第5回 旅の始まり。オーストラリアからのスタート
シドニー |
2003年6月23日、朝7時半。シドニー着。ここからこの旅は始まった。
初っ端からうれしいことに、シドニーではとりあえずモトコの友だちの家に転がり込ませてもらえることになっていた。そこに一泊させてもらってから、週単位で借りられるこぎれいな宿の部屋に移って、一週間ほどこの街で過ごす。
シドニーに着くやぼくは妙に気合が入って、というか力んでしまって、「よし、何かを取材しよう」とそんなことばかり考えていた。旅をしながら物を書いて暮らしていくと決めた以上、ここから始めなければならない――。
そしてダウンタウンを歩きながらふと不思議になったこと、すなわち「寿司屋がほとんど韓国人や中国人経営であるのはなぜだろう」をテーマに、寿司屋を見つけるたびに、「すみませんが......」と慣れない取材活動を、たどたどしい英語で始めていった。
「余計なお世話だよ!」と韓国人の店主に文句を言われて恐縮したりするばかりで、「こんなんで仕事になるのかな?」と先行きの不透明さを感じつつも、そんな場当たり的な取材活動とともに、旅はぼちぼち始まっていった。いっぽうモトコは、もちろん何も力む必要もなく、新たな旅の始まりに心躍らせていた。
シドニーを出たあとは、少し西のカウラで戦時中の日本人捕虜暴動事件の取材を試み、さらにはキャンベラで友人に再会。そしてもう少し南下してメルボルンに着いたのは、日本を出て3週間ほど経ったころのこと。メルボルンからぼくらは一気に西海岸を目指した。
インディアン・パシフィックというオーストラリア大陸横断鉄道がある。03年7月、この鉄道に乗って東海岸南部のメルボルンから西海岸のパースまで、砂漠を突っ切って3泊かけて移動した。
インディアン・パシフィック鉄道 |
最も安い座席のチケットを買い、3日間、座席での寝泊りとなった。
途中窓から見える風景は、ほぼ全てが砂漠と言っていい。だが、砂漠といっても、NHKのドキュメンタリーなどに出てきそうな延々黄金で滑らかな砂が緩やかなカーブを描いている砂漠ではない。大部分が、どんな劣悪な環境であっても育つだろう強靭な潅木に覆われた広大な赤土の大地だ。それが地平線まで続いている。
その上を、無限に続く真っ青な絨毯のような空が覆う。太陽が容赦なく照り付ける。この過酷な自然の中に存在するのは、リアルな物理法則でしかない。その法則に従って生命が刻一刻と変化していき、環境に耐えられないものにはただ死が待つだけである。
だがその中に何匹ものカンガルーの姿が見える。カンガルーたちは、列車から数百メートルほど離れたところに、ほぼ等間隔にこっちを向いて線路と平行に並んでいる。そしてみな、明らかに手持ちぶさたな様子で、ぼくらの列車が通り過ぎるのをただぽかんと眺めているのだ。
車内は、中央の通路を挟んで2列ずつの座席が左右に並ぶシンプルなつくりだ。そこにはやはりぼくらと同じくらいの年齢の若者たちが多数乗っていた。
通路を挟んだ向こうの席には20代前半ぐらいの西洋人の男と女が座っている。次第に、男はオランダ人で女はオーストラリア人だということがわかってくる。互いに知り合いではないようだが、何らかのきっかけでその金髪の女性が話しかけた。
「オランダは一番クールな国だわ。こっちの方は何でも手に入るんでしょ?」
そういって手を口元に持っていきながら、はっきりとしたオーストラリア訛りで女が話す。マリファナやらについて訊いているのだ。女はおそらくオーストラリアの地方出身者で、海外に出たことはないというような口ぶりだった。外国とはどんな世界なのか。異国では何が起きるのか。次々と予期せぬ興奮が味わえるに違いない。彼女にとってそんな外国の象徴が、堂々とマリファナを手にすることができるオランダのようだった。しかしそれはただ、まだ幼さの残るハンサムなオランダ人の若者と近づくために、女が話の糸口をわずかに与えたというだけのことだったのかもしれない。
パースの東600キロほどのカルグーリーという町で3時間の休憩となる。昔ゴールドラッシュで沸いたこの町で大きなハンバーグを頬張るという、これぞオーストラリアという夕食をとって戻ってくると、先の二人もまた一緒に車内に帰ってきた。お、なんだか盛り上がってて楽しそうだなと思って見ていると、列車が駅を離れて発車したのち、二人は座席の上で毛布にくるまって、一つの席で重なって抱き合い始めた。新幹線の普通席のような座席で、である。
消灯された真っ暗な車内で声を殺しながらではあったが、二人の座席は確実に揺れ、洩れ出る声は、静寂の中に響いた。
昼間、列車の外に見えた荒涼とした風景はまさにイメージするオーストラリアそのものであった。しかしそれ以上に、列車内の小さな座席で絡み合う男と女の姿こそが、自分はいま異国にいるのだということを強烈に印象付けた。
そのいっぽう近くには、何度も「グゲッ」とよく響くゲップをし、そのたびに威勢よく「エクスキューズ・ミ~!」と自慢げに宣言する男もいたが、こういう手合はどこにでもいるのかもしれない。
いずれにしても、列車は抱き合う男女の座席のわずかな揺れを吸収し、闇の砂漠をまっすぐに、西へ西へと走り続けた。
3年か4年と考えていたこの旅生活には、ぼんやりと決まっていたことがいくつかあった。そのひとつが、オーストラリアからスタートし、しばらく定住することである。
オーストラリアはずいぶん前からぼくたちにとって特別な国だった。モトコはオーストラリアで留学経験があり、ぼくにはオーストラリアが初めてのひとり旅の地だった。しかし最も重要なのは、それがともに1997年のことであり、そのときにこの国でぼくらが出会ったということである。
97年、20歳の春。シドニーから始めたその旅の中で、ぼくは、首都キャンベラの大学に留学していた友人に会うために、旅行者にとって興味の引くところの少ないその計画都市に寄った。並木の間に整然と続く道、美しく刈り込まれた緑地。そんな大学構内の寮に暮らす友人の部屋に泊めてもらったとき、同じ寮にいたのがモトコだった。
特にどうということのない数日を一緒に過ごしただけだったが、ぼくは気になってしまった。だから、メルボルンやエアーズロックを回った後、旅の最後に、ぼくはモトコに会うために再びキャンベラに戻った。そして改めて数日を一緒に過ごすことで、なんとかこのまま連絡を続けていきたいと二人とも思うようになった。
このとき、まだモトコには1年近い留学期間が残っていた。先行きの見えない、東京―キャンベラ間の遠距離恋愛の始まりである。
それまで全く知らない仲で、たった1週間ほど会っただけだったため、少し気を緩めるとすぐに全くの他人に思え、油断すると顔の記憶もおぼろげになってしまいそうな淡く脆い関係だった。だからこそ、ありとあらゆる方法で連絡を取り合い、お互いをもっと知り、少しでも距離を近づける必要があった。
メールといってもまだ大学のコンピュータールームで、しかもローマ字で、という時代だったし、電話するにしてももちろんスカイプなどない。最初のころは公衆電話からKDDだったかの国際電話カードでかけていたが、これはなんと5分で1000円ぐらいするので、とても学生の身で使い続けられるものではない。そしてあれこれ調べた挙句、当時一番安く国際電話をかける方法として見つけたのが「コールバック」だ。国際電話が最も安いアメリカに一度電話をかけて、アメリカ経由で他国にかけるとかいう方法である。
これでオーストラリアは1分66円。これは安い!と思ったけれど、それでも30分で約2000円。一時間話してケンカなどすると、ケンカの精神的ダメージに加えて、4000円の経済的ダメージが加わるのはなかなかつらい。それぞれが一日おきに電話をしていたので(つまり毎日話す)、バイト代はほとんど電話代に消えるという有様だった。
毎日電話で話し、毎日大学でメールを送る。そこまではいいだろう。それに加えて3、4日に一度、手紙を書いて送った。そのことをのちに人に話すと、「お、コンドー、マメだな!」と、人によっては評価してくれるが、「へえ、すごいな......」といいつつも、半ばひき気味な人も少なくなかった。
しかしそれらに加えて、ぼくは毎晩、A4のルーズリーフ1枚に全行びっしりと、あれこれ書いてファックスしていたのだ。朝、モトコが寮の事務室に行くと、常にぼくからのファックスが届いているというわけである。
これは明らかにやりすぎだった。かなりウザい。いま、このことを誰かに話すと、ほぼ100%、マジでひかれるか、爆笑される。
そしてやはりそんなことを数ヵ月続けるうちに、危機が訪れた。案の定というべきか、ウザがられたのだ。さすがに駄目押しのファックスは、留学という貴重な異国体験を生きている相手をウンザリさせるのに十分だったということだ。最初は喜んでくれていたはずだけど。(ちなみに、ファックス以外はモトコもほぼ同じレベルで連絡をくれていた。念のために付け加えておけば、ファックスの中身は決して『好き好き好き......』的なものではなく、日常を記した普通の散文である。よく書くことがあったな、という謎は自分でも解明できていない。)
いずれにしても、モトコは、しばらく連絡をやめてほしいと言った。そして、最初に出会った3月から半年後の9月に再度キャンベラに行くことになっていたのだが、それも「もう来ないでほしい」と要請されてしまった。
しかしぼくは、会えばなんとかなるはずだと思い、予定通り97年の9月に、モトコのいるキャンベラへ飛んだ。ほとんど説得のために。
会えばもとに戻るはずだと信じながらも、あふれ出る不安と焦燥感をいっぱいに抱えてソウル経由でシドニーに着く。そしてすぐに、キャンベラまで3、4時間バスに乗った。移動の間中、イーグルスの「ホテルカリフォルニア」なんかをリピートで聞いて感傷に浸ってしまっていた自分をいま思い出すと、20歳の甘酸っぱさたっぷりである。
半年前、離れがたい気持ちを押し殺して別れたキャンベラのバスターミナル・ジョリモントセンターに着きしばらくするとモトコが来た。会えばすべてが水に流れるのでは、という期待を完全に覆す彼女のカタい顔を見たとき、もはや元に戻るのは難しいのかもしれない、と瞬間的に感じた。明確な拒絶の色さえ、見えてしまった。
さまざまな説得を試みたが、追い返されるようにしてぼくは数日で日本に帰ることになる。しかし、その最後の日、ぼくはもうほとんど彼女のこと諦めていたせいか、どうもさわやかに振舞えていたようだ。モトコはその日ぼくと一日過ごすことによって、ふと、最初に会ったころのことを思い出したらしい。そしてそのわずかな変化をぼくは見逃さなかった。まだ可能性があるかもしれない、そう思った。もう数日いれば元通りに戻れるかもしれない、ここで帰るべきではないのかもしれない、とも。
そんな気持ちを抱えながらも、しかし結局決断しきれずに、シドニーから成田への飛行機に乗り込んでしまった。が、そのかすかな光をなんとかしなければという気持ちは、日本に帰ってからさらに大きくなった。そしてぼくは、アルバイト代すべてをつぎ込んで、その10日ほど後にもう一度オーストラリアへと飛んだ。
再び戻ってきたシドニーはすでにとても身近な場所になっていた。石造でくすんだ色のセントラルステーションもすっかりなじみの駅となり、駅のカフェで時間をつぶし、北に長く延びるジョージストリートを歩いた。いつの間にかシドニーが旅先ではなく、東京を歩くような感覚で歩けるようになっていたことが新鮮だった。海外でそのような気持ちになることは初めてだったからだ。
そこにモトコが来てくれた。笑顔だった。
20から21歳になったばかりあの時期、あれだけ情熱的に行動することがなければ、二人とも全く異なった人生になっていたはずだ。オーストラリアにはそんな代えがたい思い出があったのだ。
ちなみに、もしぼくのファックス&オーストラリア連続飛行が拒絶されたまま終わっていたら、モトコはいまごろ、「昔、ストーカーにあっちゃってね、オーストラリアまで飛んでこられたんだよー」などと話していたかもしれない。
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