数学の贈り物

2017.10.01更新

 私たちが直面する重大な問題は、その問題が生み出されたときと同じ水準の思考によっては解決できない−−これは、アインシュタインが残したとされる言葉だ。現代社会はどの方角を向いても「重大な問題」が山積している。が、果たして問題が生み出されたとき以上の水準の思考が自分にできるかといえば、正直なところ心許ない。

 いま世界のスマホユーザは20億人を超えるそうだ。チューリングが知恵を絞って理論を構築し、世界中の科学者たちが凌ぎを削り、膨大な予算を投下して、やっと戦後動き始めた「万能計算機械」を世界中のあらゆる国の老若男女が片手で持ち運ぶ時代が来るとは、チューリング本人も夢にも思わなかったに違いない。こうした技術の高速な普及は、政治制度や貨幣制度のあり方をも根本から揺さぶっている。ここから一体どんな「問題」が生まれてくるのか、それを予測することすら難しい。

 かつてはコンピュータを使うためには、その原理を理解している必要があった。いまやスマホを使うために説明書すら見る必要がない。コンピュータを発明し、開発することは並大抵のことではなかった。世界中の知恵と労力を結集し、膨大な資金と時間をかけてようやく実現したのである。それに比べて、コンピュータを使うことはあまりにも簡単になってしまった。生まれて来たばかりの赤ちゃんですら、自分でスマホを手に取り、動画を再生して喜んでいるのだ。

 コンピュータが専門家の占有物ではなく、子どもを含めて、誰もが使える未来がくるのだと、いち早く見通していたのは計算機科学者で教育者でジャズ演奏家でもあるアラン・ケイだ。先日、そんな彼の読み応えのあるインタビューが公開されたが、その中で彼は、スマホがこれほどまで普及した現状を評して「コンピュータは洗練されたテレビになった」と嘆いていた。

 コンピュータは、新しい時代の鉛筆や紙や本のようにならなければならないというのがアラン・ケイの発想だった。コンピュータはメディアなのであり、しかも単なるメディアではなく「メタメディア」すなわち、あらゆるメディアを作ることを可能にするメディアなのである。この特異なメディアを使いこなすための能力を、読み書きの能力を身につけるのと同じくらい真剣になって身につけていこうではないかと、彼は何十年も前から提案している。読み書きを常識とすることによって人間社会が生まれ変わった。同じように、コンピュータリテラシー(これは単に「プログラミングができる」という表層的な意味ではないことはアラン・ケイがくり返し強調している)を常識とすることで、これまでとは違う人間に生まれ変わることができるのだと。

 『パイドロス』の中でプラトンの描くソクラテスが、文字や書物を批判している場面は有名である。ソクラテスはエジプト王の神タモスの言葉を借りて次のように語る。すなわち、文字を学ぶと、忘れっぽくなる。文字が与える知恵は真実の知恵ではなく、見せかけの知恵である。書物ばかり読んでいると、知者となる代わりに、知者であるといううぬぼればかりが発達する、と。書かれた言葉は真実の言葉、すなわち「語られ、生命を持ち、魂を持った言葉」の影にすぎないのだと彼は訴えた。

 当時、文字や書物は最先端の技術であった。新興のテクノロジーに警戒せよと、ソクラテスはパイドロスに忠告するのだ。「ある技術を生む力を持った人と、その技術のもたらす害と益とを判別できる人は別なのだ」とも彼は言う。

 そんな彼の言葉を、プラトンが文字で記述しているのは滑稽に見える。まるでスマホ批判をスマホで投稿している人みたいだ。しかし、プラトンはこのあとちゃっかりソクラテスに語らせている。書物が見せかけの知恵しかもたらさないならば、それでもなぜ、あえて文字を書こうとする賢人がいるのかと。これについてソクラテスは「慰みのためだ」と答える。文字を書くことは、酒盛りやそれに類した遊びの代わりの「慰み」だと言うのだ。

 いまや読み書きは、慰みどころか、なくては生きていけない能力になった。文字はソクラテスが考えたように、話すことができるのと同じ内容をただ記録するためのメディアではないのだ。文字は、文字によってしか不可能な思考の世界を立ち上げるのである。文字によって、人はそれまでと違った人間になる。いまや社会は、読み書きの能力によって生まれ変わった人間を前提として設計されている。社会そのものが、文字によって変わってしまったのである。

 読み書きを身につけることは大変である。いまだに子どもたちは読み書きを覚えるために、何年も学校に通わなければならない。労働をする代わりに何時間もかけて自己変容のための訓練をするのだ。その訓練の果てでなければ社会に参加できない。そもそもそういう社会が、生物学的には存在しない「子ども」というカテゴリーを生んだのだというニール・ポストマンの論もある(『子どもはもういない』新樹社)。とにかく、人類は膨大な時間とコストを捧げて「読み書きする身体」を生きることを選択したのだ。

 コンピュータリテラシーを身につけることは、読み書き能力を身につけるのと同じように人間を根本的に変容させる可能性がある。コンピュータを単に道具として使うのではなく、コンピュータによって、人間が生まれ変わる未来をこそアラン・ケイは夢見ているのだ。だからこそ、世界中で20億人もの人たちがスマホを片手に、SNSの投稿に一喜一憂し、垂れ流される広告にさらされながら、ただ便利なサービスを受容している現状を見て、彼は「コンピュータが洗練されたテレビになった」と嘆いたのだ。コンピュータはあまりにユーザに寄り添いすぎてしまったのである。それで便利になること自体はありがたいが、結果として私たちは、自ら生まれ変わろうとする主体的な意欲を失っているのだ。

 先人の涙ぐましい努力が生み出した技術をただ便利に消費しているばかりでは、一向に「それが生み出されたとき」の水準以上の思考ができるようにはならないだろう。便利な技術や快適なサービスを消費するばかりでなはなく、それが生み出されたときよりも高い水準で思考する人間を私たちは真剣に育てていかないといけないし、自らもそういう人間に変わっていかなければならない。

 「現代の学校とは、どのようなものでしょうか?30人の人間が他の人間が話すのをきく部屋――まるで中世そのままじゃないですか!」とアラン・ケイは皮肉を込めて言う。片手に収まるこの美しく洗練されたコンピュータを生み出したのと同じくらいの情熱と意志と知恵とお金を社会が教育に捧げるようになったとき、世界はきっといまよりもはるかに素敵な場所に変わるだろう。

【参考文献】
『アラン・ケイ』(アラン・ケイ著、鶴岡雄二訳、アスキー出版局)
『パイドロス』(プラトン著、藤沢令夫訳、岩波文庫)

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森田真生(もりた・まさお)

1985年東京生まれ。東京大学理学部数学科卒業。現在は京都に拠点をかまえ、独立研究者として活動。全国で「数学の演奏会」をはじめとするライブ活動を行っている。2015年10月、デビュー作『数学する身体』(新潮社)を刊行。2016年2月には、編纂を担当した岡潔の選集『数学する人生』(新潮社)が刊行となった。ミシマ社では、数学にまつわる本を紹介しながら、数学を通して「生きること」を掘り下げるトークライブ「数学ブックトーク」を共催。2016年1月には、ライブで手売りすることを元に作られた『みんなのミシマガジン×森田真生 0号』(ミシマ社)が発刊された。

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