ウソつきの国

 第1回目でも少し触れられていましたが、本書では必ずしも、「ウソはいかん!」と全否定をしているわけではありません。むしろ、ウソを突きつめていくと、「じゃあ常にホントのことを言っていればいいのか?」という疑問に突き当たります。この問いは、本書の終盤にかけて深みを増してゆくのですが、こちらでは第1章冒頭、勢古節全開の、「そんなホントはいらない」をお届けしたいと思います。


短期連載第2回 そんなホントはいらない

2017.02.13更新

 人の家で食事を出され、「うわ、このハンバーグまずいですねえ、奥さん」というような愚か者はいない。「あ、おいしいです」といわなければならない。日本テレビの「満天☆青空レストラン」の宮川大輔のように、「あ、うまーい!」とテレビ的な歓声を上げる必要はもちろんないが、もてなされた料理を褒めるのは世界の常識である(だからわたしは人の家のご飯が苦手だ)。先輩に子どもの写真を見せられ(見せるほうも見せるほうだ)、「うそ、冗談でしょ」という馬鹿者もいない。内心、「なんちゅう顔をしてるんだ?」と思っても、「元気そうですね」などといわなければならない。そして、それが正しい対応である。

 交際上の礼儀というものがある。そんなときに「まずい」とか「ぶさいく」という者を、正直者とはいわない。馬鹿正直ともちがう。馬鹿正直には、正直を貫いて、社会から爪弾きされてもかまわないという覚悟がいる。「まずいですね」というのはただの無神経である。ホントのことをいわなかったにしても、かれをウソつきと非難する者はいない。ホントのことをいってはならない、という場面は洋の東西を問わず、多々ある。

 「おまえはウソつきだ」といわれればいい気はしない。最大の人格否定のようでもある。アメリカで女の人から「Youʼre a liar.」といわれることは、男にとって致命的な侮辱表現だと、なにかで読んだ記憶がある(といって、アメリカ人がなべて正直かというととんでもない)。このように「ウソ」は絶対悪のように思われている。それに照らせば、ホントのことをいわないとか、心にもないウソをつくのは、必要悪ということになるだろうが、「あ、おいしいです」というのが「悪」であるはずもない。礼儀(マナー)上のウソは、不可避的なウソ、義務としてのウソである。

 学生時代、年内に年賀状を書くのはウソだから、おれは正月になってから書く、という男がいた。正論といえば正論である。「明けまして」と書いてもまだ年は明けてはいないし、「昨年はお世話になりました」と書いているのはまだ今年である。だからまあ、まやかしといえばまやかしなのだが、いいじゃないかそんなこと、とわたしは思った。それをウソだのまやかしだのと非難する正しさにどんな意味がある? しかしわたしは、「そんなこと、どうでもいいじゃないか」と口にはしなかった。そんな「どうでもいいこと」で口論する気がなかったからである。各人、好きにすればいいだけの話だ。

 こんな重箱の隅をつつくような正論はだれも喜ばないし、支持しない。そんなかれを正直者とか、正しき行いをする者、と評価する人もいない(いるかもしれないが)。わたしもかれを、「さすが、どんな小さなことにでも筋を通す硬骨漢だな」とはすこしも思わなかった。かれは他のことでは万事、ある屈託を抱えたただの粘着的な男だとしか思えなかったからである。「ウソつき」と男を詰る女だってウソをつくのだ。

 もちろん、自分は新年になってから年賀状を書く、という人がいてもいいし、いるだろう。だれにも迷惑がかからなければ、自分の原則を貫くことはいいことである。だが、それはあくまでも自律のためである。ところが、世の中には個人に服従を強制するウソくさい見せかけの正論というものがある。たとえば、社員旅行は社員の「親睦」のため、という形式的な正論がそれである。それはほんとうはウソだから、おれは行かない、という人がいてもいい。わたしは勤め始めた最初の十五年間ほどは会社のすべての行事に参加したが、その後は参加するのをやめた。社員旅行など土日の休日をつぶしてまでやることか、自由参加でいいではないかと思った。それに元々集団行動が好きではなかった。

 だいたい、強制参加で「親睦」を強要するというのがおかしいのである(社内運動会というのも嫌だなあ)。なかには「親睦」などしたくない人間もいるのだし。社内で信頼関係を築く一番いい方法は、いうまでもなく仕事のなかで築くことである。あいつは約束したことはかならずやってくれるし、仕事にぬかりがない。ウソやごまかしもない。ゆえに人間的に信用できる。こういう信頼感は仕事のなかからしか生まれない。

 交通信号は守らなければならない。赤は止まれで、青は進め、と子どもたちにも教える。それは正しい。が、左右を見渡しても遥か先まで車一台来ないから、赤信号を渡ろうとすると、「信号守れよ」という人がいる。かれはたぶん、正直に信号を守っている自分がバカにされたと感じたのだろう。しかし、社会のルールでいえばかれが正しいが、一個の脳ミソをもった人間の判断としては、もちろん渡るほうが正しいのである。他人の信号無視をとがめる人間は、深夜、犬一匹、人ひとり、車一台通らない大通りでも、赤信号でじっと止まっていなければならない。

 年賀状男はともかく、信号固守男は正しいではないか、エラソーなおまえが間違っている、といわれる方が多いかもしれない。しかし年賀状男も信号男も、その正しさは、たと
えば高音のしゃべりで人気だった社長(今は退任した)の会社のテレビ通販番組で、社員が「なんとこの商品! 二万円を切るんですよ! お値段こちら! 一万九八〇〇円!」とシャウトする「正しさ」みたいなものである。そりゃ、たしかに間違ってはいない。二万円を切っていることはウソではない。が、たった二〇〇円の「正しさ」である。そんなに声を張りあげることか。視聴者(それも高齢者)が「ちょっとお父さん、二万円切ってるわよ!」と小躍りするとでも思っているとしたら、人を舐めた商売をしているのである。

「第一章 そんなホントはいらない」より

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勢古浩爾(せこ・こうじ)

1947年大分県生まれ。明治大学政治経済学部卒業。洋書輸入会社に入社したが2006年に退社、執筆活動に専念。「ふつうの人」の立場から「自分」が生きていくことの意味を問いつづけ、『まれに見るバカ』(洋泉社・新書y)で話題に。その後も『アマチュア論。』(ミシマ社)、『定年後のリアル』(草思社文庫)、『会社員の父から息子へ』(ちくま新書)など著書多数。最新刊『ウソつきの国』(ミシマ社)が2017年2月22日に発売予定。

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