第2回 旅と生活と結婚
旅を生活にできないかと思い始めたのは、大学院に入ってからのこと。大学4年のときに1ヶ月ほど旅したインドとバングラデシュに強い衝撃を受けたことがひとつのきっかけだった。そのとき、もっとみたい、もっとゆっくり旅をしたいと思い始め、旅自体を生活にしてしまう、という方法はないものかと考え始めた。
一方、そのころ興味を持ち始めたのが、《ルポライター》という仕事だ。もっと率直にいえば、憧れといってもいいかもしれない。沢木耕太郎さんの影響が強く、自分も『敗れざる者たち』『人の砂漠』のようなノンフィクションを書いてみたいと思うようになっていった。
新聞社や出版社に就職して基礎的なトレーニングをまず積んだ方がいい、という声も聞こえたが、自分はもっとストレートに書きたいことを書いて自分を試したい、という単純な思いがあり、またどこかにそれでも何とかなるはずだ、という根拠のない楽天さがあった。それに、物価の安い国で旅をしながらルポを書いていけば、おそらく日本でフリーで仕事をするより金銭的にはラクなのではないか、という気もした。気ままに旅をして、文章を書いて暮らしていく。そんな自由な生活は、日本にいては考えられないはずだ。
そんな思いと同じくらいに強かったのは、学生時代を終えた直後からただ働きっぱなしで何十年という人生をひたすら走り抜ける以外にも、生き方は無限にあるはずだ、という気持ちだった。それは、みながみな同じような人生のコースを歩まざるを得ないと自然に感じてしまう日本社会へのささやかな反発だったかもしれない。学生時代に、そんなことを新聞の投書欄に投稿したこともあった。
ルポライターという仕事を意識するようになってから、沢木耕太郎さんの作品を教科書の ようにして、繰り返し読んだ。これらは、その中で5年半の旅に一緒に持っていった文庫本 の一部 |
理系の大学院研究生活の傍ら、アルバイトで金を貯める一方、ぼくはひとり紀行文などを書きだした。大学院在学中に初めて、書いた文章が金になるという経験をし、大学院卒業直後から、自らテーマを決めて取材し、ルポルタージュを書くということを始めた。2002年のことである。
初めて自分でテーマを決め、取材して書き上げたルポルタージュが雑誌に掲載されることが決まったのは、書き出してから1年以上が経った2003年のときのこと。そのときにはすでに、モトコとともに日本を出て長期の旅生活をしよう、ということが具体的に決まっていた。それぞれ数百万の資金を貯めていて、とりあえずこれだけあれば、アジアでなら数年は無収入でも生活できるだろうな、と考えて。
ちなみにぼくの資金のうち約半分ほどは、大学院の奨学金の授業料を払った残りを使わずに貯めたもの。いままだそれを返し続けていることは言うまでもないが、結論から言えば、それにはほとんど手をつけることなく5年間を過ごすことができてしまった。ちなみにモトコの方は就職してから4年間、この旅のためにコツコツ貯めていった。
モトコにとって旅をする目的は自分とは全く異なった。旅が生活となるかどうかという点は彼女には特に重要ではなかった。とにかく長い旅に出たかったのだ。東京での会社員生活も4年を過ぎ、ちょうど変化を求める時期だったのだろう。
ぼくが旅自体を生活にしたいと思っていたのに対して、モトコは、3年になろうと4年になろうと旅は旅でよかった。帰ったときにはそれまでのような会社員生活に戻るのにさして抵抗はない。だから、とりあえず貯めたお金でやりたいことをやれればいい、そんな気持ちだった。純粋な旅への情熱は、彼女の方が強かったぐらいかもしれない。
そんなに長く日本を離れるのなら、やはり結婚してからの方がいいだろう。二人ともそう思った。このときぼくらはすでに出会って6年が経っていて、いつか結婚することはほぼ確実だったからだ。決心して、モトコの故郷・京都へ行った。
「結婚したらすぐに数年間日本を離れようと思っているんです。その間の仕事はルポライターを考えていますが、実はまだほとんど仕事になっていないんです......」
結婚する数ヶ月前のこと。モトコの両親に会うのはまだ二度目。正式な挨拶ということで、スーツを着て、緊張気味で高級中華料理店におさまったぼくは、とりあえずこう率直に言ってみるしかなかった。とはいえ、一応はモトコが事前に軽く話してくれていたので、
――バカヤロー! 何アホなこと抜かしてるんや!お前なんぞに娘はやらん!
とまではならないことは分かっていたが、そんなに簡単には了承してもらえないだろう、とは思っていた。なにしろ、《現在:ライターを目指すフリーター、今後:二人でアジアを数年ふらふら、詳細未定》という状況なのだ。どうお願いすればいいのか、会いに行く前はそんなことばかり考えていた。
しかし、実際に会ってみると、拍子抜けするぐらいスムーズにことは運んだ。
「夢があるっていうのはいいことだ。応援しているからがんばってきなさい」
それが、超ざっくりの長期計画をおそるおそる話したぼくに、義父がまずくれた言葉であった。すぐに同意してくれたように見えた義母は、
「さ、食べましょう、さめちゃうわよ」
と、すでに目の前に運び込まれていた豪勢な中華料理を目の前にしてうれしそうに言った。ぼくはそんなモトコの両親の温かな心遣いに、ただただほっとし、そして感謝しながら、自分たちではとても食べに行くことのない華やかな料理を心の底から楽しんだ。
帰り、義父母と別れてから、ぼくはモトコと二人で大きなビルの立ち並ぶ烏丸通りを軽やかな気持ちで歩いていた。冬に入りかけた京都は、寒かった。だがそんな寒さも、その夜は、次にやってくる暖かな春を想像させてくれた。
2003年3月――。
京都にまだ桜は咲いていなかった。もう何週間かあとだったら、桜もきれいだっただろうに、と少し残念に思いながらも、小雨が降る中、上賀茂神社の境内を家族や友人たちに囲まれながら二人で歩いた。ぼくは初めて袴をはき、モトコは初めて白無垢を着た。
六月。すべての準備が整って、出発の日となった。
ぼくの両親も東京から関空まで来てくれた。そのことに、この旅立ちがやはりかなり大きいものであることを実感した。家族に別れを告げながら、帰国する日など永遠にこないのじゃないかと思っていた(実際はモトコの姉の結婚式があってすぐに戻ることになったのだけれど)。
学生時代の旅で印象深い国のひとつがフィリピン。戦争関係の短い映像を作るためにも訪れた。そのときとても親切なバイクタクシーの運転手が、インタビューの通訳・ドライバーを引き受けてくれ、しかもその間中ずっと家に泊めてくれた。「ここに寝なさい」と部屋に案内され、夜、家族が土間で寝ていることを知って大恐縮。これはその息子のレヴ。旅をしながら書いたり撮ったりを真剣にやりたいと思い始めたころの懐かしい1枚(2001年) |
決して、ずっと海外生活を続けようと思っていたわけではない。あくまでも3、4年だけのつもりだったにもかかわらず、終わりはこないように思っていた。人生が有限であり、時間が有限であることはもちろん頭では分かっていた。しかし、26歳だった自分に、それは全く実感の持てないことだったのだ。自分たちの前途に広がる未知の国々での出会いや生活を思うと、その広がりは無限であり、だから自分たちがその世界で過ごす時間も無限に思えた。何年か後に、自分がどうやって帰国の日を迎えるのかなど、全く考える必要のないことだったのだ。
