遊牧夫婦

第7回 海外で家を探す

今回は、イルカ三昧のバンバリーライフを始めるにあたってのハード面についてのお話。つまり、お金、住処、仕事のこと。

ぼくらの旅全体をマラソンにたとえたらバンバリーはまだ最初の5キロ地点ぐらいでしかない。なのでここで優雅にじゃぶじゃぶ金を使って豪遊してしまうわけにはもちろんいかない(というほどもともと金はないのだけれど)。生活を楽しみつつも、いかに切り詰めるかが重要課題だった。

バンバリーの街。右に立つ高いビルが、バンバリーが誇るモグラ風の「バンバリータワー」。 現地では「ミルクカートン(牛乳の紙パック)」という異名を持つ。

旅の中での最も痛い出費のひとつが宿代である。結構高いし、しかもなかなか削りづらい。最近は「カウチサーフィン」(http://www.couchsurfing.org、詳しくはいずれここでも紹介します)なる素晴らしいものも出来て、旅先でいきなり現地の人のうちに無料で泊めてもらうのも現実的なオプションになっているけれど、いずれにしても長く旅を続ければ宿は避けては通れない。(ちなみに、友人で、このカウチサーフィンを活用しまくり、さらには、各地でいきなり民家をノックして「泊めてください!」と迫る厚かましさ抜群のスタイルで2年間旅を続けている奇特な人もいる。彼はなんと2年間を30万円以下で過ごしているという。厚かましいが不思議と歓迎されるステキな人物であるこの人についても、いずれ詳しく紹介予定。)

ただ、もし長期で一ヶ所に滞在するならば、毎日どこかの宿に泊まるより、自分で部屋を借りてしまった方が安いのは当然だ。

すでに書いたように、ワンダーインのマネージャーのマークが提供してくれた仕事をこなしながらワンダーインに泊まれば、毎日2時間働くだけで二人で50ドル以上(当時約4000円以上)の部屋代がタダになる。これはとても魅力的な話で、すぐにも飛びつかないといけない条件なのだけど、とりあえずぼくらは、どこかに部屋または家を借りるというオプションをまだ捨てずにいた。というのは、その方がぐっと、住民としてバンバリーに暮らしているという感覚になれそうだったからだ。やはり旅を生活とするならば、各地でちゃんと自分のうちに住みたいという思いがあった。旅行者のみが集まる宿にいるのではなく、地元のご近所さんと毎日挨拶するような日々にしたいと思っていた。

しかも、広い一軒家を借りるとしても、月に5,6万円くらいだったので(正確な記録がないのだけど、確かこのくらい)、それくらいなら宿で働かなくてもなんとか二人で払える気がした。また、ワンダーインのダブルの部屋は、二人で半年ほど住むにはちょっと狭いということもあった。

そこでぼくらは、マークが持ちかけてくれた仕事の話をひとまず保留にしてもらって、不動産屋回りを始めた。

オーストラリアは旅行者だろうがなんだろうが、関係なく家を借りられる手軽さがいい。ようは金さえ払ってくれれば誰であろうがかまわないというオープンさがある。しかも、敷金、礼金などなく、確か3ヶ月ぐらいの短期間から借りられた。

部屋探しが趣味のように好きなモトコに引っ張られるようにして、バンバリーに着いた翌日から早速不動産屋を10軒ほど回る。旅行者だろうが、日本人だろうが、不動産屋は「グダイ、マイッ!」("Good day mate!")と誰でも陽気にウェルカムだ。どこもさわやかな笑顔とゆっくりめの英語でぼくらを迎えてくれる。そして、電話でもさらに5軒ほど不動産屋に当たり、よさげな物件を翌日見学に。新聞でも「空き部屋あり、週75ドル」つまり週6000円の部屋を見つけたので、ここにも行ってみる。

物件を見ると、さすがオーストラリア、家はどこも広く、たいてい庭もある。
「ここはいいですわよー、庭も広いし、閑静だし」と不動産屋の熟年のおばちゃん。しかし、なかなか決断は難しい。期待していった2LDKも悪くはなかったのだが、なぜかビビっとこない。家具が微妙にしょぼいなあ・・・・・・などと心の中でケチをつけ、とりあえずやめとくか、というありがちな結論へ。

週75ドルの部屋も、おばちゃんの家に居候という雰囲気で、求めているものとはどうも違う。しかもイヌのニオイが激しいのも大きな減点。おばちゃんはいい人そうだったのだけど。

そうしてだんだん、というか早くも、家探し気分は盛り下がってしまった。いい物件に出会えなかったからなのだろうが、そのうちに「やっぱ、ワンダーインの方がいいんじゃないか?」と、自分たちを説得する理由付けが始まった。

1(-_-;) 安い家を狙うとしたら、立地的に車が必要になる可能性が高い

2(-_-;) 家に二人で暮らしだしたら、宿に住むのに比べて人との交流が減り、英語もあまり上達しないかもしれない

3(-_-;) 家具付きで探していたとはいえ、ああだこうだで生活のスタート資金が結構かかってしまう

そんなマイナス面が急にクローズアップされてきて、だんだんワンダーインの生活の方がワンダフルな気がしてきてしまったのだ。宿の方が人との出会いもぐっと多くなって楽しそうだし、と。

ようするに面倒になってしまったという側面も否定できないものの、結局そんな流れで、数日でぼくらは部屋探し戦線からさっさと離脱。不動産屋のおばちゃんらとも、緑の庭での優雅なオージーライフとも、おさらばだ。マークからの仕事をありがたくやらせてもらうことにして、ワンダーインのダブルの部屋に住むことに決めたのだ。

そうしてついに、ぼくらの新たな住処が決まった。だがやはりその部屋は二人で住むには狭かった。大きなダブルベッドが部屋の8割を占めていそうな空間で、その周辺にイスや机が申し訳程度においてあるといった具合。住む用に作られていないので当然なのだが、ほとんど寝るためだけの場所で、部屋のドアを開けたらいきなり中庭だ。
でも、そんなワンダーインの一室が、ぼくらが初めて一緒に暮らす記念すべき空間となった。

ワンダーインのリビング。ぼくらがこのソファーの下まで日々掃除した。

この部屋の代わりにぼくらに課された仕事は、毎日の掃除とベッドメイクなどである。
客がチェックアウトした部屋の使用済みベッドのシーツを換え、ゴミ箱の中身を捨てる。部屋、リビングなどの床に、オオアジで低性能な掃除機を転がす。またときには、庭の手入れをしたり、生ゴミの処理や洗濯もある。

そのほかに、庭と部屋を隔てるコンクリートの隙間から際限なく出てくるアリの駆除や、屋外のトイレの、どういうわけか便器のボウルの中で発見されるレッドバックという毒グモの退治も、もはや仕事の一部なのかどうかわからなくなっていたが、何かあればマークに命じられるままなんでもやった。ちなみに、トイレとキッチンの掃除だけは、他の日本人イルカボランティアのケイスケくんの担当だったので、ぼくらがやることはなかった。

ベッドメイクはしばらくやっているうちに、結構スキルがついてしまった。もともときれい好きなモトコは、この技を身につけたことで、中級ホテルの掃除長も務まりそうな貫禄を備えるようになった。

部屋数は確か全部で20前後で、二人で手分けしてやると、客が少ない日は30分で終わり、一番忙しいときに2時間かかることがあるといった程度。建物のペンキ塗りを頼まれて熱中して3時間やり続けたこともあるが、いずれにしても簡単で割りのいい仕事だった。


それだけで一日50ドル以上の部屋代がタダになり、インターネットも無料で使い放題、しかも自分のノートパソコンにケーブルをつないでネットをすることもできた(当時はまだ無線ランはいまほど発達していなく、ノートでネットができる場所は限られていた)。ワンダーインに住むことによって、生活の基盤となる多くの問題が一気に解決したわけである。庭付きの家での暮らしに未練がないことはなかったけれど。

朝食は毎日ボランティアに行く前にシリアルなどをさっと食べる。昼飯はDDCでサンドウィッチをもらえる(これがボランティアのほとんど唯一の報酬)。そして夜はだいたい自炊して、週に何度かみなでパブに飲みに行くといった日々。

ああだこうだでよく友だちと外食していたが、それでもおそらく平均すると、一人一日1000円ぐらいの出費だったと思われる。つまり、いろいろ含めてもバンバリー7ヶ月の滞在でかかった費用は一人30万円程度だったはずだ。

ところで、オーストラリアで仕事をするためには正式にはビザが必要となる。ぼくらが持っていたのは、「ワーキングホリデービザ」。これは1年(当時)という期限&年齢制限付き(申請日に18歳以上で31歳未満)で、その間なら旅行しながら働いてお金を稼いでもいいというやつである。ぼくらの場合、給料をもらっていたわけではないので、実際にはこのビザがなくても問題はなかったのかもしれないが、いずれにしても1年間オーストラリアに滞在するための一番簡単な方法がこのワーホリだったため、ぼくらもこのビザを日本を出る前に取っておいた。

とはいえ、マークはビザのことなど一切気にしている風はなかったし、オーストラリアは、その辺は実際には適当なのだ。たぶん。

これで、住居と一応の仕事が整った。
海外で家を探すなどというのは、それまで考えたこともなかったが、実際にやってみると日本となんら変わらないどころか、日本よりすべてがアバウトで楽だった。
たったこれだけのことを経験しただけで、もうどこでも暮らせそうだ、などというのは飛躍しすぎかもしれないが、実際やってみると、気持ちだけは少なくともそんな風になれるものだ。

いずれにしても、そのようにして、ぼくらのバンバリー生活の基盤は出来上がった。
さあ、再びイルカといこう――。

ビーチの夕日。後ろには、ミルクカートン。


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プロフィール

近藤雄生(こんどう・ゆうき)

1976年東京生まれ。ライター。大学院修了後、旅をしながら文章を書いて暮らそうと決意し、2003年に妻とともに日本を経つ。
オーストラリアでのイルカボランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。
旅と定住を年単位で繰り返しながら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌(「週刊金曜日」「読売ウィークリー」「中央公論」「世界」など)に発表し続け、あれよあれよという間に5年半。
疲れきって08年10月についに帰国したものの、旅は生活になると確信。現在、京都から、書籍、雑誌、講座などでいろいろと発信中。

YUKI KONDO

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