遊牧夫婦こぼれ話。

第33回 「制約」から喜びが生まれる

2017.02.03更新

 雑誌などの紙媒体に書くのとウェブに書くのとでは、どうしても文章が違ってくると感じます。紙に書くと自然と緊張感やスピード感が生まれるのに対して、ウェブの場合は柔らかい雰囲気になる。
 それは自分の場合、ウェブに書くものはこの連載を含めて柔らかいテーマのエッセイ的なものが多く、雑誌に書くものは、取材した人物や事象について書くことが多い、というテーマの違いによるのだろうと漠然と思っていました。しかし先日、ふと、気が付きました。これはテーマの違いのためではなく、字数制限があるかないかによっているのではないかと。

 紙媒体に書くときとウェブ媒体に書くときの、書き手にとっての大きな違いの一つは、物理的に文章を収められる空間の量が決まっているかいないかです。

 紙媒体では、誌面の中に収めなければならないという制約が必ずあります。その度合いはケースバイケースですが、400字×5枚だったり、16文字×500行だったりといった感じで字数が与えられるので、まずはその規定の±数十字を目指して原稿を書きます。自分の場合、いったんざっと書いてみると大抵字数が多くなってしまうので、無駄と思われる部分を削り、規定の字数に収めた上で、表現を整え、編集者に送ります。

 その後編集者に意見をもらって修正を加えるなどしてほぼほぼ出来上がりとなる
のですが、写真なども含めた実際の誌面の形にしてみると、さまざまな理由で行数がオーバーしたり、足りなかったりということが出てきます。
 そこで、誌面の形で出力されたもの(=「ゲラ」と呼ばれます)を見てさらに文章をブラッシュアップします。たとえば3行誌面からはみ出していたら、当然のことながらその分短くしなければなりません。「あと2文字削れば一行減らせる。さてどうするか......」などと考えながら接続詞を除いたり、言い回しを変えたりして、なんとか短くしていきます。かつ、文章のリズムがしっかりと保たれているか、といったことを読み直して確認し、必要があればさらに手を入れる、ということを繰り返します。
 また、行数が足りなければ、「あと2行増やすためにこの段落の最後に効果的な一文を入れよう」と、必死に頭を悩ませたりします。そのようにして言葉を組み直していく作業にはいつもかなりの時間を要します。

 一方ウェブの場合は、こうした作業がほとんど必要ありません。全体が正確に「〇〇行」である必要はまずないし、字数も「〇〇字程度」で大丈夫です。ゆったり書いても問題ないし、字数によって表現を変えないといけないということも基本的にはありません。それゆえ比較的自由に、自分の思うままに書くことができます。結果として、自分の場合、いつも若干予定より長くなってしまいます。また、改行や空行などのスペースも自由に入れやすいため、読者にとっても読む上での負荷は小さく、おそらく雑誌などの文章に比べて読みやすい場合は多いような気がします。


 ただ、最終的に出来上がったものをみると、自分の書いた文章について言えば、紙媒体に書いた文章のほうに、ウェブに書いた場合にはない力を感じるときが多くあります。贅肉がそぎ落とされて文章がぐっと引き締まっているし、一文字一文字を丹念に検討し、簡潔な表現を模索した跡が全体からにおい立つ。あと数行あれば......と思っていたところも、結果としてみると、その数行を減らすためにあれこれ工夫を凝らしたことによって文章がぐっとよくなったように感じるときが多々あります。それが必ずしも読者にとって読みやすいものになっているかはわからないものの、誌面内に収めなければならないという制約の中で磨き上げた文章の中にこそ、自分がこれまで積み上げてきたものが詰まっているような気がします。

 もちろん書き手としては、ウェブだから紙だから、といったことを何かの言い訳にしてはいけないのですが、日々のこうした体験から「制約があることの大切」を最近よく感じるようになっています。


 いまさら改めて言うことではありませんが、デジタル化の発展というのは、あらゆる制約がなくなるという流れでもありました。音楽であれ映像であれ文章であれ、あらゆる媒体が一元的に扱えるようになるとともに、空間の制約も時間の制約も大幅になくなった。時間も場所も問わずに買い物ができるし、いつでもすぐに人と連絡を取ることができる。
 それは、制約が多かったかつての時代からすれば、夢のような話ではあるけれど、いったん制約がないことが普通になると、制約があったことによっていかに人間は工夫し、それゆえの知恵が生まれていたのかということに気づかされます。

 有名な話では、ファミコンの傑作ゲーム『ドラゴンクエスト』(初代)は、たった64キロバイトの容量で作られていました。いまスマホで写真を撮れば、1枚で普通500キロバイトぐらいにはなるので、その10分の1程度の容量の中にあの壮大なストーリーが作り上げられたことになります。また、1960年代のアメリカの宇宙開発プロジェクトである「アポロ計画」は、人間を月に送り込むことに成功しましたが、当時の宇宙船に使われていたコンピュータはファミコンと同レベルのものだったと言われます。

 これらの例のように、驚くほど限られたリソースから大きな成果が出せているのは、いずれも、技術的な制約があったからこそではないかと思います。
 さまざまな制約がなくなったことで便利になり、可能になったことが無数にあるのは言うまでもありませんが、その一方でいまは、人間が工夫せずとも、またあまり考えなくとも、あらゆることがある程度はできてしまう時代です。振り返ると、制約があったことが私たちの知恵を深め、感覚を鋭敏にしてきたことを感じざるをえません。


 制約はまた、喜びや感動の源泉でもあるように思います。
 最近、自宅のそばの北野天満宮で毎月25日に開催される「天神さん」と呼ばれる市場で、山椒味噌を買うのを楽しみにしています。その名の通り、山椒が混ぜ込まれた味噌で、ご飯と一緒でもパンにつけても美味しいのです。それは農家の方の自家製で、おそらくその場でしか買えないものですが、いまや月に一度決まったところでしか買えないものなどほとんどないように思います。
 それだからこそ、25日を待ち望む楽しみがあるし、買いにいくたびに、それを手に取る喜びを感じます。毎月買って翌月の25日までなくならないように、大事に食べているのですが、ぼくはその味を楽しむとともに、そこにある制約の喜びを味わっているのかもしれないとも思います。

 その気持ちは、ぼくが5年間の旅を終える段階で感じるようになったことともよく似ています。旅は終わりがあるからいいのだ、無限に続くわけではなく、限られた時間の中の、二度と同じことは起きえないということを分かった上での日々だからこそ感動がある。だから、旅には終わりが必要なんだ、ということを強く実感したのでした。

 人生も同じです。いつか終わることが分かっているからこそ、いまこの瞬間に感動があるのだと思います。
 あらゆる制約が取り除かれる時代になっても、私たちには死という最大の制約があります。それはおそらく今後もずっとなくならない。そう思うと、どこかほっとするのです。

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近藤雄生こんどう・ゆうき

東京大学工学部卒業、同大学院修了後、旅をしながら文章を書いていこうと決意 して、2003年、結婚直後に妻とともに日本をたつ。オーストラリアでのイルカボ ランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の 勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを 横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。旅と定住を年単位で繰り返しなが ら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌に発表。2008年秋に帰国 し、現在は京都市に在住。著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』『終わり なき旅の終わり』(以上『遊牧夫婦』シリーズ、ミシマ社刊)、『旅に出よう』 (岩波ジュニア新書)。ノンフィクション、サイエンス、エッセイ、紀行文な ど、さまざまな分野の文章を執筆中。京都造形芸術大学・大谷大学 非常勤講師。

http://www.yukikondo.jp/

遊牧夫婦

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