はそれがとても残念だった。日本の女性たちの解放を目指して「婦人公論」を創った父にあったのは、女性に対するリスペクトの気持ちだった。きみにはぜひ、その気持ちを持って編集部にいってほしい」。短時間でしたが、こういう話をされたんです。

三島すごいですね。

河野それは、びっくりしました。40万部が20万部に下がった、広告がたくさん入る雑誌にしてくれ、「婦人公論」という誌名を今風のカタカナ名に変えたり、判型を大きくしてビジュアルに訴える恰好にして、もっと儲かる雑誌にしてくれ。そういう言葉が続くのかなと思ったら、社長は全然違う言葉を吐いた。

 「婦人公論」は、日本の女性の幸福を実現するための雑誌、というところに拠って立ってきたのであり、その志をもう一回、いいかたちで現代の女性に届けてもらいたい。そうなれば必ず、いまの女性たちは自分たちに切実な問題を考える雑誌として、婦人公論に手を伸ばしてくれるはずだ。社長は、そういうことを語りたかったんだと私は解釈しています。

 そういう言葉を経営者に言われて異動先に送り込まれたとき、私はこの会社に入って本当に幸せだなと思ったんです。お金を儲けることも大事だけれど、クリエイティブなことや理想やロマンを追うのもまた、こういう仕事の喜びであり意義であるということを、そのとき叩き込まれたような気がしました。


先人からのヒントを受け継ぎ、いまの時代のなかで考えていくこと

河野それから数年経って、私は編集長として「婦人公論」のリニューアルをやりました。その内容は、判型を大きくしたり、表紙を写真にしたりというもので、先の社長の言葉とは一見真逆のように思われるかもしれません。でも、私のなかでは全く矛盾していません。社長に伝えられた志をいまの出版界でどういうふうにかたちにしていくか、と考えたときに見えてきた答えがそれだったんですね。

 メールマガジンを毎週書きながら、昔話や自分の手柄話を書くつもりは全くありませんでした。ただ、自分に影響を与え、自分を勇気づけてくれた先輩の言葉、出版のDNAというのかな、やはりそれを、いまの人たちに伝えていかないといけないなと思っていました。それは、金科玉条のようにその通りやれば上手くいく、というものではなくて、その魂を各人がどういうふうに自分の頭のなかで咀嚼して答えを出すか、ということです。私は私のやり方でやってたまたま上手くいった。もしかしたら失敗したかもしれません。昔の人たちは、その時代その時代に似たような壁にぶつかって、悩み、考え抜き、乗り越えてきた。そのことは僕らにとって遠い話ではないんです。

 あのときの5分か10分の異動の通達に込められたメッセージによって、私は大きな教育を授けられたと思っています。だから、きょうここに来られている編集長の方々で、せっかく出版社に入ったのに面白いことを少しもさせてもらえない、こんなはずではなかったと思ったらさっさと見切り付けていいぞ、と。大っぴらには言いませんけど、内心ではそう思っています(笑)


(つづきます)


    


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