数学の贈り物

2018.02.01更新

 昨日、息子と一緒に公園に出かけた。

 「こうえーん!?」と懇願する息子に答えて「よし、行こう!」と言えることが、どれだけありがたいことか、いま、しみじみと実感している。

 昨年の大晦日から今年にかけて、息子が東京の病院に入院した。最初の四日間は絶食・絶飲が続いたため、「おちゃ?」「えびじゅ(おみず)?」と心細い声で泣く彼を、ただひたすらなだめようとすることしかできなかった。

 入院する前、息子に、「取って」という言葉を教えた。欲しいものがあるときに、地団駄踏んでねだるのではなく、きちんとほしいものを指しながら「取って」と言えば伝わるのだと教えた。入院中、彼は初めてそれをできるようになった。点滴を固定する左手のシーネを指して、ほとんど完璧な発音で、彼は僕の目を見ながら「とって」と言った。ぼくは、すぐにでも彼の言葉に応えてやりたかったが、その場で点滴を外してしまうわけにはいかなかった。

 生後すぐに二度の手術をしていることもあって、入院中は、様々な可能性を想定する必要があった。帰省中だったこともあり、通い慣れたいつもの京都の病院ではない。術後の経過を詳しく知る人はどこにもいない。次々と変わる当直の医師たちと丁寧にコミュニケーションを重ねるほかに、僕にできることは、ただ全身全霊で祈るだけである。幸いなことに、思いは通じた。入院当初に想定できたベストに近いシナリオで、息子は順調に快復していった。

 水を飲めるようになると息子は「くっきー」「ぶうぃ(ぶり)」「ごかん(ごはん)」と泣き叫んだ。やがて少しずつ食べられるようになると「こうえーん!?」と外を指差して泣いた。退院が決まるその日まで、いつ退院できるかわからない。だから、いつ公園に行けるかは約束できない。だが、いつか一緒に公園に出かける日を、僕も心から楽しみにしていた。「こうえーん!?」という言葉に「よし、行こう!」と答えられるいまを、だから奇跡のようにありがたく感じるのである。

 道は邇きに在り、しかるにこれを遠きに求む。
 事は易きに在り、しかるにこれを難きに求む。

とは『孟子』の中の一節である。本当に大切なものは、すぐ近くにある。それを遠ざけ、ことさらに難しくしているのは、ぼくたち自身の意識なのだ。

 「こうえーん!?」と言われて公園に行ける。「とって」と言われて取ってあげることができる。ご飯を食べることができ、水を飲むことができる。そんなあたりまえで簡単なことが、どれほどありがたいことかを、いま強く実感している。


 入院中、息子の楽しみは、「きかんしゃトーマス」のDVDを鑑賞することだった。
 よく知られている通り、原作はイギリスのウィルバート・オードリー牧師による絵本だ。オードリーの息子が二歳ではしかにかかったときに、息子を励ますために彼がつくった作品だそうだ。
 そのためか、トーマスには、食事の場面が出てこない。こどもらしい遊びの場面もない。なにしろ登場するのが人間ではなく機関車なので、そもそも動かすべき手足すらない。

 絶食中においしそうなケーキや果物を見るのはつらい。多くのアニメは、健康で食欲があるこどもを想定していて、食事のシーンも遠慮なく出てくる。手足だって存分に動かす。病気のこどもに、特別な配慮はない。その点、機関車トーマスは、食べたり飲んだり、からだを動かすような場面がない。息子が入院してはじめて気づいたささやかな発見である。

 価値あるものは、すべての人にとって近く、容易い場所にあるのだと孟子は説いた。本当に大切なものがあるとすれば、それは存在するものすべてに、等しく与えられているはずなのだ。食べることも、からだを動かすこともできないこどもが楽しめる物語をつくったオードリー牧師もまた、きっとそう信じていたに違いない。


 昨年、ぼくが興奮したニュースの一つは、重力波による中性子星合体イベントの観測だった。世界中の知を集結し、目に見えない時空のさざなみを捕らえ、そこから金やプラチナなどの重元素の成立の起源に迫る発見が得られた。人類の宇宙観が、これからめざましく変容していくと思うと胸が高鳴る。

 だが、手放しには熱狂できない。重力波の観測を実現するために、莫大な資金と才能が投じられている。こうした「ビッグ・サイエンス」の現場に参加できるのは、健康と才能と努力だけでなく、社会的地位や運にも恵まれた人たちである。そうした一部のエリートだけが、知の「最先端」を担っているという発想に、無自覚に加担することがないように注意しないといけない。

 「生命・人間・経済学」と題された宇沢弘文と渡辺格の対談のなかで、宇沢が、経済学における新古典派的な考え方を延長していくと、「どういう行動がいいか」という倫理的な基準が否定され、「儲かることはいいことだ」というスローガンだけが残る、ということを指摘している。これに対し、「新しい研究を生む研究がよい研究だ」という自然科学の風潮も、「現在の社会状況でできる研究を多産的につくるような研究」ばかりが伸びていくという点で、これと本質的に似た現象ではないかと渡辺が応答している。

 問題は、「儲かることはいいことだ」という結論ではない。その結論を生み出すフレームワークの前提に無自覚になることである。完全競争的な市場経済制度のもとで、市場価格で測った国民総生産額は最大化される。そこではたしかに、「儲かることはいいことだ」というスローガンが正当化される。だがそもそも、この理論を成立させる「フレームワークのつくり方」が、市場経済制度を正当化するようにつくられている。そのトートロジーを宇沢は指摘している。これに対し、自然科学研究もまた、無自覚のうちに、ある大きな社会的フレームワークに閉じ込められているのではないかと渡辺は言う。自然科学もまた、価値の問題と独立に真理を探究しているわけではなく、大きな社会的フレームワークのなかに無自覚に組み込まれた価値と深くかかわっているのではないか、と。

 天文学、物理学の目覚ましい成果に胸を躍らせるとともに、どこかでぼくが同時に警戒心を覚えているのは、科学の「最先端」に熱狂する背景に、何か非常に偏った「価値」の判断が、無自覚に組み込まれているように思えるからである。

 重力波の観測は、間違いなく偉大な科学的成果だ。それ自体は素晴らしいことである。だが、そうした「最先端」にだけ、価値ある学問があるわけではない。マルクス・ガブリエルが著書『世界はなぜ存在しないのか』でくり返し口をすっぱくして語っているように、そもそも「宇宙」は「世界」ではない。「宇宙」とは、あくまで物理学の研究領域のことにすぎない。そこには、公園もなければ、親子の関係もない。だから、「宇宙」について研究することは、「すべて」について考えることではない。宇宙は、世界全体(そんなものが存在しないということがガブリエルの主張であるが)よりもはるかに小さい。だが、ビッグ・サイエンスに熱狂する背景には、「宇宙」と「世界」を混同するのに似た誤解がどこかに紛れ込んでいるのではないか。重力波についての研究が、たとえば仏教史や芭蕉の文学にまつわる研究より「先端」だと考えるべき理由はないのだ。科学の成果は喜ばしいが、間違った方向に過大評価しないように気をつけなければならない。
 肝心なことは、知の本質に最も肉迫した特権的な場所など、どこにも存在しないということである。「最先端」だけが価値ある場所ではない。「研究するとは、情熱を持って物事を問うこと以上のものでも以下のものでもない」と言ったのは数学者のアレクサンドル・グロタンディークだ。すべての人が、いまある場所で、「情熱を持って物事を問う」ことこそが、学問の生命である。


 何気なく息子と公園に出かけられることを、いまは奇跡のようにありがたいと感じる。だが、振り返ってみれば、家族で過ごした病院での日々もまた、かけがえのない、大切な時間であった。いつか水を飲みたい、公園に行きたいとみんなで願いながら過ごした、すべての時間に真実があった。

 遠く、難しい場所にだけ価値があるのではない。すべての人が、いまいる場所で、大切なものをすでに与えられている。もちろん、そのことに気づくことは簡単ではない。

 ぼくは、「最先端」を切り拓く偉大な英雄にはなれないし、なるつもりもない。
 その代わり、できることなら、だれもがいまいるその場所で、すでに英雄なのだと気づくことができるような、そういう世界をつくっていきたい。


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森田真生(もりた・まさお)

1985年東京生まれ。東京大学理学部数学科卒業。現在は京都に拠点をかまえ、独立研究者として活動。全国で「数学の演奏会」をはじめとするライブ活動を行っている。2015年、デビュー作『数学する身体』(新潮社)を上梓し、第15回小林秀雄賞を受賞。2016年、編纂を担当した岡潔の選集『数学する人生』(新潮社)が刊行。2016年1月には、ライブで手売りすることを元に作られた『みんなのミシマガジン×森田真生 0号』(ミシマ社)が刊行となった。
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