今月の特集2

 10月5日に、恵文社一乗寺店にて『うしろめたさの人類学』の発刊記念イベントが開催されました。著者の松村さんの対談のお相手は、9月に『トラクターの世界史』、10月に『戦争と農業』を出された藤原辰史さん。同じ京都で学んだ気鋭の学者お二人が、本書について、今の日本のおかしなところ、そしてこれからどう世界を微調整してばよいのか、などについて語り合いました。今回の特集では、その様子を2日間でお送りします!

(構成:田渕洋二郎 構成補助:國島知美 写真:三島邦弘)

「私」が変われば、世界が変わる? ―構築人類学の可能性―(1)

2017.10.24更新

ボケを引き受けること

藤原今度、『うしろめたさの人類学』の書評を共同通信社から頼まれているので、その下書きの一部を紹介します。

 (著者は、構築されたものを崩したり、ずらしたりして、組み直す構築人類学を提唱する。その心構えとして「うしろめたさ」という感覚に注目する。たとえば、物乞いに恵みを施せなかったために抱く後味の悪さや、お年寄に席を譲れなかったときの自己嫌悪。長年にわたるエチオピアでのフィールドワークを続ける著者の自己凝視は、フィールドのみならず帰国後も驚くほど鋭い。
 少し省略します。
 言語の通じなさ、所有観念の齟齬、人間の距離感の違いなどに過剰すぎるほど悩み、山を動かすように自分を変えてきた著者だからこそ、これらの提案が心に響く。)

 松村さんは、『所有と分配の人類学』でフィールドワークと理論構築を見事にドッキングしましたが、今回の本は、積極的に自らの構想を提言しておられて、びっくりしました。関西のお笑いの文化の言葉を借りれば、「ツッコミ」ではなく「ボケ」を引き受けているんです。とても勇気づけられました。

松村書評ありがとうございました。「ボケを引き受けた」っていい表現ですね、嬉しいです。でも、僕がボケられるのも、藤原さんが先人としてボケを引き受けてくださっているからなんです。我々世代の研究者のなかでは、明らかに先駆的な「はみ出し者」ですよね。

藤原ありがとうございます(笑)。そうかもしれません。本来、研究者ってほとんどがツッコミになってしまうんですよね。重箱の隅をつつくように批判して、とにかくツッコむばかり。学問の世界でボケようものなら、総ツッコミを食らうかもしれません。けれど僕はボケの方が性に合ってるんですね。ときどき学問の世界に居づらくなることはありますが(笑)、松村さんは、学問の世界には居づらいですか。

松村だんだん居心地が悪くなってきたかもしれません(笑)。たぶん、学問の世界に留まるのって、ある意味で気楽なんですよ。勉強して人を批判していればいいので。でも、そのままではだめだろう、と思うところはあって。思い切ってボケてみようと思って書いたのが、この本かもしれません。だからツッコミどころ満載です。

藤原そうなると、今回のイベントはボケ二人になりますけど、大丈夫ですかね?(笑)

松村なんとかなるでしょう。もう自分でツッコんじゃいますが、まずこの本のタイトル、もともと「うしろめたさ」なんてついていなかったんですよ。

藤原そうなんですか! なぜこのタイトルに?

松村私の知らないところで決まっていまして(笑)。ミシマ社の皆さんで「タイトル会議」をやってくださったんですけど、「そこで決まったので、これでいきましょう」って三島さんから突然言われて......。最初は、うしろめたさって危険な概念なので「ちょっとな......」と思ったんです。

藤原危険な概念というと?

松村例えば、祖先からの土地を譲り受けるとかって呪縛じゃないですか。誰かへのうしろめたい気持ちは、人を縛る力があって、ネガティブなものですよね。この本の中で贈与とかプレゼントを渡すという話も出てきますが、プレゼントを渡すということは慈愛に満ちた楽しいやり取りのように思われるんですけど、高価なものをもらってしまうと気が重くなるし、なんとなくその人に対して申しわけないとか、引け目を感じてしまう。まだ、うしろめたさが一つのキーワードとして出てくるだけならいいんですけど、さらに「人類学」とつくので、これはまずいな、と。

藤原言い切っちゃいましたもんね。

松村そんな真正面から「うしろめたさ」を研究してきたわけではないので。でも、タイトルを頂いた後にもう一回、最初から読みなおしてみると、たしかに使ってるんですよね、「うしろめたさ」っていう言葉。

藤原おお!

松村実際に私自身がエチオピアに行って路上で子供たちにせびられたり、体の不自由な人がずっとお祈りの言葉を唱えながら炎天下に立っていたりするのをみると、何不自由なく暮らせていること自体がうしろめたくなる。その思い自体は嘘ではないので、そのうしろめたさという感情をどう引き受けて、その意味とか可能性を考えることには意義があるんじゃないかと思い直しました。

藤原なるほど。

松村だから、現代思想のなかではけっこう危うい概念とされてきた「うしろめたさ」を前面に出すためには、本当に批判を甘んじて受け入れる覚悟を決めるしかないなと。それでボケを引き受けることにしたんです。

 それでいざこのタイトルで本を出したら、みなさんから「いいタイトルですね!」って言われて、それがまたちょっとうしろめたいんです(笑)。あるアーティストの方は、「自分の創作の意欲の根源にあったのは、うしろめたさだったことに気づいた」と言ってくださいました。

人間性が削ぎ落とされる


藤原この本を書くきっかけはどのようなものがありましたか?

松村この本自体は、ミシマガジンで「<構築>人類学入門」として、2009年から連載をしていたものが元になっています。2010年から2014年までは東京の大学にいて、その約5年間が私にとって非常に大きかった。

藤原ほうほう。

松村東京にいる間に東日本大震災があって、地震そのものよりも、地震の後しばらくたって東京が「普通」に戻ったときが一番怖さを感じました。みんなが何事もなかったかのように生活をもう一回再開して、ぎゅうぎゅうの電車に時間通りに乗るような生活をまた始める。こんなことが起きたんだから、もっと違う社会のあり方を探すのが普通だと思うんですけど、何もなかったかのようにいつも通りの日常が再開してしまうのが怖かった。

藤原そうですね。

松村あれだけ大量の人間が朝から一斉に移動をするための効率的なシステムがあって、そのシステムに身をゆだねないと生きていけない感じがどうしても辛くて。
 エチオピアの経験を振り返ると、エチオピアで生活している人は、例えば家を建てて雨漏りしていても自分で修理できる。庭には食べ物が植わっていて、誰かに頼らなくても食べ物を得ることが出来る。自分の生活を他の人の働きに頼らなくても自立して生きていく術を知っているし、技術を持っている。そのエチオピアと日本の差は一体何だろうと考えたんです。

藤原そこがこの本の冒頭でいう「なんかおかしい」というところということですね。おかしいということで言えば、松村さんは以前、東京で大量の人とすれ違うときに、ぶつからずに歩くにはどうしたらよいかということについても話してらっしゃいましたよね。

松村そうですね。僕は熊本の出身で、同じ田舎出身の方ならわかると思うんですけど、大量の人が前から歩いてくると足が止まっちゃうんですよ。なんで足が止まるかというと、「相手はどっちに進みたいんだろう」と考えちゃうんですね。すれ違う相手を「意志をもつ存在」と思ってしまうから、足が止まってしまう。だからあるときから、すれ違う相手を「ボール」だと思うようにしたんです。そうすると、全然ぶつからないんです。

藤原なるほど。対面ですね。フランス文学者の大浦康介さんの著書に『対面的』っていうすごく面白い本があるのですが、それとも通じる。要は人間と人間のあいだに「磁場が働く」ということなんです。人間の目と目が向かい合ったときになんとも言い難い力の関係性が生まれて、玉をよけるようには思うように除けられなくなってしまう。

松村その通りです。だから東京に行くと、人の顔を見ないんですよ。でもそれが当たり前になっている自分に気づいたときに、相手を物としてみなしているということは、同時に自分も物だとみなされているし、私も物のように動いているんだなということにも気づいたんです。そして、みんなが物のように動くとうまくいくシステムが作られているからこそ、朝から赤ちゃんを抱っこして電車に乗るとか、不規則な行動は許されないんですよね。そうやって、システムに縛られているうちに私たちの人間らしさがそぎ落とされていく気がしてきました。


「ツバメはいつ卵を産むんですか」

藤原エチオピアだと全然違いますか

松村そうですね。エチオピアに限らず、例えば海外に行くとレジのお兄さんとかお姉さんって大体不機嫌だったり、逆にたまにすごい陽気だったりするじゃないですか。それって、すごく人間的なことだと思うんですよ。でも日本ではお客さまは神様だから、そんな態度をとる店員はほとんどいない。ほぼマニュアル通り機械のように動いている。

藤原ドイツだと買ったもの投げるレジのおばちゃんいますからね(笑)。かと思えば、すっごく優しい人はいます。

松村すごく無駄話が長いとかね。でもそういう人間的なふるまいをするイレギュラーな人がいると、どうしても客の列がさばけなくなっちゃう。

藤原イレギュラーな人で思い出したんですけど、院生だった頃、5月くらいに京大近くの鞠小路通を南に向かって歩いてたんですよ。そしたら明らかに陽気なおじさんが僕のところに来て、目が合ったらニコッとして「すみません、ツバメはいつ卵を産むんですか」って聞かれたんです。「え、ええーやっぱり春じゃないですかね」と答えたら「ありがとうございます」といって去って行かれました。ちょっとびっくりしたんですけど、僕そのときすごく気持ちよかったんです。春の気持ちのいい日に、ツバメはいつ卵を産むのかということをこういう場所できいてくれるという世界に、あとからじわじわといいな、と思って。この本を読んで思ったんですけど、松村さんって、そういうイレギュラーな人の観察が得意ですよね。

松村藤原さんほどではないです(笑)。でも、そもそもみんなイレギュラーな部分を持っているというか、人間って気まぐれじゃないですか。仕事をしていても裏で変なことを考えていたりとか、寝てるのに目が開いてるとか。でもそれは人間である証だし、人間をそういうイレギュラーなものとして、そこからもう一回考えてみたい。

藤原そうですね。
 
松村でもシステムを批判して、スクラップ&ビルドで別の巨大なシステムを作ったって駄目なんですよね。だから巨大なシステムを批判するということには少し危うさもあって、それを別の同質なものと置き換えてもしょうがない。じゃあシステム的じゃないものといったら人間的ななにかです。このシステムにのらない何かでこのシステムを微調整したり、そこから距離をとってシステムから自律した「スキマ」を作ったりというやり方をするしかないのかなと思います。そこが「うしろめたさ」からできることなのかなと思いました。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。京都大学総合人間学部卒。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。岡山大学大学院社会文化科学研究科/岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け、富の所有や分配、貧困と開発援助、海外出稼ぎなどについて研究。著書に『所有と分配の人類学』(世界思想社)、『文化人類学 ブックガイドシリーズ基本の30冊』(人文書院)がある。

藤原辰史(ふじはら・たつし)

京都大学人文科学研究所准教授。1976年、北海道生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程中途退学。京都大学人文科学研究所助手、東京大学大学院農学生命科学研究科講師を経て現職。専門は農業技術史、食の思想史、環境史、ドイツ現代史。著書に『カブラの冬』(人文書院)、『稲の大東亜共栄圏』(吉川弘文館)、『[決定版]ナチスのキッチン』(河合隼雄学芸賞受賞)、『食べること考えること』(共に共和国)、『トラクターの世界史』(中公新書)など。

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