第8回 パーマネントホリデー
バンバリーでの毎日は、文字通りイルカとともにあった。海に野生のイルカが泳いでいるという風景は日がたつごとに日常的なものになっていく。
ぼくらがボランティアを始めたばかりの7、8月は、イルカもたまにしかやってこず、観光客も少なかった。9月、10月も、寒さや台風などでイルカ的には実り少ない日々が続いた。本当の意味で水が透明になり、イルカシーズンが始まったのは、11月に入ってからのことである。
そのころになると、イルカはほとんど毎日ビーチにやって来た。そして、そのイルカたちを見るために腰の辺りまで海に浸かって水中を眺める人間たちのそばを、ゆっくりと優雅に泳いでいく。すぐに沖合に帰っていくイルカもいれば、何時間も人間の周りを泳ぎ続けるイルカもいる。突然クルリと体を回して魚を捕まえたり、急に激しく動いてイルカ同士で遊び始め、人々を驚かすこともある。毎日、ビーチでそんなイルカたちを見ていると、いつしか、それぞれのイルカの個性までが見えてくる。
ボランティアの主な仕事は、イルカを見にやってくる観光客の相手をすることだ。具体的には、イルカがビーチまで来たときに、触ってはいけない、追いかけてはいけない、などのルールを伝えること、このイルカの名前は何か、どうやって見分けるかなどについて説明すること。さらに、11月から始まったイルカと一緒に泳ぐ「スイムツアー」に同行しいろいろと手伝うこと、その他、さまざまな雑用だった。
ビーチでイルカを眺める観光客ら。ところどころに見える赤シャツがボランティアたち。 |
仕事の中には、イルカへの餌付けもある。とはいっても、ビーチに来たときに小さな魚を何匹かあげるというだけなので、イルカが依存するようなものではない。ただ、観光客に対して、餌付けをしていることをあまりおおっぴらには言わず、「イルカは人間に興味があるためビーチに来ている」とDDCが公に説明しているのに対して、ちょっとそれはどうなんだ、という声がなかったわけではない。エサ目当てではないとは言い切れず、その可能性もオープンにしないと、見に来る人が「オオ、イルカハヤッパリカシコイネ、ワンダフル!」と必要以上にイルカを理想化してしまう可能性があるように思えるからだ。まあつまり、自分がそのような疑問を抱いていたわけなのだけど、それはおいとこう。
イルカにはそれぞれ名前がついている。成長するにつれて背びれや体に傷がつき、その傷やひれの形でイルカを見分けることができるのだ。網に絡まって背びれの先が裂けてしまったタングルス、背びれの上部が平らなシャンティ、背びれが大きく三日月の形をしたランピー......。
毎日モトコは幸せそうだった。
「今日は、ジェットとシャンティが2時間もビーチにいたよ」
彼女は、ほぼ毎日ボランティアに行き、イルカがビーチにやってくるといつでも喜んでいた。
背びれなどについた傷で、イルカは見分けられる。このイルカは背びれの先端に小さな切り傷状のものがあるため「ニッキー」(nick=切り傷)という名前、だったはず。 |
その一方ぼくはといえば、もともとそれほどイルカに興味があったわけではないので、野生のイルカの姿を毎日のように1ヶ月も続けてみているとだんだんとありがたみがなくなってきてしまった。ぼくはイルカの名前もなかなか覚えられず、たとえるなら、イチロー、ナカタ、さらにはダンディ、といった超大御所しか自信をもって見分けられない体たらくだった。ゲッツ。
そしてときに、「イルカ? ただのビッグフィッシュだろ」などと冗談を言ってイルカ好きなボランティアからヒンシュクをかったりしながら、週に3,4日ビーチに行ってボランティアをした。残りの時間は、何かネタを探しては取材をしたり(それもたとえば捕鯨の話だったりで、イルカ仲間にはとてもいえない)、カフェで文章を書いたりして過ごした。とはいってもまだライター業はほとんど仕事になっていなかったが。
が、そんなことを言っていてもやはり数ヶ月も経つと自然とイルカに愛着と親近感が沸いてくる。いつも話題の中心だったイルカという海洋哺乳類は、いつしかぼくにとってもイヌよりもネコよりも身近な存在になっていた。
夏が近づくにつれて、イルカの数とともに観光客も増えていく。そして同時に、ボランティアの数もどんどん増えていった。冬にはとても少なかったぼくらのような外国人ボランティアは、ピークシーズンの11月ごろには20人ほどになった。出身国は、イギリス、フランス、アメリカ、スイス、オランダ、日本、ドイツ、南アフリカ、スウェーデンなど多様で、ぼくらの"職場"はどんどん国際色豊かになっていった。
バンバリーでボランティアまでしようというイルカ好きたちはどんな人間だったのかといえば、たとえばこんな男だ――アーロン、28歳。
彼はちょうどぼくたちと同じ頃、すなわち、まだ冬真っ只中の7月末にバンバリーに来た。いかにもイギリスっぽい高貴に聞こえるがラフな英語を話すイギリス人で、まさに典型的な「ポム」だった(=POM。イギリス人のことを指すオーストラリアやニュージーランドのスラング)。
アーロンは、全身に贅肉をリッチに蓄えている一方、髪の毛の貯蓄は早くも底をつきそうな危機的状況だった。その風貌で、しかも英語ネイティブ以外には理解不能なギャグをぼくらにも連発する。決してもっともモテるタイプではない。自他ともに認めるビースト系だ。しかし、船のエンジニアとしてハードな船旅をこなす海男のせいか、礼儀正しいジェントルマンで、友だちや家族への想いも熱い、とてもいい男だった。海が好きで、やはりイルカも好きだった。
単語一つ一つをスタッカートのようにはっきりと切り、疑問文の最後をむしろ下げて話す。朝はベイクド・ビーンズをパンにかけて食べ、夜は近くのパブで、キルケニーやキャフリーズというクリーミーな泡におおわれた黒いアイリッシュビールを嬉しそうに数パイント乾し、大声で笑いながらプールテーブルに張り付いて玉を突く。
バンバリーのメインストリートにあるトラファルガーというパブにはよくみなで行ったが、暗いカウンターにはいつも、赤い顔でろれつの回らないゴツいおっさんたちが座っている。
「グダイ、マイッ!元気かい?」ってな具合にひとりが話しかけてくる。そして
「おれは、週に3回はここでメシを食ってんだ。ここのシェパード・パイは最高だ」
見ると男の前には定番のイモと肉のパイ、そしてスープ。ここの食事らしいメニューはほとんどそれぐらいなのだが、これを週に3度食べるのがオージーだ。それと、フィッシュ&チップス、そしてバーベキューの厚切りステーキとソーセージだけで、ほとんど彼らの食生活は完結する。じつにシンプルでわかりやすい。栄養が偏っていることもまた極めてわかりやすい。しかし、それでいいのだ。オージーはワイルドなのだ。
アーロンはたとえばそんな男に絡んで、
「よし、あんた、プールだ」といって、さらにガバガバ飲み、ガハガハ笑いながら、隣の部屋で玉突きを始める。そのノリについていくのは、日本人気質の自分たちにはなかなか難しいが、そんな豪放磊落な様子がオーストラリアの持ち味であり、よさなのだ。
そのような単純で幸せな夜が、いろんな国籍のボランティアたちとともに、毎日のように繰り返されるわけである。
ボランティアの紹介をひとりずつ始めたら切りがないが、ここでもうひとりだけ詳しく紹介したい人がいる。ペリーという当時アラフォーだったと思われる白人女性だ。
ペリーは、ぼくらがバンバリーに来たのと同じころ、まだ冬だった時期にボランティアを始めたうちのひとりだ(アーロンもそうだった)。外国から来たボランティアがぼくたちを含めてまだ3,4人でしかなかったころだが、その中でペリーだけは、これからオーストラリア人としてバンバリーに住む、という点でぼくらとは異なっていた。彼女は移民としてオーストラリアにやってきたのだ。
「私もついこないだバンバリーにやってきたのよ。これからずっとここに住もうと思ってるの。だからここで何かやろうと思って」
英語を母国語とする白人の彼女を、ぼくは単純にイギリス人かな、と思っていた。だが、出身を聞くと彼女は言った。
「ジンバブエから来たのよ」
そのときぼくにとってジンバブエという国は、名前しか知らない多くのアフリカ大陸の国の中の一つでしかなかった。しかしその後、なぜペリーが遠くジンバブエから、はるばるこのオーストラリアへやってきたのかを知っていくうちに、アフリカ大陸南部のその国は、ぼくにとってもはや地図上の存在ではなくなり、そこに生きる人々の息遣いが聞こえてきそうな土地になっていった。
ペリーは週に何度かボランティアに現れ、ぼくはときどき、彼女と一緒にイルカを見ながら砂浜で過ごした。穏やかな女性だった。そして、ときどき出てくるジンバブエの話をぼくが詳しく聞きたいというと、まだ彼女にとって生々しい祖国での日々をぼくに話してくれた。
ペリーが母国ジンバブエを出たのは、2003年6月のこと。ぼくらが日本を出たのと同じときで、当時はまだ数ヶ月前のことでしかない。母国ジンバブエを発つ日、彼女は2人の子どもとパートナーであるブルースとともに空港で飛行機の離陸を待ちながら、こう考えていた。
「もう二度とこの国には帰らなくてもいい」
今度いつ会えるかも分からない友人や家族との別れは言葉にならないほど辛かった。しかしそれでも、彼女たちはこの国から脱出することを決意した。その決断の発端は、そのさらに3年前、2000年2月にまで遡る。
その月、ジンバブエのロバート・ムガベ大統領は、自らの権力をさらに強固にするために憲法改訂を試みたが、その試みは国民投票で否決されることになった。それは、ジンバブエを独立に導いた英雄とされながらも、その後独裁的に国を支配し続けたムガベに対する、国民の拒絶の意志だった。
否決に激怒した大統領は、自らの反白人的政策を強引に押し進めることを決断する。すなわちムガベは、白人から農場を取り上げるという土地政策を狂気的に遂行し始めたのだ。ペリーの生活が変わっていくのはそれからである。
ペリーはその頃、400ヘクタールほどの農場を持つまさに白人の農場主だった。上記の国民投票否決から3ヶ月後の5月には、ペリーのもとにも「90日以内に土地から出て行け」という文書が政府から届いた。無視を決め込んでいたが、その後、周囲で理不尽な事件が次々と起こり始め、状況が深刻であることを気付かされた。
周囲の白人農場主の土地に次々と「退役軍人」と称される連中がやってきて、土地が占拠されていく。そして、彼らと白人たちの間で喧嘩が起きると警察がやってきて白人のみを逮捕していく。また、反政府系の新聞が車の中にあったというだけで逮捕されるようにもなっていった。
いつどんな理由で捕らえられるかも、誰に襲われるかも分からない。常にそんな恐怖におびえ身を震わせているうちに、日々の不安はどうしようもなくなった。
その上、インフレ率100%以上という厳しい経済状況が追いうちをかけ、2002年4月、ペリーはついに農場を手放すことを決断する。それは同時に、ジンバブエで生きる手段を失うことを意味していた。
それから1年間、ペリーはジンバブエを出る準備に奔走することになる。移住先としてはザンビア、モザンビーク、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダといった選択肢があった。留学したこともある隣国南アフリカへの思いはあったが、アフリカ大陸を出ないことには不安は消え去らない気がした。
そして、気候なども考えた結果決めたのがオーストラリアだった。息子と娘、そして3年前にガンで亡くなった夫の友人で現在のパートナーであるブルースと4人で、すべてを新たにやり直すためにオーストラリアへの移住を決意したのだ。
空港には、両親と妹の家族が見送りに来た。
両親は厳しい状況ながらも可能な限り自らの農場で生き続けることを決めていた。妹は大きな都市に移りビジネスを始めた。それぞれが選んだ生き方を信じつつ、ペリーは家族に別れを告げ、アフリカ大陸をあとにした。
バンバリーに着き、生活が落ち着き始めると、ペリーはこれまでやってきた看護士の仕事を再開した。そして週に数回の空いた時間に始めたのが、DDCでのボランティアだった。
ペリーの2人の子ども、ルイーズとアンドリューは、まだ10代半ば(当時)とは思えないほどしっかりとしている。たまに母親のボランティアについてきて一緒にイルカを眺めているルイーズの眼には、過酷な日々を乗り越えてきた末に備わった落ち着きと思いやりがありありと伺えた。
ペリー(左から2番目)は家族とともにバンバリーに来て、穏やかな日々を心から楽しんでいた。パートナーのブルース、息子のアンドリュー、娘のルイーズと。 |
アンドリューはある日朝食のシリアルを食べながらペリーに思わず言ったという。
「毎日こんないろんなシリアルが食べられるなんて、なんて幸せなんだろう!」
ともに苦難を乗り越えてきた子どもたちと一緒に暮らし、海でイルカを眺める彼女の顔からはいつも微笑みが絶えなかった。
「バンバリーに来てみて初めて、ジンバブエでどれだけ自分が怯えながら暮らしていたかがわかったの。あの国では、パトカーの音が聞こえるたびに私はルイーズを抱いて怯えていたわ。もうそんなことは必要ないと思うとうれしくてたまらないの。そして、そんなことはもう忘れて、ここで新たな人生を始めたいと思ってるのよ。ただ子供たちはいつか向こうに戻りたいって言うかもしれないけれど......」
ルイーズとアンドリューの学校の休みが近づいていたとき、その二週間の休みにどこかに行くのかと聞くと、ペリーはいった。
「何も予定はないの。ずっとバンバリーにいると思う。もうここにいるだけで十分なのよ。今のバンバリーの生活自体が私たちにとってはパーマネントホリデー(永久休暇)だって気がしているわ」
イルカが目の前の水面からその背びれだけを出している。その優雅な動きをのんびりと眺めながら、ペリーは娘のルイーズを強く抱きしめた。ルイーズは、そんな母親の気持ちを全身で受け止めるように、彼女に体をあずけて静かに微笑んでいた。
バンバリーのイルカたちは、そんなペリーの事情とは全く無関係に、澄んだ水面の下を流れるように泳ぎ続ける。しかしその姿が、さまざまな理由でこの国にやってきた人たちに、大きな安らぎを与えてくれるのは確かなようだった。
ペリーとイルカとバンバリー。 |
