遊牧夫婦

第105回 最終目的地、ケニアへ

2013.06.15更新

 スペインのアルメリアからフェリーでモロッコへ――。

 モロッコに上陸するとすぐにタクシーに乗り込んだ。降りたのは13キロ離れたナドールの市街地だ。砂埃の舞う荒涼とした町並みの中には、多数の羊が溶け込んでいる。ロバが果物を引き、男が生きたニワトリを両手に抱え、女性たちはカラフルな民族衣装に身を包んで歩く。そんな世界だった。

 上陸前、「モロッコはきっと観光客がいっぱいなんだろうな」と想像していた。
 しかしここナドールに限って言えば、見るからに外国人という人間は自分たち以外にほとんど見当たらなかった。街を歩いていると、通りに並ぶオープンカフェでくつろぐ男たちに見つめられ、話しかけられ、警察にも興味津々に眺められる。東洋人というだけで相当目立っているようだった。

「こういうの久しぶりだな」
「異国に来たっていう感じがしていいな」

 4,5か月に及んだヨーロッパ滞在中にはすっかり忘れていた感覚を思い出す。ぼくもモトコも気持ちが高ぶった。再びユーラシア横断の日々に戻ったかのようだった。

第105回 最終目的地、ケニアへ

モロッコ・カサブランカ。名前の通り(「カサブランカ」=白い家)、白 い建物が多いイメージ。

 ナドールからフェス、そして首都ラバトを経て、有名なカサブランカへと移動した。
 それぞれに特徴があり、雰囲気がある町だったが、ほとんどが事務作業で終ってしまった。しなければならないことが2つあったからだ。モロッコからどうやってアフリカ内部に入っていくかを決めること。あとはマラリアの薬を見つけること。
 マラリアの薬は、もっともほしかったものは見つからなかったものの、一応はそれなりのものが手に入った。難航したのは今後の移動手段だった。

 最初は大陸をできるかぎり陸路で縦断して、途中ケニアやボツワナで動物を見ながら南端の南アフリカまで行こうとも思っていた。だが調べるほどに、それが容易ではないことが分かってくる。以前ならおそらく何としてもやっていただろう。けれどこのときはもうその気力も体力も残ってなかった。

 最大の目的だったケニアまで飛んでしまおうと考えた。が、これもまた容易ではないことが判明する。航空券が予想以上に高かったのだ。どのようなルートをとっても、モロッコからケニアまでは空路だと一人20万円は覚悟しなければならなそうだった。

 ラバトやカサブランカで、いくつもの旅行代理店や航空会社のオフィスを訪ねて回った。ネットでもできるかぎり調べてみた。その結果ぼくらが予約することになった航空券は、当初は予想もしていなかったルートのものだった。

 スペイン・マドリッド発、スイス・チューリッヒ経由、南アフリカ・ヨハネスブルグ行き――。アフリカ大陸内部で飛ぶよりも、スペインから飛ぶ方が圧倒的に安かったのだ。
 とりあえず一度スペインに戻ってから南アフリカに飛ぶ。南アからケニアまで、途中で動物を見ながら陸路で北上する。最後にケニアのマサイマラで、動物を十分に堪能して、日本に帰る――。

「たぶんケニアで終わりになるんだな」
 これがぼくらの最後の旅のルートとなりそうだった。ルートが明確になるほどに、旅は終わりに近づいていく気がした。

 カサブランカからは、まずは列車でタンジールへ。ウィリアム・バロウズが暮らし、ジャック・ケルアックらも魅了したこの港町は、白い建物がびっしりと並び、古めかしくも、海が見えるせいかどこか開放的な雰囲気に見えた。列車で隣になり、いろいろと話した若いポルトガル人がこう言っていた。

「タンジールはおれの憧れの場所なんだ。親戚が住んでるからしばらくいようと思ってる」

 目の前は、ジブラルタル海峡。その向こうはヨーロッパ。しかしこちら側はまったく異なるアラブの世界。自分もゆっくりと滞在したい場所だった。

第105回 最終目的地、ケニアへ

タンジール側から見たジブラルタル海峡。海の向こうがスペイン。

 だがぼくらは、列車を降りるとすぐにマドリッド行きのバスのチケットを買った。まずはフェリーでジブラルタル海峡を渡る。それからバスに乗り込み、マドリッドまで行く。そう決めて国境に向かった。
 しかし、フェリーに乗る前の出国審査で予想外の出来事が待っていた。パスポートの写真とぼくの顔をしばらく見比べていた出国審査官がこう言ったのだ。

「ちょっと下の警察のオフィスまで行ってくれ」
「なんでだ?」

 いくら聞いても、詳しくは何も教えてくれない。長蛇の列を並び終わってようやく出国審査の順番が回ってきたのに、なにやら面倒な展開だった。写真の顔がいまの自分と同じに見えなかったらしいことはわかったが、しかしそう疑われたら、どうやってこの写真の人物が自分であることを証明すればいいのだろうか。

「それって案外難しいんじゃないか?」
 そう考えて若干不安になった。

 仕方なく列を離れ、モトコとともに急いで階段を降りて警察の詰所へと行く。小さな部屋の中に入っていくと、そこには、色の浅黒いアラブ系らしい端整な顔立ちの警察官が、一人の少年に向かってまくし立てるように話していた。少年はうなだれ、隣にいた家族らしい女性が心配した表情で見守っている。みながさっとこちらを見たので、ぼくはそのタイミングで、少し大きな声でその警官に言った。

「いったい何がいけないんだ? 次のフェリーに乗らないといけないんだ!」
 しかし警官は、「ちょっと待ってろ!」の一点張り。彼は、少年とのやり取りに忙しく、いま、お前の相手などはできないという顔だった。

 仕方ないので見ていると、少年は突然手錠をはめられた。何をしたのかはわからない。しかしかなり深刻そうな状況だった。もしかしてこの少年もパスポートの顔写真に比べて成長しすぎただけだとすれば・・・なんてわけはないだろうが、さすがに目の前で手錠をはめられるのを見てドキッとした。横にいた女性が、「それだけはお願いですから・・・」という顔で、泣きそうになり力を落とした。

 やましいことは何もなくとも、疑われたら自分も何をされるかわからない。想像が膨らみ緊張した。そしてさらにずいぶんと待たされたあと、やっとぼくらの番になった。

「パスポートを見せてみろ」

 そう言って手を出してきたのは、先とはまた別の、口ひげを生やした彫の深い警官だった。パスポートが本物であるかを確認していた。機械に入れて光を当て、拡大鏡で細部を見る。すると見たことのような文字がパスポート上に浮き出てきた。

「こんなところにも超小さな字で"JAPANPASSPORT"と書いてあるよ・・・」

 初めてのことなので、ぼくらも思わず見入ってしまう。パスポートの厳密なつくりに驚かされる。さらに折ったり曲げたりいろんな検査を繰り返す。だが、当然のことながら問題は何もない。そうしてようやくパスポートの検査が終わると、今度は袋から何やら資料を取り出した。それを見て、ぼくは思わず笑ってしまった。なんと「ひらがな一覧表」だったのだ。

「よし、これを読んでみろ」

 そう言って、そのオフィサーが指さしたのが、「ひ」の文字だった。
「"ひ"だ」
「よし、じゃ、これはどうだ」
「それは"ん"だ」
 とぼくは言った・・・。そうして4つほどのひらがなを読まされるとテストは終わった。もしかしてこの警官、ひらがなが読めるのか?と一瞬思ったが、各ひらがなの発音がアラビア文字で上に書いてあるようだった。モロッコ人にひらがなを読めとテストされる。どこかシュールな、現実とは思えない光景だった。

「よし、OKだ。行っていいよ」

 やっと本物の日本人であることを認めてもらえ、無罪放免ということになった。当たり前だろ、と思いながらもほっとした。気持ちをすぐ切り替えた。

「行こう!」
 そうして今度こそ無事に出国のスタンプを押してもらうことができたのだ。
 走っていくと、幸運なことにフェリーはまだ出発してはいなかった。「遅れているみたいなんだ」。周囲の人が教えてくれた。そして結局、その後出発までさらに6時間も待つことになったのだ。

 夜11時半ごろにようやく出航。翌朝2時半ごろにスペイン側に着き、3時半ごろにやっとバスがマドリッドに向かって出発した。マドリッドに着いたのは翌日午後3時。カサブランカを出てから30時間以上が経っていた。

「それにしてもなぜ国境で、あそこまで疑われたんだろう」
 マドリッドに着いてからも、しばらくぼくはそのことを考えていた。その謎はわからないままだったが、その後ザンビアで、なるほどと思う話を聞いた。スペインで弁護士をしているという日系スペイン人に会ったとき、彼がこんな話を教えてくれたのだ。

「以前、スペインで日本人への暴行が頻発した時期があったけど、やったのは主にモロッコ人だったと言われていた。彼らが日本人を襲ってパスポートを奪い、それをモロッコで中国系の人に売る。そしてそのパスポートで中国系の人がヨーロッパに潜り込むというルートがあったらしいんだ。モロッコからスペインへ渡るとき日本パスポート保持者のチェックが厳しいのはそのためのようだよ」
 その真偽はわからずとも、かなり納得させられる話ではあった。

 マドリッドに2泊した後、ようやくぼくらは南アフリカへと飛ぶことができた。そして動物を見るためのツアーに参加したりしながら、北上し、次々に国境を越えていった。
国境を越えるごとに何かがあった。
 南アフリカからボツワナへは、国境への交通手段が途中でなくなり、国境の前後をヒッチハイクで乗り越えなければならなかった。見ると国境で働く職員もヒッチハイクで通勤し、国境で仕事を終えた職員もまたヒッチハイクで家に帰っている。
 そんな不思議な国境で現地人に紛れて「乗せてくれ! 乗せてくれ!」と手を上げて車を探した。最後に乗せてくれたのは巨大なトラック。ザンビアまで行くというので、100キロほど乗せてもらいパラピエという町で降ろしてもらった。みな親切だった。それが一番印象に残ったことだった。

第105回 最終目的地、ケニアへ

南アフリカ・ボツワナの国境のボツワナ側。 国境の店などで仕事を終えた人が、帰宅するためにヒッチハイク。

 その次に越えることになったボツワナとザンビアの国境では、バスの中に入れていたモトコのバックパックがなくなった。一瞬、これはもうだめかと思ったけれど、モトコのバッグを背負ってザンビアへと国境を越えようとする男女を見つけ、国境を越えられる直前になんとか取り返すことに成功した。
 ただ、このときぼくは、自分の気持ちがいかに疲れているかを知ることになった。もしバッグが戻ってこなければこれをきっかけに帰国することになっただろう、とぼくは考えていたからだ。
 「私もそう思ってた」。モトコも同じだったらしかった。

 何年か前だったら、バッグがなくなろうが何しようが、帰ろうという話になったとは思えない。しかしこのときぼくは気がついた。何かきっかけがあれば、いつでも旅を切り上げて帰ってしまおうという気持ちに自分がなっているということを。

 そして、その気持ちは、バッグ騒動からちょうど2週間がたったとき、いよいよ具体的な形を持つことになる――。

*最終回は、いよいよ明日、更新いたします!

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近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。

オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。

旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。

疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』(ともにミシマ社)がある。

YUKI KONDO

遊牧夫婦


中国でお尻を手術。


終わりなき旅の終わり

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