第20回 「おいお前、赤星の連絡先、分かるか?」
阪神・赤星引退-。衝撃の一報は9日の午後にもたらされました。類い希なる俊足で甲子園を沸かせたスピードスターが、自らユニホームを脱ぐことを決断したというのです。持病の首痛が悪化すれば生命にかかわると診断され、球団からの引退勧告を受け入れました。
驚きのニュースを聞いた瞬間、前楽天監督・野村克也氏の顔が思い浮かびました。ノムさんが社会人野球・シダックスの監督だった頃から、赤星選手との師弟物語をいつも聞かされていたからです。
阪神監督だった2000年の春季キャンプ。JR東日本だった赤星選手がシドニー五輪代表として派遣されてきました。
「あの足は戦力になる」
そう確信した老将に対して、ドラフト会議直前、スカウト陣の評価は「監督、足だけですよ」というものだったという。
「足だけでいいじゃないか」
編成サイドの反対を押し切り、ドラフト4位指名。いわばノムさんは「阪神・赤星」の生みの親ともいえます。
「とにかく三遊間に転がして、走れ。セーフティーバントを転がして、走れ。"足が速い"というところから野球せい!」
知将はそう言い続け、ミート重視で出塁し、俊足で揺さぶるスタイルを確立させました。赤星選手もまた、1年目に盗塁王、新人王、ゴールデングラブと活躍。指揮官の期待に応えました。
選手個々の素質、才能を見抜いて、適材適所に置く。その中で「こういうふうに進みなさい」と見通しを立てる。自信をつけさせて、自らの特長でチームに貢献する喜びを実感させる-。ノムさんの指導哲学となる「見つける」「育てる」「生かす」の3ステップが見事に花開いた好例と言ってもいいでしょう。
知将は愛弟子が引退を表明したその夜、都内のホテルで「ゆうもあ大賞」の授賞式に出席していました。事前告知が行き届かなかったらしく、その場に新聞記者はわたし一人しかいなかった。式が終わったタイミングで控室に突入し、談話をとります。赤星の話題になると、それまでの笑顔とは一転、険しい表情に変わりました。
「アイツとは、縁を感じるんだよ。本当に残念だ。33歳だろ? 働き盛りじゃないか・・・」
思い出話をひと通り聞くと、わたしは礼を言って、控室を後にしました。時計は20時を回っている。会社に報告して、原稿に取りかかりたい時間です。受付付近でデスクに電話をしようとしてたら、授賞式の広報担当がこっちに走ってきた。どうしたんだろう?
「あのー、報知の記者さんですよね。野村監督が、お呼びです」
全速力で走り、再び控え室に戻ります。「カントク、失礼します」。わたしの顔を見るとノムさんは珍しく、強い口調で声を張り上げました。
「おいお前、赤星の連絡先、分かるか?」
「いえ、知りません。阪神担当なら分かるかもしれませんが・・・」
「聞いてもらえるか? 大至急連絡をとりたいんだ。東京にアメリカ帰りのいい医者を知っている。紹介したいんだよ。そこで診てもらってからでも、引退するのは遅くないだろう」
いったんその場を離れ、阪神担当に連絡すると、赤星選手がこれまでもよりよい治療のために全国の病院を回ったことや、今度再発したら命にかかわるほど深刻であることを説明されました。苦しみ抜き、悩み抜いて下した決断だというのです。
その旨を説明しようと知将のもとへ再び戻ると、すでに阪神の球団関係者や、別の報道関係者にも「赤星と連絡をとりたい」と電話をしている真っ最中でした。日頃つぶやく「ボヤキ」とは対極の感情的な声で、強く引退撤回を望む姿が印象に残りました。
ノムさんの引退は45歳。体力の限界を感じてからも、はいつくばって現役に固執し、最後まで燃え尽きました。手塩にかけて育てた教え子の33歳での引退は、あまりに無念だったのでしょう。
「引退はいつでもできる。記者会見をしたからって、そんなの関係ない。これから撤回すればいいじゃないか。辞めるのは惜しい。惜しいよ・・・」
老将はこれまで、口癖のように言ってました。「財を残すは下。仕事を残すは中。人を残すは上。そしてな、『感動を残すは最上』と言うんや」
赤星選手という「人」を残したノムさんと、ファンに全力プレーという「感動」を残したレッドスター。2009年、二人のスーパースターがユニホームに別れを告げました。シーズンオフに吹き抜ける風は、どうしてこんなに切ないのでしょうか-。
