今月の特集2

 10月5日に、恵文社一乗寺店にて『うしろめたさの人類学』の発刊記念イベントが開催されました。著者の松村さんの対談のお相手は、9月に『トラクターの世界史』、10月に『戦争と農業』を出された藤原辰史さん。同じ京都で学んだ気鋭の学者お二人が、本書について、今の日本のおかしなところ、そしてこれからどう世界を微調整してばよいのか、などについて語り合いました。今回の特集では、その様子を2日間でお送りします!

(構成:田渕洋二郎 構成補助:國島知美 写真:三島邦弘)

「私」が変われば、世界が変わる? ―構築人類学の可能性―(2)

2017.10.25更新

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食堂付属大学

藤原なるほど。あと、うしろめたさってそれを感じる相手がいないと成立しないですよね。

松村はい。祖先にせよ、友だちにせよ、対象があってそこにふっと共感することから生まれる感情です。しかもそれは体のなかから湧き上がるような身体的なもので、システムにとってはノイズなのかもしれない。でも、そんなうしろめたいと悩む存在であることで、他者に呼応して動く身体的な共感のネットワークを作ってきたんだと思います。藤原さんが食べ物に注目されたのも、そういう部分がありますか?

藤原そうですね。誰もが食べずには生きていけないし、食べたら出るということは避けられません。でもその単純さゆえに強い部分もある気がします。
 辺見さんの『もの食う人々』という本のなかで、辺見さんはチェルノブイリで汚染された野菜を一緒に食べることでそこの農民たちの心に迫ろうとしていきます。食べることであの事故の遺産を一緒に吟味していくんですけど、最後の最後でタイの大衆食堂の話が出てきて、ここでは老若男女どんな身分の人も宗教の人も大きな口を開けて食べ物をバリバリ胃袋に押し込んでいる。そのときだけ唯一人間は連帯できるかもしれないと感じた、と書いているんですね。

松村面白いですね。そして藤原さん自身も食べることに関する活動をされていますよね。

藤原はい。滋賀のおかあさんたちとごはんを持ち寄って食べながら話をする集まりに参加させてもらってるんですけど、そのネーミングを考えるときに「食堂付属大学」というのを考えました。それをもとに『戦争と農業』という本ができました。付属するものってだいたい下につくんですけどこれを上に持ってきたらなにかまた違った世界が見えてくるんじゃないかと思って。例えば京都大学にはルネという学食があるんですけど、「ルネ付属京都大学」となるわけです。だからごはんを出しているおばちゃんが先生で食べている教員が生徒なんですよ。

松村そのひっくり返しっていうのは藤原さんの得意技で、鮮やかに僕らが考えていることをひっくり返してくれるんですよね。どちらが本質なんだという話になったら、それはもう食って生きていくことが本質だと。「食堂付属国会議事堂」とか。政治家がああだこうだ言ってるより、食って命を回していくほうがメイン。でも今やその本質が忘れ去られている気がします。

藤原そうですね。そしてもちろん食べるための食堂も大切なんですけれど、人間を一本の管だとすると、出すところであるトイレも大切なんですよ。今の水洗トイレにしても、最終的には自然に帰らせるわけですし。

松村そうすると、「食堂・トイレ付属大学」になりますね。

藤原はい。僕はトイレで言葉の使い方、リズムを学んだと言っても過言ではないです。

松村どういうことですか?

藤原昔の大学のトイレって、落書きがしてあるじゃないですか。しかもそのレベルがいちいち高いんです。一番覚えているのは「カミに見放された。ウンを掴め。」と書いてあるんです。そういうすごい表現力を学びました。

松村すごいですね(笑) 


パーテーションはいらない

藤原あと、食堂の話で言えば、京大の食堂がまず劣化したのはパーテーションが設置されたことだと思います。私は同じテーブルで見知らぬ人の顔を見ながら食べるのが趣味だったんです。「ささみチーズカツ」が大好きなんですけど、あれ食べてる人がいたら、思わず話しかけたくなっちゃう。

松村いいですねえ(笑)

藤原でもパーテーションがついたことでそういう対面性が発生しなくなってしまって。僕はそれはある意味劣化というか、おかしいなと思います。

松村本当にそうですね。これは藤原さんが「紙版ミシマガジン夏号」(ミシマ社サポーターに送っている季刊誌。サポーターのお申し込みはこちら!)に寄稿されているんですけど、昔は食堂にもっと複合的な機能があったという話が印象的でした。例えば大衆食堂で食べるときにそこで政治談議もするとか。

藤原そうです。昔の食堂は機能的でしたね。『居酒屋の世界史』という本があるんですけど、それによれば、中世のヨーロッパの居酒屋というのはそこでボーリングをしたり、ボクシングしたり、ひげをそったり、何でもできる場所だったんです。近代になってそれらが専門化していくんですけど。パーテーションで区切るっていうのは、そういう余計なことが生じないようにっていうことなんですよね。

松村なるほど。京都来たときに思ったんですけど、関西は政治談議しているおじちゃんおばちゃんが多くて面白いですね。昔はそうやっておじちゃんおばちゃんが話し始めたら皆そこに加わってたと思うんですよ。人間が顔を突き合わせて物を食う場であれば、当然いろんな言葉が交わされて、喧嘩もあるかもしれないけど、面白いことも生まれる豊かな食の場になったと思います。でも今は、例えばイスが壁に向かっているとか、空間的な制約があって、そういう話したいという気持ちを抑え込むような仕組みになっている。

藤原うんうん。例えば、昨日入った居酒屋で中国の観光客と一緒になったんですけど、僕が食べてたサンマが美味しそうだったみたいで、これと同じのくださいって英語でおっしゃってて。そのあと僕の顔をちらっとみるので「これすごくおいしいよ」と一生懸命言ったりするというのはパーテーションがあるとできないことです。


革命家ではなく、はみ出しの生活者

藤原松村さんの本のなかで印象的なのは、エチオピアから帰ってきて関空に到着した瞬間に全部が自動的に済んでいくことに驚いているところです。エチオピアではすべてが面倒くさいと。

松村そうです。荷物は出てこないし、換金しようと思ったらずっと窓口のおばちゃんたちが喋ってるんですよ。

藤原換金できないんですか?

松村いや、一人は働いているんですけど、あとの三人はずっとしゃべっているんですよね。分担してやれば、この行列さばけるじゃんって思うんですけど。

藤原それは近代的な考え方なわけですね。

松村そう。彼女たちは今喋りたいんですよ。レストランでも、隣に座った中国の人が僕のことを同郷の人間と思ったのかチラチラとこっちを見て「お前と交流したい」ってメッセージを送ってくるわけです。僕は中国語話せないから困るんですけど(笑)。日本ではそういう感情を押し殺さないといけない。お互いに気づかないふりばかりしている。

藤原なんでなんですかね?

松村行儀がいいのかもしれないけれど、たぶんシステムが効率よくまわっているほうが心地いいんですよ。自分がシステムの阻害要因になってないかという自己規制の中ではみ出すことを怖れる。我々もあえて大学の研究の世界からはみ出てますよね。そのはみ出ることで「こういうやり方もあるんだ」とか、そういう実験台になればいいかなと思います。

藤原たしかに、同志だ、仲間がいたというか、はみ出してもいいんだという思いがありますね。以前アメリカの社会運動家の公演を動画で見たことがあるんですけども、ある広場でひとりの男が裸で踊っているんですね。そしたらそのうちにその踊りが楽しそうに見えたひとりの男の人がそれに加わるんですよ。これがフォロワーです。その社会運動家は、「フォロワーは、一人の馬鹿を革命家に変える」と解説します。誰かがフォローすることによってはじめてその裸のダンサーが革命家になる。だから松村さんと僕は、どっちが先かわかりませんが、お互い違う場所で踊ってたんだという感覚はありますね(笑)。

松村嬉しいです。たぶん大変革を起こす「革命家」というよりも、「はみ出しの生活者」くらいでいいかもしれませんね。その踊り加わる人びとは、カリスマ的な革命家をフォローするまた別の革命家ではなく、普通の人が日常の暮らしのなかで、それぞれにはみだしていくイメージで。

藤原そうですね。

松村さっきのパーテーションなんかもそうですが、私たちの共感の回路を遮断しているものから、少しはみ出してみる。みんなで少しずつそれをやっていれば、「革命家」に頼らなくとも、凝り固まった社会を動かしていけるように思います。

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