第1回 デラシネ的生活がやめられない
2009年のGW明け。
その報せは激震とともにやってきて、約50人のフリーランスをいきなり路頭に迷い込ませた。大手出版社のある部署と業務委託契約を結び、常駐の編集者として働いていた彼らは、その日一番大きな会議室に呼ばれ、重々しい顔の社員たちから「部署は5月末日で解散する」と告げられたのだ。
寝耳に水のニュースに、みんな唖然というか、思考回路が一時ストップする。
(・・・えーっと、つまりリストラだよね? 2週間後には放り出されるってこと?)
しかめ面で「なぜこういう経緯になったか」をとうとうと話す社員の声は、彼らフリー編集者たちの耳にほとんど入ってこない。その脳裏には「転職」という一文字だけがぐるぐると渦巻くか、「ギャラはいつまで保証されるのか?」という問いだけが浮かんでいた。
そこは腐っても大手(←失礼!(笑))、8月末までのギャランティは保証されるということだったが、つまり「執行猶予は3ヶ月」であり、その間に全員、次の就職先や仕事を見つけねばならない。
そんな失望と落胆の悲劇的会議室に、私自身もいた。
・・・が、実のところ周囲の人たちほどショックはなかった。なぜなら以前から部署に求められているスキルと私自身のスキルに大きな乖離があるなあと漠然と思っていて、年内で辞めるつもりだったのだ。12月が8月に前倒しになっただけと思えば、そんなに落ち込むようなことでもない。
しかし、そうかといって、新しい就職先や仕事が待ち受けているわけでもない。さて、どうしたものだろう。
日々というのは、ぼおっとしているとあっという間に過ぎるものみたいで、翌月からこの部署で残された業務を粛々と片付けつつ、他部署の部長や他の出版社の編集者などにお会いして話を聞くも、何も積極的に決めずにいたら、執行猶予はいつの間にか終わりを告げていた。
(しかしながら、フリーランスというのは「ショックー! どうしたらいいの~!?」という自分の状況をついおもしろがったり、悲劇の自分に酔ったりして、のらりくらりと日々を過ごしてしまう性分のイキモノなのかもしれない。ここだけの話、3ヶ月後に次が決まっていた人は5割に満たなかった。)
私は次のことをゆっくり考えるために、しばらく行っていなかった海外にでも行こうと、妹の住むシアトルに3週間滞在した。
23歳で大好きだった雑誌のアルバイトに潜り込むことができ、幸運にもその雑誌の編集者(兼インタビュアー兼ライター)となり、「これが天職」と思いながら働いた。ミュージシャンや映画監督や俳優女優や作家にお会いしてインタビューを重ねる日々は、至福だった。
その後思うところがあり、会社は6年ちょっとで辞めた。以来、ブランクはたびたびあったものの、ライター兼編集者として生きてきて15年が経つ。現在38歳。さて、これから何を書くのか。どう書くのか。
それがシアトルで考えたテーマだった。
シアトルは1年にたった2ヶ月しかない一番よい季節で、毎日嘘みたいに快晴だった。太陽が近く、空が青く、海は穏やかだった。そして妹とその家族(アメリカ人の夫と6歳の娘)や、彼らの友人たちと、毎日のように話をした。陽気で、たくましく、目的を持って日々を生きる彼らは、東京に住む私の大事な友人たちと同様、とても刺激的だった。
ここに1年ほど住んでみるのもアリかもしれないな・・・。そう思う日もあった。
じゃあたとえばシアトルに住むとして、私には何ができるのだろう。「日本語」という武器しかなければ、海外での生活は成り立たない。語学学校の生徒とかではなく、一般の社会人として、どうすればここで生きていけるのか。そんなことも考えた。
そしてなんとなくではあったが、その3週間で近い将来の生活ビジョンが生まれた。
そのビジョンとは、
1. 書きたいものを書くための準備をすること
2. ライターとしては、単行本やロングインタビューだけにしぼること
3. そんな仕事ぶりでは生活できないので、生活の糧はほかの分野で得ること
4. 近い将来にするかもしれない海外生活を視野にいれて行動すること
38歳にもなって、こんな程度のビジョンでとりあえず生きていけるだなんて、独身だからこそだよな〜、と思わず苦笑してしまう。今年の初旬から、これまでの「デラシネ(フランス語で根無し草)」的な生き方をあらためようと思ってきたのに、まったくあらたまる気配がない。ま、思い立ったが吉日、決めたら即実行、だ。私はまず(3)を実行しようと、銀座のクラブで働く10歳年下の友人に連絡をとった。
帰国して4日後、10月3日のことだった。
