遊牧夫婦

第4回 イラク戦争と50万円をめぐる騒動


さて、イラク戦争がらみの金銭トラブルとはいったい何か?
主役:ある映像制作関係者(以下、映像マン)と、ぼくの友人A、そしてぼく。脇役:なし。事の性質上、あまり詳しく書くことは避けざるを得ないが、以下ざっくりと完全に"オレ視点"で、この出来事を紹介する。

結婚式(2003年3月)の1、2ヶ月前、ぼくは、親しくしていたその映像マンに「イラクに撮影に行くんだけど、一緒に行かないか?」と誘われていた。映像マンは、アメリカのイラク攻撃を止めるために「人間の盾」となっている人たちを撮影したいと言っていた。

ぼくはさすがに結婚式をすぐ直後に控えながら、いつ戦争が始まるとも分からないイラクに「ちょっと行ってきます」ってわけにもいかなかったので断ったが、その代わりにフォトジャーナリズムに興味のある友人Aを映像マンに紹介した。すると二人は意気投合し、Aが一緒に行くことになった。

もちろん、あの時期のイラクに行くというのは、ひとつの大きな決断に違いない。紹介してはみたものの、正直少し不安になり、知り合いのベテランジャーナリストの方に相談したりもした。その方に「学生であるAをいまのイラクに連れていくことは自分なら考えられない」といわれると、もしも何かあったら......という気持ちはぼくの中にも生まれてきた。が、Aは親とも相談した結果、「行く」と決断した。

行くとなれば、あとは、十分に準備をして心を決めて日本を発つしかない。そして3月12日、映像マンとAは緊張の高まるイラクに向かって日本を飛び立った。

二人のイラク滞在の日々がどんなだったかはぼくにはわからない。しかし確かだったのは、二人が目的の撮影を十分にできることなく、3月20日の開戦から何日か後に日本に戻ってきたことだ。無事に帰ってこられたことはとてもよかった。ただそのとき二人の関係は、全く想像もしていない険悪なものになっていた。

そのことをぼくが知るのは、ぼくらの東京での結婚パーティーの前日に携帯にかかってきた映像マンからの電話でだった。あれ、まだイラクなのでは?と思いながら話し出すと、映像マンは怒りと興奮の混じりあった声で、こう言った。

「イラクからはもう帰ってきたんだよ。それより近藤くん、Aと連絡が取れなくなったんだけど、どうにかしてくれよ! 近藤くんからアイツに連絡を取ってくれないか? 全くひどい話なんだ......」

ただごとではなさそうな映像マンの雰囲気に非常にいやな予感がした。いったいイラクで何があったんだろう。パーティー準備を手伝ってくれていた友達の車で、オレンジのネオンと黒い闇に包まれた新宿を走りながら、ぼくは得体の知れない不安を覚えた......。とはいえ翌日は、そんなことはすっかり忘れて、浮かれまくってドンチャン騒ぎ。ああ、こんなに自分たちが主役になれることって今後ほとんどないんだろうな、などと思いながらすっかりパーティーを楽しんだ。数日後に、このトラブルの主役の座が舞い込んでくることなど、全く知らずに。

さて、イラクでのことはのちに二人から聞くことになるが、二人の言い分は異なり、ぼくにはいまもって真相は分からない。その前提で、とりあえず二人ともが概ね一致していた点のみから概要を書けば、こんなことのようだ。

イラクに行くに当たってもともと二人の間にあった約束は、「戦争が始まることになったら、開戦前にはイラクを出国する」「Aにはバイト代は払わない代わりに、旅費、滞在費、その他経費の一切を映像マンが持つ」というものだった。

イラクに入ると、まもなく開戦であることが分かったためにAは帰国することを主張した。一方、映像マンは、まだ大丈夫だからギリギリまでイラクに留まりたいと主張した。それがもとで激しく揉めた末に、Aが「かかった費用(50万円)は自分で払うからとにかく帰らせてくれ」といい、その旨を証拠として一札書いた。そして映像マンも最後には一緒に帰ることを決め、最悪のムードながら二人で日本に帰ってきた。

揉め始めてから帰国までの間は大変だったらしい。イラク→ヨルダン→日本という長い道のりを二人で一緒に行動せざるを得ず、その間、怒りの収まらない映像マンは激しくAを罵倒し続けたようだ。二人とも、心優しい人物ながらも、なかなかオトコくささの漂う人物なので、二人が「この、テメー!」とやり合いながらの道中の凄まじさは、想像を絶するものがある。

それでも二人とも無事に帰国した。映像マンは当然、約束通りさっさとお金をもらって、Aとの関係は終わりにしたいと思っていた。
しかし、である。帰国後、Aが姿をくらましてしまったのだ。そして激怒した映像マンが、紹介者のぼくに、Aを探してくれと要求してきた、というわけだ。それが先の電話だ。
映像マンから電話をもらって以来、ぼくからもAにたびたび連絡してみたが電話は通じないし、メールの返事もない。これは予想以上にシリアスな展開に感じられたので、パーティーの4日後、ぼくは、とりあえず状況を聞くため、映像マンに会いに、彼の事務所に行った。

雑居ビルにある小さな事務所に入って「こんにちは~」と声をかけると、いつもはいたずら好きな少年のようにニタニタと笑って迎えてくれる映像マンが、明らかに不機嫌そうに眉間にしわを寄せている。
部屋の角に押し込められた革のソファーに腰掛け、挨拶もそこそこに「近藤くん、とにかく、聞いてくれよ」と、映像マンはイラクでのことを一気に話した。そして、「ほら、これがその約束の紙だよ」と、Aが金を払う旨自ら書いた紙を見せてくれた。

怒り狂った映像マンの話を聞き、Aの書いた紙切れを見たぼくは、なぜかほとんど疑問も持たずに「Aはいま、彼と話したくないだけなんだろう」と思ってしまった。映像マン自身、Aに結構ひどいことを言っちゃったんだよね、と認めていたからだ。
ぼくは、きっとしばらくしてほとぼりが冷めたら、この紙に書いてある通りAはお金を払うつもりなんだろうと確信した。

一方で、映像マンの怒りが相当なものであることは明らかで、彼は「Aが連絡をこのまま絶つのであれば、親や学校に連絡してなんとしてでも払わせる」と言う。そんなことをしたらAはますます萎縮するばかりだろうし、Aにとっても面倒なことになると思った。そこでぼくはふと思いついて、こんなことを口走ってしまったのだ。

「Aはきっと、時間が経って落ち着いたらまた連絡してきますよ。だから、もうしばらく待ってあげてください。とりあえずぼくが50万円立て替えますから、ほっといてやってください。あとはぼくが連絡をとってなんとかお金を払ってもらうように言うので」

そういって、「ちょっと待っててくださいね」と、ぼくは映像マンの事務所を出た。そして近くのコンビニに行き、やっと貯まった250万ほどの貯金から50万円をポンと引き下した。同じ道を戻って再び雑居ビルを上がって事務所の扉を開けると、ぼくはほとんどためらいもなく、袋に入った50万円を「じゃ、これ」と映像マンに渡したのだった。きっと映像マンも驚いたに違いない。

何度思い返しても、その自分の行動にはびっくりなのだが、とにかくぼくはなにも不安を感じずに、映像マンにお金を払ってしまった。それだけこの映像マンを信頼していたということである。と同時に、ぼくはそのとき、自分の浅い見立てにほとんど疑問を持っていなかったということでもある。甘い。あまりにも甘かった。事務所の一角でぼくらのやり取りを聞きながら事務作業を続けていた女性の、「え、ホントに......?」という不安げな顔がいまも思い浮かぶが、それにはぼくは「大丈夫ですよー」とノーテンキな笑顔で答えていた。

しかしもちろん、世の中そんな単純にことが運ぶはずがないのである。姿をくらましているAが、その後すんなりと現れて、「いやあ、こないだは失礼しました。はい、これ、約束の50万です」「いや、いいよ、こっちこそ言い過ぎたよ。ははは」なんて、展開になるわけがなかったのだ。
そんなことにも気付かずにぼくは自ら震源地にばく進した上、この件自体を非常に面倒なものにしてしまったのだった。

面倒になったことにぼくが気付いたのは、50万を手渡した2日後のこと。映像マンから電話があった。
「Aからさ、内容証明で文書が届いたんだよ。弁護士かなんかが書いているみたいな感じなんだ。どうも、お金、返す気ないらしいよ、あいつは」
なんと、50万円を返すと書いた一札は、映像マンに強要されたもとで書いたものだから取り消す、というのである。

それを聞いてぼくが真っ青になったのは言うまでもない。やっと、事態の深刻さと自分のバカさ加減に気付いたのである。そして、「そういうことになったのなら、申し訳ありませんが、立て替えた50万はとりあえず返してもらえませんか」とぼくは言った。が、映像マンは映像マンで、ぼくに50万を返してしまったらもうAから金を取り返す術はなくなると思ったのだろう。映像マンはこう言ったのだ。

「まずはAに『すでにおれが50万を立て替えちゃったから、頼むからおれに払ってくれ』といって、なんとか説得してくれないか」
ぼくの50万円を最大限に利用して事態の打開をはかろうというわけだ。
その展開はまずい。ちょっと待ってください、とりあえずお金は返してくださいよ、とぼくは迫った。
すると、ぼくが日本を出るまでには金は返すと、映像マンは言った。
「でも、きみがあいつを紹介したんだから、少しは責任を感じてなんとかしてくれ」
というのが彼の言い分だった。あるいは実際に資金繰りが厳しそうだった映像マンは、もしかすると本当に返せないのかもしれない、という気もしないではなかった。

いずれにしてもこうなったらぼくには、Aを探し出してなんとか映像マンと直接話をしてもらうしかなくなった。ぼくが映像マンにお金を払ってしまったのはぼくの勝手な行為なので、Aに、「だから払ってくれ」という気は毛頭なかったが、とにかくAと映像マンが解決に向けて動いてくれないと、間に挟まれた自分はどうしようもないという状況であることは確かだった。

Aとはそのすぐあと、ついにメールでやり取りができるようになった。
Aももちろん、ぼくが気前よく立て替えるなどという展開は全く予想してなく、彼はぼくを巻き込まないためにしばらく連絡を絶っていたようだった。しかし、その旨を説明したメールが来たときにはすでに、ぼくはこれ以上ないほど巻き込まれてしまっていた。Aとしてもぼくのあまりに突飛な行動に、完全に裏をかかれてしまったわけだ。

うーーん......この件を詳しく書き出したら、『50万、返してくれ!―旅の前に 決してしてはならない太っ腹―』などという旅の前の金銭トラブル対策本が一冊かけてしまいそうな気がしてきた。しかしそれは、本連載の趣旨から逸脱しすぎるので、以下、結末に向かって少し急ごう。

さて、50万が手元を離れてから日本を出るまでの2ヶ月ほど、ぼくは自分のルポの掲載先を探したり、旅の準備を整える一方で、50万を取り戻すために大きなエネルギーを使っていた。姿をくらましたかと思ったAは、家に直接行ってみると、案外普通に、一人暮らしの部屋でまったりと過ごしていた。だから3度ほど彼を訪ねて話しあった。

Aは、自分は一切払う気はないという。また、映像マンと話すためにどこかに出向く気もないという。でも自分はここにいる。もし映像マンが話したいなら直接来てくれれば、自分はいるから、そう伝えてくれと、ぼくに言った。じつに真っ当な主張で、そういわれれば、もはやぼくに何も言い返せることはない。
その旨を映像マンに伝えても、彼は「きみが紹介したんだから、責任を感じてなんとかしてくれ」の一点張り。彼はほとんど動こうとしなかった。

つまり、当事者である映像マンとAは、この件についてほとんど動いていない。二人の間をあたふたと動いて作戦を練っているのは、紹介者である自分のみ。その上ぼくは50万円が人質に取られたような形になった(というか、だから動かざるを得なかったのであるが)。その状況があまりにも理不尽に思えてきた。しかし、どう考えても一番バカなのは、やはり自分自身なのであった。

Aと最後に会ったとき「それぞれ自分の利益のために行動しよう」と話して別れた。一方、映像マンはイラクにまた戻ったりしていたため、連絡も思うように取れずで、出国の日が近づいていたぼくの苛立ちはだんだん映像マンへ向かっていった。
紹介者として、自分も責任を感じていたから、この問題を解決するためにできることはやってきたつもりだった。それなのに50万円を返してくれないとはどういうことなんだ、と。とにかく映像マンに金を返してくれるように何度も迫った。もう自分にできることは何もないと確信し、あとは、映像マンが自分でAなり、Aの弁護士なりと話すしかどうしようもない段階まで来ていたからだ。

しかしそれでも返してもらえると明確には感じられなかったので、6月に入り、日本を出るのがいよいよ3週間ほどのちに迫ったあたりからぼくは半ば諦めかけ、もうこれは、取り戻すことを考えるより、バイトをして、失った分を出来る限り稼ぎ直す方が現実的なんじゃないかと気持ちを切り替え始めた。発想の転換は常に大切だ。
そして、以前ちょくちょくやっていた、大手予備校の模擬試験の採点バイトを復活させ(これがとてもお金がいいのである)、あとは買おうと思っていたデジカメのランクを下げて安いものにすることを検討し始めたりした。

だが、もういよいよ日本を出るぞ、というある日、映像マンから突然電話が来た。元気のない声で彼はこう言った。
「お金を振り込むから、口座番号を教えてくれ」
と。そしてそのすぐあと、確かにぼくの口座には、50万円が振り込まれていた。口座の残金を眺めながら、それが自分のお金なのに、なにか大きな臨時収入が入ってきたようなウハウハ感が、全身にいきわたった。もちろん、安堵感とともに。

結果としてはこの事件も、お金がすべて戻ってきたうえに、予定には入ってなかったバイトをすることによって貯金を増やすことに貢献してくれた。そして、すごく大きな教訓を得たことは言うまでもない。
一点付け加えれば、ぼくはこの一連の出来事によって、映像マンに対する根本的なところでの信頼を失いはしなかった。不安を感じながらも、決してこのような約束を破ることはしない人だろうと信じていた思いは裏切られなかった。また、イラクでの出来事の詳細は全く分からないものの、双方と話す中で、どちらか一方が完全に悪いということは決してないと思うようになっていた。

それでもぼくは、自業自得とはいえ、ほとんど傍観者同然だった二人の当事者の間で、ただ一人走り回っていたことにかなり頭にきていたため、もう自分の金が戻ってきたら、それ以上関わる気は全くなかった。
 その後映像マンがAに取り立てにいったり、法廷で争ったり、といった話は一切聞いていない。映像マンはちゃんと争ったら金ばかりかかって決してお金が戻ってくるものでもない、ということをよく知っていたのである。Aもそれを計算に入れた上での内容証明の送付だったのかもしれない。

長くなってしまった。
ある意味当然なことだけれど、これは、あくまでもこのトラブルの顛末をぼくの視点から見た"オレ解釈"であることを再度付け加えておく。当事者が書くものに、客観的などということはありえないからだ。
しかしいずれにしても、ぼくは出発前に思いもよらぬ貴重な経験をすることになったわけだ。ここで得た教訓はズバリ、こうだ。

「開戦前のイラクで起きた他人の金銭トラブルに、分かった顔で首を突っ込むのはやめよう」

途中、金が戻らないかもしれないと思ったときは、50万は授業料と思って、この経験をのちの人生に活かすしかないかな、と考えようとしたりもした。いや、でもやっぱり50万は高すぎる。が、一銭も失わなかったのは、逆に安すぎたかもしれない。

モトコとともに日本を飛び立ったのは、めでたく50万が戻り、にわかにお金が増えたような錯覚を覚えた10日後のことである。
財布もすっかりあったかくなり、このすったもんだも早くも過去のことになろうとしかけていたころ、ぼくらは冬の近づくシドニーに降り立った。

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プロフィール

近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。
オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。
旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。
疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

YUKI KONDO

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