第10回 ふたり
わが家は夫とわたしのふたり家族である。
結婚した日からこどもを待ってはいるが、わたしの体の弱いことがあって、いまのところこどもがやってくる気配はない。
それでもわたしたちが家族であるのにはかわりがないのだが、やっぱりこどもがいる家族からだと、こども不在の家族はさびしい気がするんだろうなぁと想像できる。
こどもと遊ぶと、ほんとうにかわいらしくておもしろくて賑やかで、そしてなによりこどもの存在によっての気づきが多いのでそう思う。
じっさいわたしたちふたりは、かれこれ丸6年あまりこども不在の夫婦としてすごしているが、今までなんどもこどもについて聞かれ、そのたびわたしたちは、どこか申し訳のない気持ちになりながら、こどもはいません、といってきた。
ふたりが家族になりたての頃は、そのことで泣いたりもしたけれど、いまはもうふたりとも、すべてのことをうけいれている。
いつだったかわたしが、
「わが家のこどもは、なかなか来ないよねぇ」
と言うと、
「道草のすきなこどもだから、時間かかってるんだよ」
と夫が言う。
「あとどのくらいかかるかな?」
と聞くと、
「だいぶかかるんじゃない。とにかく道草がすきなんだから」
と夫は知っているし見えているようなふうで答えた。
その日からわたしは、こどものことを聞かれると、わが家のこどもは道草していてなかなかやってこないんです、と答えるようになった。
聞いてくれたお相手にも気を遣わせてしまうことが多いので、答え方はいつも悩ましかったのだが、こう答えるとどこか明るくてお互い気まずくならずにすむのを知った。
日曜日、晴れたので、ふたりで散歩へでかける。
途中、バターを買いに小さなお店へ寄って、甘いおかしをふたつ買い、あたたかいコーヒーを飲む。
「ことしは寒い日が多くて、ちっとも春らしくなくていやだな」
ストールを首にしっかり巻きなおしてわたしが言うと、
「まあ、そういいなさんな、ももこさん。
春には春の、都合があるのよ。
ことしはその気になるのがおそかったんでしょ。
待っていれば、ちゃんと来るさ」
ふーふーとコーヒーをさましながらのんびり言っている。
この人の童話的解釈にはかなわないと思う。
これでなんど救われたかしれない。
(夫のたとえ話には、小人がよく出てくるのだが、この話はまたこんどにする)
通りかかった公園で、夫はごろんと横になり、わたしは持ってきた本を開いた。
妻の散歩。
夕方、妻は「用事なしに歩いて来ます」という。朝からまだ一度も外へ出なかったので。買い物があるときは妻は家から出て行くが、私のように何の用もなしにそこいらを歩いて来るということはない。で、私の散歩コースのうちでいちばん距離の長いのを尋ねる。西三田幼稚園の先をまわって、三田小学校のフェンス沿いに歩いて郵便局の横へ出るコースを妻に話す。
妻が戻った。
「用事なしに歩くのは、気持ちがよかった」
という。いつもそこまで来ると、私がズボンのポケットから胡桃を二つとり出して、掌の中でこすり合わせて音を立てる、団地のフェンス沿いの道も歩きましたという。
この作品で七十代の庄野潤三は、散文のように、短く家族の肖像を書きとめ続けていくのだが、どの箇所をきりとっても魅力的で生き生きとしている。
それはなぜかというと、なにがあっても真剣にまいにちを生きているのが伝わってくるからなのだと思う。
ふたりの生きる姿勢は、まいにちさまざまなことばと想いで絆となっていく。
だれのどんな情報よりも、いちばん近くて小さな夫とわたしの家族の日々によこたわる寂しさや悲しみに向き合って心寄せていなければ、強く自由にはなれないのだろう。
わたしは強く伸びやかなふたりがいい。
悲しみをのみこみ、うけいれ、それでも笑いたい気持ちがどうしても上回ってしまうような、大きな家族に成長していけますように。
夫のシャツにアリがのぼる。
公園のばらは大きくふくらんで、ものいわず、その気になるのがおそかった春の日差しをじっとまっている。
コーヒーが冷めてきた。
雲が流れている。
わたしたちのこどもは、まだ道草している。
思うぞんぶん、道草してくれたらいい。
待っていれば、ちゃんと来るさと思っているから。
