遊牧夫婦

第6回 バンバリー。イルカの来る町。

2003年に、話を戻そう。

どんな状況だったかといえば、インディアン・パシフィックという大陸横断鉄道に乗って、座席でヤッていた男女をチラチラと気にしながら、何千キロにも及ぶ砂漠を越えて大陸西部に向かっていたところだった。

途中、あまりのヒマさに、休憩ラウンジ車両の片隅に陣取る小さなゲーセンの「ニンジャ・タートルズ」なるカメのアクションゲームに、少年たちに紛れて興じてしまった。カメとなって手裏剣をシュリシュリ投げていると、そんな自分を、「ヒマなんだね」と遠く窓の外からじっと眺めてくるカンガルーの視線を感じる。そして、「お互い様だよ」とつぶやきながらにらめっこ。砂漠はヒマなのだ。

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バンバリーまでのルートはざっとこんな

鉄道は西部最大の都市パースまでだが、ぼくらはそこからさらに180キロほど南下した先にあるバンバリーという小さな港町を目指していた。
パースに着くと、列車の長旅の疲れを癒すという名目でダラダラと過ごしていたらすぐに6日が経ち、むしろうだうだしすぎてぐったりとしてしまった。

が、この間に、初めて自分の書いた4ページのルポルタージュが日本で週刊誌に掲載されたことを知り、ほっとする。日本を出る前に掲載が決まりながら、掲載が延び延びになっていたものだ。これでやっと、ライターと自称してもウソじゃないと、スタートラインに立てたことに安堵した。
さて、7月28日、やっとパースから脱出だ。

午後3時すぎ、パースからぼくらが乗ったバスは、退屈な高速道路をおりてバンバリー市内に入っていった。バスから見える町並みは、これまで通ってきたオーストラリアの田舎町とほとんど変わらない。

大きな道路の脇に丈の短い芝生が生え、ときに巨大なユーカリの木が並ぶ。建物は、上に伸びるのではなく横に広がっていて、だだっ広い芝生の奥にぽつりぽつりと並んでいる。少し高いビルがひとつだけ見えるが、それも10階そこそこぐらい。しかもどことなくモグラが上を向いて立っているような気の抜けた姿で、中でタフなビジネスマンたちがしのぎを削っているとはとても思えない。

地面は緑の植物と茶色の土で覆われ、建物は赤が目立った。全体を調和する青い空は、その日まばらな雲に覆われて白い化粧を薄っすらと塗っている。そんな風景を眺めながらモトコはうれしそうに、そして興奮気味に言った。
「6年前とほとんど変わってない気がする」
モトコにとってバンバリーは2度目。そしてここに住むことが、97年の留学のときからの彼女の夢だった。

オーストラリアの大型スーパーの代名詞ともいえる"Coles(コールス)"がどかんと構える巨大なショッピングコンプレックスの一角に、バスターミナルはあった。ここにバスが止まると、ぼくらはそれぞれ大きなバックパックを背負って、目の前にあるターミナルの細長い建物に入り、近くの安宿の場所を聞く。地元のおばちゃんといった感じの女性職員が親切に場所を教えてくれるので、その通りに歩いて宿に向かった。

閑散として静かなメインストリートを歩きながら、ぼくは、「小さい町だとは聞いていたけど、ほんとに小さいな」と考えて、これから始まる田舎町暮らしに思いを馳せた。しかし、あとで聞いたところでは、このバンバリーが、西オーストラリア州ではパースの次に大きな町だという。当時、パースが人口150万程度で、その次のバンバリーが3万ほどというのだから、オーストラリアがいかに人が少ないかがわかるというものだ。

10分ほど歩いて、"Wander Inn Backpackers(ワンダーイン)"にたどり着く。水色と黄色のペンキでかわいらしく塗り上げられた、一階建ての民家のようなこの建物に入っていくと、入り口の向こうにもカラフルな壁が続き、明るい黄色のリビングに出た。
誰もいないので、「ハーイ?」と声をかけてみる。するとメガネをかけ、キャップをかぶったマネージャーらしき男が出てきて、軽快に「ハイ、ガーイズ!」。まったく英語というのは、親しげでいい。 

7月といえば、オーストラリアは冬真っ只中。全く観光シーズンではないため、泊まっている旅行者もほとんどいないようだった。
マネージャーは、ぼくらよりちょっと年上ぐらいな感じで、いま思えば、キャップと髪型とメガネから、痩せたマイケル・ムーアといった按配だ。名はマークと言った。「泊まりたい」「もちろんだよ」「じゃあ......(以下省略)」といった会話のあとで、ぼくらはすぐさまマークに、自分たちが何の目的でバンバリーに来たかを話したのである。

そう、ぼくらにはバンバリーでしたいことがあった。正確には、モトコに、というべきだが、結果としてはぼくも一緒にどっぷりとやることなった「したいこと」というのは、イルカにかかわるボランティアだ。

バンバリーは野生のイルカがビーチにやってくることで知られる。モトコは、ストーカーと奮闘した留学時代の休みにバンバリーを訪れ、ここでイルカとともに過ごした日々が忘れられなくなったのだ。そしてそのとき、イルカだけではなく、イルカを見にやってくる観光客の相手をしたりしながら毎日イルカのそばで暮らすボランティアがいることを知った。

1960年代にスミスさんという女性が家のそばの桟橋から、近くにやってきたイルカにエサを与えるようになると、それをきっかけにイルカが頻繁に浅瀬までくるようになった。それがバンバリーとイルカとの関係の始まりだ。そして94年に「ドルフィン・ディスカバリー・センター(DDC)」という非営利の組織ができて、観光客を迎えたり、イルカの研究をする態勢が整い始めると、バンバリーはイルカの来る町として知られるようになっていった。

ボランティアはDDCに所属する。その主な仕事は、毎日ビーチに行ってイルカを眺めながら、観光客にイルカについて説明したりすることだ。そしてときに透明に輝く海に入ってイルカと一緒に泳ぐのも仕事のうち。ボランティアといっても、半分はイルカとたわむれているわけである。

留学時にバンバリーを訪れたモトコは、そんな生活をしているボランティアと出会って話をするうちに、いつか自分もDDCでボランティアを、と思うようなった。それを実現するのが、ぼくらの長旅のまず最初の目的となっていたのだ。

ぼくは正直なところ、イルカにそれほど興味があったわけではない。というか全然なかった。もちろん単純に野生のイルカがビーチに来る、という状況はすごいと思った。なにしろこれまでは、イルカといえば、水族館の大きなプールで、笑顔のさわやかなお姉さんが、20年ほど前に日本を熱狂させた"C-C-B"のピンク装束のドラマーよろしくインカムマイクを装着しながら「はい、とびまーす!」というのにあわせて、ざっぱーんとジャンプして輪をくぐる姿しか見たことがなかったのだから。C-C-BからDDCへと、イルカへの距離が一歩どころか大きく前進というわけだ。

ワンダーインのマークに、DDCでボランティアをしたいからバンバリーには半年ぐらいいるつもりだ、と話すと、思いがけず、「じゃ、その間よかったらうちで働かないか?」と言ってもらえた。給料はでないが、1日2時間働けば宿代はタダ、その上インターネットも使い放題にしてくれるという。すべてが願ってもない話。が、その顛末はのちに説明するとして、ここはひとまずイルカの話を続けよう。
 
バンバリーに着いた翌日の朝8時ごろ、早速ぼくらはイルカの来るビーチへと向かった。ワンダーインからは歩いて15分ぐらい。
町は海沿いに広がっていて、砂浜のビーチも長く延びているものの、イルカがやってくる場所は決まっている。ワンダーインから5分も歩くと見えてくる海を左手に見ながら、ビーチ沿いに続く歩道をイルカのビーチ目指してぼくらは少し体をふるわせながら歩いた。

サンタが波に乗ってやってくるオーストラリアの7月は冬真っ只中。特に南部は寒くなる。朝の冷え込みは厳しく、風も強い。オーストラリアの冬?大したことねーべ、などとナめてはならない。サンタがサーフィンしているのは、彼の活動日が夏だからである。

海の水は濁り、ひどく荒れている。人の姿もほとんど見えない。オーストラリアの海といえば、雲ひとつない空に、透き通った淡いブルーの水、そして右も左もキンパツの美男美女が「イェ~イ!」――、という都合のいい想像とは大きくかけ離れた様子にぼくは軽くがっかりした。本当にここにイルカなんてくるのだろうか、と疑いたくなるどんよりムードと寒さに微妙に意気消沈しながらも、ビーチを歩き続けた。

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このビーチに毎日イルカがやってくる

ひと気のない砂浜にポツリと置いてあった青いコンテナを発見し近づいてみると、中には三人の老人がいる。早速オージー定番の陽気な挨拶が飛んでくる。

「グッモーニン!元気かい?!」

ぼくらも答え、聞いてみる。

「ここにイルカが来るんですか?」

細い体と透き通るような青い目が印象的な初老の男が、寒そうに体を小さくしながら、うん、そうだよ、とうなずき、そして答える。
「でも今日はまだ来てないんだ」
やはりイルカは来るらしいのだ。
モトコはすぐに彼らが地元のボランティアたちだということを察知した。

「なんだい、おたくらもここでボランティアしたいのか? まだ季節が悪いけど、それでもやりたいんなら大歓迎だよ」
薄暗いコンテナの入り口で、そんなことをポツポツと話していると、そのうちの一人が
「来たぞ!」
といって、急にコンテナから飛び出した。

強い風にかき混ぜられて荒れた海。水中で砂が舞い上がり濁ったその海面の中に、ぼくには何も見えない。だが、しばらく見ていると、波の合間にときどき姿を現すグレーの三角形の物体があるのがわかった。水面を動き回るその物体がイルカの背びれだということを理解するまでにはそれほど長い時間はいらなかった。

背びれは、姿を見せたり隠したりしながらも海の荒れなどは全くかまわずに、ゆっくりと砂浜のそばまでやってくる。その下に隠れているはずの体の全貌は見えない。しかし、一頭の野生のイルカが確かにそこにいるのがわかった。
それはぼくにとって全く新しい風景だった。イルカが海にいるのは当たり前かもしれない。だが、イルカといえばC-C-Bのインカムマイクだった自分にとって、目の前に野生のイルカがいるというのは驚くべきことだった。

ボランティアのおじいさんたちは、腰まである大きな長靴のようなものをはいて海の中に入っていく。何をするわけでもない。ただうれしそうにイルカを見ている。そしてたまにイルカに話しかけたりしながら、そのイルカが「誰」なのかを見分けるのだ。こんな寒い中、朝早くからじっと海に立つ彼らの背中は、イルカが本当に好きな人たちであることを物語っていた。

イルカは座礁しそうなほど浅瀬までやってくる。でもさすがに、「やべえ、うっかり座礁しちまった」なんてことにはならず、何をするわけでもなく、ただそこにいる。それがこのイルカにとって欠くことのできない習慣であるかように、波にもまれながらおじいさんたちが立つそばをウロウロとしているのだ。

この一頭のイルカの動きを見ているだけでも、バンバリーのこのビーチがイルカにとって特別な場所であることが感じられた。そして同時に、イルカ好きの人間にとってここが夢のような空間であることも明らかだった。
モトコは、波間に見える背びれを、声も出さずにじっと食い入るように眺めていた。彼女はこういうとき、ひとり静かに感激をかみ締めるタイプだ。ぼくが簡単に興奮してしまうのとは逆に――。

そこにいるのは、おじいさん3人、ぼくたちふたりとその他数人、そして一頭のイルカのみ。そんな贅沢な瞬間から、ぼくたちの半年間に及ぶボランティアの日々が始まった。

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このくらいまで近づけるけど、触ってはいけない

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プロフィール

近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。
オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。
旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。
疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

YUKI KONDO

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