第4回 沈黙の語るもの(後編)
『維摩経』(ゆいまきょう)というお経があります。
お坊さんでも仏様でもない主人公が、次々にお坊さんや菩薩などを、論破していくという戯曲的な性格をもった面白いお経です。1〜2世紀に成立したであろう、と考えられており、日本で著されたもっとも古い書物とも言われ(古事記よりも古い!)、聖徳太子作と伝えられる『三経義疏』(さんきょうぎしょ)の中でも解説されています(ちなみにその他のふたつは『勝鬘経』(しょうまんぎょう)と『法華経』です)。
そこでも大切なモチーフとして「沈黙」が登場します。
このお経の主人公の維摩が、そこに集まっている菩薩たちに、分別も対立するものもない世界〈不二の法門に入る〉ということは、どういうことなのですか。と問いかけます。
それを受けて、徳守菩薩、徳頂菩薩、師子菩薩、妙意菩薩、無尽意菩薩、などなどの菩薩は次々と自分の見解を述べていきます。このあたりのシーンは壮観です。
例えば徳守菩薩は「〈我〉と〈わがもの〉というのは二つに対立したものです。我があるゆえに〈わがもの〉があるのです。もしも我がないならば〈わがもの〉というものもないのです。これが不二の法門に入ることです」と応じます。
そして最後の文殊菩薩が答えた後、文殊は、
「さぁ、あなたがお説きください。不二の法門に入るというのは、どういうことですか?」
と維摩に発言を促します。
すると、維摩は「沈黙」するのです。(「そのとき維摩は黙然として、言葉がなかった」)
文殊はその「沈黙」に感動し声をあげます。
「みごとだ。みごとだ。さらに文字や語音も存在しない。これが真に不二の法門に入ることです」
この議論の聴衆には五千人の菩薩がいましたが、その菩薩、みんなが〈不二の法門に入った〉と経典には記されています。
僕が仏の教えに触れていると、なにかを説く時、それは「ひとつの真理」を示すというよりは、「両極端のことを同時に大事にしなさい」ということや、「正反対とも思われるなことが、同時におこっていること」を喚起させられることがとても多いです。
「沈黙」についても同じような印象を受けるのです。
語りかける言葉を否定するのではなく(なにせこの経典も"言葉"で書かれているのですから)、「世界に現れでた言葉"のみ"で考えてはならない」「そこには同時に、"現れるかもしれなかった"無数の沈黙があることを知りなさい」「沈黙でしか、語り得ないものがあるとしたら、それを静かに耳を澄ませなさい」そのような呼びかけを、感じるのです。これは、僕の個人的な感じ方かもしれませんけれど。
「沈黙」から悟りを得た五千人の菩薩。そして宇宙の「沈黙」。
答えめいたものは、今、僕の胸の中にはないですが、せめていつもよりすこし、沈黙というものに耳を傾け時間を積み上げてみたいと『維摩経』から思いました。

